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「国語を学ぶことの意義」ってなんだろう?

 

 僕は、国家資格を2つ持っている。1つは運転免許だから珍しいものではない。いきなり余談になるけれど、僕が教習所に行っていた5年前、「運転免許を持っている人が6000万人を超えた。国民2人に1人」という新聞記事を見て、ビックリした覚えがある。こんな誰でも持ってる資格を教えるのに、なんで教官はエラソーなのかと呆れたこともあったが、まあそれは今回の本題ではない。今回の本題は、もう1つの方の僕が持っている国家資格「教員免許(国語)」だ。

 そして再び余談。教員免許は、正確には「中学校(または高等学校)教諭一種免許」といって、そのあとに何の科目かが書かれている。1種と2種は四大卒か短大卒かの差で、具体的にどう違うのは知らない。僕が持っているのは中学校と高校の国語の1種教員免許(ちなみに小学校はちょっと特殊な教員免許になるので、そんじょそこらの大学では取れない)。大学の所在地で発行先が決まってしまうので、神奈川県教育委員会発行となっているのが面白いけど、別にこれが北海道や沖縄県だって、効力に違いはない。教員になってしまえば(ならなくたっていいけど)どうってことはないのだ。

 やっとここで本題に入る(前説が長いという悪文の典型)。ミもフタもない言い方かもしれないけど、「国語って何の役に立つの?」ってみなさんは考えたことはないだろうか?漢字はまあいい。いくらでも知ってて損はない。でも、「筆者の考えを述べよ」って、本当に筆者本人がそう言いたかったのか、怪しいんじゃないか?って僕は高校生の頃思っていた。現代文は勉強しなくたって点がとれたし、古文・漢文はそう面白くないし・・・そんな僕が、国文科で勉強したことを開こうと思う。この文章を読んでいる人は、きっと「国語」の授業を受け終えた人ばかりだろうけど、もし国語嫌いの子供さんがあるなら、教えてあげてほしい。なお、この文章はもちろん僕個人の考えであり、文部省の見解なんか知ったことではありません。

 現・古・漢・書の別に見てみよう。

<現代文=「筆者のいいたいこと」を見極めるため>
 さっきも書いたが、「筆者のいいたいこと」という扱いが難しいけど、限られた文章の中で、筆者がいいたいことを読み取るのが「現代文」だ。もとの文章全体を見るわけではないから、どうしても筆者が本当にいいたいこととは異なってしまうけれど、そこはしかたないとするしかない。筆者だって文章の量り売りをしているわけでないから、そう都合良い長さばかりの文章を掲載できはしない。だから、限られた文章の中で筆者の言いたいことを読み取ろう、というのだ。

 で、なんでそんなことをしなくてはいけないのか。これは、誰もが目にする可能性のある文章を誰もが理解する力をつけたい、というが目標であるからだ。誰もが目にする可能性のある文章とは・・・「マニュアル」である。実社会に出ても、何かと「マニュアル」はお世話になる。最近、我が家で電気ポットを新調したのだけれど、そんなものにもマニュアルがついていてビックリだ。笑えるのが「故障かな、と思ったら」というページで、「(症状)電源が入らない→(原因)コンセントが抜けていませんか?→(対処)コンセントを正確に差し込む」なんてことが大マジメに書いてある。そんなことワザワザ書くなよ・・・

 また話がそれてしまったけど、そんな誰にでも分かる「マニュアル」は、国語的にはすばらしいものだ。なんせテキトーに傍線を引っ張て「いいたいことを述べよ」なんて問題を作ったら、誰もが正解できる文章でなくてはいけないのだ。そういった肝心な文章を読み取ることができる力をつけること、これが現代文の授業に与えられた使命なのだと、僕は思っている。

 もちろん、小説や詩や俳句はこの限りでなく、「こんな世界もあるんだよ」というようなことを知って、親しんでもらうためものだ。興味を持てば、自分から学んでみようという意識が持てるはずである。ここには、最近は本を読まない人は徹底的に読まないから、授業で「こんな面白い世界もある」と紹介しない限り、親しみが持てなくなってしまっている現状がある。しかも、授業がつまんなければ興味なんか持つわけないし、教科書には「単純に面白い」文章は、滅多に載っていない。これでは、親しみなんか持つわけはない。そんなところに、どんな素材にも面白みを発見させられることが、教える側には求められるのだ。簡単なことではない。

 一応、どんな素材にも「学習の目標(教師用)」ってのがあるんだから、それをまず明確にするなり、今こういうことを学んでいるということをハッキリさせないと、やはり国語は何を教えたいのか分からんという批判に繋がってしまう。なんのために勉強なんかするのか?って生徒自身が考えることはいいことだけど、それでムダであるという結論に達してしまったら、そこまで無意味な勉強を続けたことになってしまい、時間を無駄使いしたことになってしまう。それは悲しい。

 せっかく楽ではない勉強をするのだから、できるだけ国語の魅力に触れてほしいと僕は思うし、そこからいろいろな本を読んで多くの考えを誰もが知ってほしい。

 なんか支離滅裂だけど、まずは現代文についての文章が終わったところで、ひとまず文章を終えたい。続きは次回。

1999/5/7


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「国語を学ぶことの意義 古文編」

 前稿では、現代文についてのみ表題について論じた。本稿はそれに引き続いて、「国語を学ぶことの意義」を、古文という科目の範囲でみていこうとするものである。

 と、堅苦しい書き出しで書いてみたが、実はどう文章を組み立てようか困っている。「なんで古文なんか勉強するのか?」という疑問に対する、僕なりの答えは一応用意している。ところが、それを中学・高校の教室という場で開くには、ちと難しいものがあるからだ。どーしても大学の教室でしか学べないような内容になってしまうかもしれないが、そのへんはご了承のほどを。

<古文=日本人なら知ってろ!>
 とっても乱暴かつ非論理的も甚だしいけど、まず僕はこう言いたい。「古文で扱うような教材の内容は、日本人なら知ってろ!」と。
 
 もうちょと言葉を選ぼう。僕がここでいう「古文」というのは、明治維新以前に発表・出版された文章のことだ。実は、文章表記の実態からいうと、戦前は全部古文に含めても悪くない。なんせ、夏目漱石や森鴎外といった明治の文豪の文章でも、初版本を読むのはけっこう骨だからだ。でも、「言文一致=古文と現代文との差」と考えるなら、実は明治維新よりはるか前にその傾向はある。教科書には「言文一致は明治期の仮名垣魯文『安愚楽鍋』に始まる」なんて例に引かれてたりするけれど、言文一致は江戸時代にすでにあった。だから、境界がどうも曖昧になってしまう。でも、世の中が1日でガラッと変わってしまうことはあり得るけど、文学が1日で変わることなんてあり得ないのだから、厳密な区分なんて無意味だ。

 なんかズレてしまったので、軌道修正。なんで「日本人なら古文を知ってなきゃいけない」のか?現代の文学というものも、ある日突然始まったわけではない。例えば、大正期の文学があって、そこから思想・文体(表現)・テーマなんかがどこかで繋がりあるいは進化し、現代の文学の礎となったはずである。そんな大正期の礎は明治期であり、江戸期であり・・・って遡ってゆくと(ホントはもっと細かく考えるべきだけど、イメージとして)、結局は記紀万葉の時代まで遡っちゃうわけだ。つまり、今何気なく読んでいる本も、日本文学という流れの中の一つなのである。

 だから古文は日本人なら知ってろ・・・って結論づけるのはかなり乱暴。結論はもうちょっと読んでいただくことにしよう。

 古文の授業でやったことを思い出してみると、バリバリ文章を読んでいた、なんてことばかりではないはずだ。きっと「文法」なるものをひたすら詰め込んでいたのではないだろうか?動詞の活用、助動詞の活用、接続・・・「絶対将来役に立たないよな」ってことばかりだった。そんなことを覚えてなんになるのか?答えは簡単、「古文の文章を読むための練習」である。文法的な事項を知らないと、古文を読むのは面倒だ。古文なんか読まないよ、ってのはもっともな意見だけど、それは困る。

 僕は声を大にして言いたいんだけど、「古文の教材として扱った文章で、『単純におもしろい』ってものはあったか?」答えはノーである場合が多数。でも、なんで古文で扱う文章は面白いものがないんだ?って思ったことはないだろうか。なんか教訓や示唆に満ちていて、宮廷の人がしゃなりしゃなり、オチは諸行無常・・・なんてのが古文のヒナ形ではない。単純に「おもしろい」っていう文章なんか、いくらでもあるんだ。単純に「おもしろい」ってのは、なんで活字の週刊誌を読まないで、マンガ読んでるんだ?って突然聞いたとしたら、「面白いから」って返事が返ってくるだろう。それと同様で、ホントに単純に純粋に「おもしろい」って文章、それが教科書には単に載っていないのだ。

 どうしても『万葉集』『古今和歌集』『土左日記』『大鏡』『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『方丈記』『徒然草』『奥の細道』なんかは、「文学的に価値が高い」ということで評価され、教科書に載っている。それはもちろんそうなんだけど、単純に面白いかというと、そうでないことだって多い。面白いものばかり教科書に載せるわけにもいかないから、どうしても理屈っぽい難しいものばかりになって、古文は七面倒臭い科目だと思われてしまうのだ。しかも、編集の都合で長い文章の一部しか載せられないから、「この話はつまらん」って思い込まれたら、もうアウトだ。本当はおもしろいのに(たとえば、『土左日記』は言語遊戯の宝庫だったりする=学校では教えない=から、そこを見ればおもしろい)。

 ここで突然問題。僕がS大学文学部国文学科在籍当時、専攻していたジャンルはなんでしょう?

 答えは『近世散文』、いわゆる『戯作(げさく)』ってヤツ。ハッキリ言って女遊びの話や、お金の話、古典のパロディなんかなど、単純におもしろかった。こんな「単純におもしろい文学」があるのを知ったのは、実は模試の問題文、井原西鶴の『世間胸算用』(鼠の文づかひ)という著作だった。試験問題なのに、読みふけってしまった。そこで「なんでこんなおもしろい文章を、授業ではやらないんだろう?」って思ったんだ。残念ながら文学的な価値は『源氏物語』には及ばないけれど、そんな近世散文を読みたくて、専攻を決めた。指導教授もいい先生だったけど、やっぱり素材もおもしろかった。

 そんなおもしろい「古文」の世界も、古典の素養がなければ、本当のおもしろさを味わえない。本当のおもしろさを知るためのお作法、ってのが古文の授業ではないだろうか。繰り返すけど、単純におもしろい古典作品なんてのは、いくらでもあります。せっかく勉強したのなら、忘れないうちに何か古典作品を読んでみるといいんじゃないかな。

1999/05/09


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「国語を学ぶことの意義 漢文編」

 さて、今回は漢文である。漢文ていうと、漢字がずらずら並んでいて、孔子だか孟子だかがえらそーなことを説いている、アレである。あとは五言とか七言とか、絶句とか律詩とかの漢詩だ。そんなものを勉強することに意義はあるのだろうか?

<漢文=日本文化の基本!>
 漢文は、平たく言えば中国の古文だ。現代中国語とはちょっと違ってる、古典中国語。それを漢文書き下し文という、日本の古典文法に当てはめて読むのだから、そう簡単な学問ではない。でも、難しいのは「学問としての漢文」であって、「学校で習う漢文」ではない。学校で習う漢文なんか、簡単なものだ。だって、訓点どおりに読んでいけば(訓点のルールは知ってなくてはいけないけど)、だいたい意味がとれる。再読文字だって、その読み方のルールさえ知ってれば、全然恐くないからだ。あとは辞書さえひけばOK。高校までに習う漢文なんてのは、その程度のモノなのだ。

 先に一言。「え?じゃあ学問としての漢文が難しいのは?」という疑問が出てくるけど、実は漢文の読み方に答えがないから、難しいのだ。訓読ってさんざんやったと思うけど、あれも実は本当の読み方ではないのかもしれない。意味はとれても、「本当の正しい訓読」ってのは、答えがないのだ。中国人がそのまま読めるものを、わざわざ書き下しという日本独自の手法によって変換して読んでいるのだから、答えなんかあるわけはない。だから「今までに発表された中で、一番妥当なもの」っていうシロモノが、教科書にも載っている。それが本当に正しいのか考えると、ホラ「学問としての漢文」って難しくなるでしょ?でも、こんなことは高校生までは関係ない。あくまでも大学の漢文学のレヴェルの話だ。

 では、「漢文は難しくない」ってことをまず頭に置いてもらって、それで本題。「なんで漢文なんか勉強するのか?」ここには、日本と中国の関係をまず思い出さなくてはいけない。日本にとって、中国が憧れの的であった時代だ。

 日本の歴史をひも解くと、史実として年号が明らかなのは紀元後57年、「漢倭奴国王」の金印が中国から贈られた、という話が最初である。一応『古事記』や『日本書紀』では、天地創造(アメノミナカヌシノカミとタカミムスヒノカミとカミムスヒノカミと・・・)から歴史はスタートするけど、もちろん史実ではなかろう。でも、57年という年号も、実は中国の文献(『後漢書』東夷伝)にあるからわかっただけであり、日本に記録が残っているわけではない。その一方で、歴史大好きの中国では、紀元前770年から年号が登場する(記録が残っている。しかも正確)ため、どんな国も足元には及ばない。

 そんなムチャクチャに古い時代から「歴史」を示す中国という国は、紙・羅針盤・火薬などの発明や、科挙という官僚登用試験など、当時の世界を数歩もリードしていた。当時の後進国・日本としては、中国に学び、追い越すことが(当時は夢のまた夢だけど)いつでも目標としてあったわけである。だから中国直輸入の文化が流行ったり、すると思い出したように日本独自の文化を見直して国風文化が流行ったりと、中国からの影響を直に受けまくっていた。中国のモノなら、何でも手本になった時代である。歴史の授業には必ず出てくる「遣隋使・遣唐使・日宋貿易」(ほかにもあるけど)ってのが、中国からの最新のモノを運んでくる役目を果たしたのだ。

 そんな時代は江戸時代の前まで続いたが、江戸時代になると、日本は鎖国の道を選んだのは周知の事実。その一方で、藩校(武士の子供が通う寺子屋)で最初に教えることといったら、四書五経の『大学』(『中庸』だったかもしれない)だったのだから。中国の文学・歴史・思想などを知らなかったのでは、日本の知識層とは言えなかったのである。このように、日本と中国は密接に関わり、精神世界から文化まで、幅広く取り入れられていたのである。

 いつしか日本人は調子に乗って、中国を見下すようになってしまったけれど、それは時の流れでいえば、ほんの最近のこと(中国4000年の歴史に比べれば)だ。日本は長い間中国に憧れ、中国に学んできたのである。そして、中国には多くの文献が残っている。例えば2000年以上前の人物である孔子のモノの考え方も、文献として残っているのだ。昔の日本人も今の日本人も、同じ文献をテクストとできるなんてことが、他にあるだろうか?

 日本史にも日本文化史にも、大きな影響を与えた中国。日本の文化の礎の一端をになった国の考え方を勉強して、損はないはずだ。しかも、そんな考え方などが日本の古文に影響も与えていたりするから、さらに見逃せない。「内輪ウケ」じゃないけど、元ネタを知った上で引用文献を読んだりすると、「へへっ、俺は元ネタを知ってるぜ」ってな感じで、筆者と知恵比べができてしまったりする。まあともかく「漢文」という山に入るためには、ちょっと登山口が面倒だけど、そこさえ過ぎてしまえば、中腹からはけっこう楽なもの。

 こんなふうに考えると、少しは漢文を勉強するのが楽しくなるかな。

1999/05/09


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 なんか、このコーナーを新しいコンテンツに加えようかと思う今日この頃。すでに、予定の文章量の4倍になってしまっている・・・

「国語を学ぶことの意義 書道編」

 気を取り直して、今回は「書道」がテーマである。これは、「自分は字が汚い」って思ってる人(きっと大半の人)にとって苦痛だったはずだ。筆っていう書きづらい道具で一生懸命書いてみたものの、その出来映えは自殺したくなるようなひどいシロモノ、書道塾に通ってる友人に笑われた挙げ句、しかも手に墨がべっとりついて、いくら洗っても落ちやしない・・・こんな思い出ばかりではなかろうか(ここまでヒドくはないか)。

<書道=日中文化芸術/その入門編>
 厳密には中学校までの「書写」と、高校での「書道」は違う(実は中学校までの書道は「国語の中の書写」であり、高校の書道は「芸術科書道」というフツーの国語とはちょっと別なのだ)んだけど、まああんまり気にしないで書いてみよう。まず、「書道」ってどんな学問だろう?答えは簡単「字を書く」だけである。でも、たかが字を書くだけのモノが授業になり、文字自体は芸術になってしまうのだ。これっておもしろくない?

 フツーに字を書くにも、お作法がある。誰もがナゾに思う「書き順」だ。なんで字を書くのにも一画づつ順番に書かなくてはいけないの?って思ったことはないだろうか。ここが日本で使われている文字の面白いところで、「順序に従って字を書かなくてはいけない」のだ。こんなルールのある文字を使っている言語なんて、他にあるだろうか?中国語は同じ漢字文化圏だし、朝鮮半島の国々も漢字を併用しているからそうかな?でも、アルファベットを使う言語では、書き順なんてうるさく言わないはずだ。アルファベットに書き順はあるのかもしれないけど(実はよく知らない)、別に書き順をテキトーに書いたところで、問題はないはずである。その差にまず着目して、考えたい。

 なんでこんな差があるのだろうか?実は、文字がどういった扱いを受けていたかの差なのである。書き順を重視しない文字は、伝達の手段としての文字であり、伝達さえできればよいのだ。こちらの言いたいことが相手に伝わればよいのだから、当然「字がきれい/汚い」ってことはどうでもよくなるのだ。その一方、漢字という文字は、伝達の手段であるとともに、鑑賞の対象にもなってしまった。だから当然「字がきれい/汚い」ってのが重視されるし、字だけでなく文字の配列や字の間隔までもが鑑賞されることとなったのである。中国の皇帝には、「文字がすばらしい(内容不問)!」ということだけで、お気に入りの文章(王羲之『蘭亭集序』。行書のお手本とされる)をさんざん筆写させた挙げ句、原本を自分と一緒に埋葬させた例もあるのだ。そんな漢字を崩した日本語の「かな」も、当然のごとく鑑賞の対象になった。まず、ここまでが「たかが文字なのに芸術になる」ってことの説明。

 さあ、そんな文字を「筆」っていうへんな道具で書くのだ。その「筆」ってのも、大変に面白い道具である。まず、形が丸い。大きかろうが小さかろうが、筆先は丸くなっている。絵画に使用するような平べったいものや、刷毛みたいなものは書道では使わない。そんな丸い筆しか使わないのだ。

 では、なんで丸くないといけないのか?それは、筆先が丸いのだから、どんな角度から書きはじめても、線は同じ太さになる(もちろん、画によって強弱はうまれるけど、それもよい)。つまり、どんな形の文字にも対応できるのだ。丸っこい字だろうが、角張った字だろうが関係ない。まさに オールマイティな書き方ができるのが「丸い筆」である。そして、その丸を目一杯使って書いていいのだ。例えば「は」なんて字を書くと筆先が丸まってしまい、最後の丸っこい部分が掠れてしまったりするけど、それはごく自然なことなのだから、アリなのである。掠れたからって、墨をつけ直し筆先を直し、掠れたところをなぞった経験は誰しもあるかな?でも、そんなことは不要、掠れも芸術なのである。こんな感じで、筆のすばらしさがお分かりいただけただろうか?

 たかだか文字を書くだけなのに、実は「文字を書いて芸術とする」ことも、「筆を使って書く」ことも、こんなおもしろさがあるのだ。そんなことを考えながら書道に親しんでみると、とても不思議な気がして面白い。でも、こんなことは学校では教えてくれない。なぜだ?

1999/05/15



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「国語を学ぶことの意義 国語表現編」

 「国語表現」。なんとも聞き慣れない言葉かもしれないが、ちょっと言い方を変えれば誰もが知っている。そう、「作文」のことだ。厳密にいうと、「書く」ことに関したもの(書道は違うよ)なら、みんな「国語表現」になるのだけど、作文を代表させましょう。今回で最後となるこのシリーズ、シメは原稿用紙との格闘を思い出しながら読んで下さい。

 いきなり脱線だけど、原稿用紙ってのは、日本だけにしかないのだろうか?もちろん、英文に原稿用紙は向かない。朝鮮半島の国々や中国には、原稿用紙があってもおかしくない。どうなんだろう?素朴な疑問。答えを知ってる人は御一報下さい。

<国語表現=手を動かして書く、ということの重要性>
 今度は本題。作文ってのはどういう意義があるのか?原稿用紙は、規則正しく並んだマス目を順に埋めなくてはいけない。意味もなく3行飛ばしに書いてもいけないし(詩は別格。広告コピーはどうなんだ?)、3マス進んで2マス戻ってもいけない(そりゃー無理だわな)。そんなヘンな紙に書くのが作文、気取った言い方で「国語表現」だ。

 では、なんでそんなことを学ばなくてはいけないか?ます、初等・中等教育では「実際に手を動かして書く」ことを重視したいのである。ワープロ全盛期の昨今、実際に手を動かさないで、キーボードをぱちぱちやることの、なんと多いことか!別にそれが悪いわけじゃないけれど、例えば「ワープロが勝手に変換してくれるのに伴う、ユーザーの漢字力の低下」なんかが叫ばれている。確かに、ワープロは便利だ。漢字だっていくつも候補を表してくれるし、なによりも字がきれい。

 でも、すべてをワープロ任せにしていいのだろうか?「あなたがアメリカにホームステイするとして、あなたの父の友人で、受け入れてくれることになったアメリカ在住の女性に対する、お礼状を書け」というのが、1994年に都立大の推薦入試問題(小論文)で出たことがあった。シチュエーションはともかく、こんな手紙を実際に送るとして、ワープロはアリか?

 ここを強調したいんだけど、そんな手紙の場合「下書きはアリ、書くのは手書き」が僕の意見。手書きには手書きの「暖かさ」があるのが最大の魅力で、字のうまいへたは関係なく、自分の言葉を一生懸命伝えようとしている姿が、文面から見えないだろうか?同じ文面でも、ワープロよりも手書きになぜか「暖かさ」を感じるのは、自然なことだろう。手書きの文字は、人から人への文章の伝達であるとともに、心までを伝達してくれるのだ。

 感動的な文章表現のことを言いたいのではない。そんなのは文章力の問題だから、二の次だ。僕が言いたいのは、「見た目」の話である。字がうまいならうまいなりの、そうでないならそれなりの「個性」が、手書きには現れるのだ。でも、普段手書きをしない人は、ちょっとしたことでも手書きをすることが「不馴れ」なことになってしまうのである。大人は仕事なりなんなり事情があるだろうけど、子供が何も字を書けないってのは、想像するだに恐ろしくないだろうか?

 僕たち昭和後期生まれから、「日本史上もっとも悪筆の世代」と言われている。字のうまいへたってのも、どれくらい文章を手で書いたか、に比例するのではなかろうか。ペンを正しく持っていろいろ書けば、字なんてそのうちうまくなるものであろう。ともかくストレートに「書く」こと重視の科目、これが「国語表現」である。小洒落た表現は、初等・中等教育にはとりあえず必要ない。まず書くこと。その中に自分の個性を見つけていくことが、「国語表現」の目標だと考える。

 前回の「書道編」に引き続いて書くことに注目したけれど、手書きって本当にいいもんですよ。僕は、手紙は相当なこと(例・同じ文面で15人に出す)がない限り手書きで、って思っている。でも、レポートなんかは推敲がラクだからって、ついついワープロでやっちゃうけど。

 それにしても小学生の読書感想文って、あらすじをひたすら書き連ねて「またこの作者の本を読みたいと思った」でシメる、ってのが多いよね(僕も当時はそんなガキ)。

1999/05/18

 

「国語を学ぶことの意義」完結。

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