書道は楽しい
今さらのような気もするが、去年の5月から書道を習いはじめた。僕の住む世界は、字がうまくないと生きていけない世界である。前々からやろうとは思っていたが、きっかけがなかった。大学の授業で書道をとったりもしたが、授業は授業。まあ「筆に慣れた」くらいの効果しかなかった。空しく時を過ごすこと数年、父が「知り合いの住職が書道教室をやっているから、そこに通え」と言う。よ〜し、きっかけがやってきた。40の手習いという言葉はあるが、こっちはまだ23歳(当時)。間に合うはずだ。
かといって、手放しで喜んだわけではない。曜日と時間は問題なかったが、周りが小学生ばかりだったらどうしよう・・・「お兄ちゃん、初めて?」「お兄ちゃん、ヘタだね!」・・・イヤな予感がする。おじちゃんと呼ばれたら・・・こういう下らない想像力にたくましい僕は、独り悩んだ。小学生に屈辱を味わわされるのは・・・最終的には、「俺は初心者なんだから、ヘタで結構!」という、ある種の開き直りをした。
僕は、書道は嫌いではない。小学校・中学校の時代は嫌いだったように思うが、大学の授業は嫌いではなかった。理由はよく分からないが、けっこうおもしろいと思ったのは、大学生になってからである。去年エッセイで書いた「国語を学ぶことの意義 書道編」にも、自分なりの書道の面白さを書いてみたけれど、その気持ちは変わっていなかった。
1999年5月某日。運命の第1回お習字の時間である。会場となるお寺は、チャリンコでも20分くらいのところだが、めんどくさいので車で行くことにした(渋滞してたので、20分かかってしまう)。小学生の好奇の目で迎えられるのか?ドキドキしながら行ってみると、教室(お寺の1室)には先生と、年輩の女性が2名。・・・おお〜、よかった。小学生対象ではない書道教室のようだ。緊張が解けたように思えた・・・のは一瞬だった。
僕が最初に与えられた課題は、「一」。初心者だから、基本からやろうということである。「一」ねえ・・・そうは思っちゃうけど、一生懸命書いてみる。ふと隣の女性を見てみると、1人は楷書(うわっ、うまいよ)、もう1人は草書(なんて書いてあるか分からんが、うまいみたい)を練習なさっていた。その隣で俺は「一」・・・徐々に緊張してきた。
先生は食事をしに、席を外してしまった。生徒3人で、もちろん無言。そんなところに、年輩の男性(この人も生徒さん)が入ってきた。いきなり、でっかい紙に書いた作品を壁に貼りだした。なんと隷書!これこそ、何が書いてあるか分からん!同じ文章を5枚書いて持ってきたのだが、僕には全部同じに見える。ところが、戻ってきた先生が見ると、ココがダメ、ココがつまんないと、御指導が始まった。先生の言葉に、その男性はうなずいているが、僕にはさっぱり理解できない。どこが悪いんだ?
とまあ、こんな調子で始めた書道だが、すでに8ヶ月も習っている。たった8ヶ月だけど、そこそこ楽しんでやっている。先生や他の生徒さんが、「書道展に出してみなよ」とムチャなことを勧めてくださるが、去年のうちは固辞した。しかし、今年は断れまい。まあ、なんとか今年のうちに1回、作品を出してみようとは思うけれど、はてさて、どうなることやら。
そんな僕が、普段の課題として書いた字を挙げてみよう。
<基本の基本・部首6品>
「一」
「|(たてぼう)」
「ウ(うかんむり)」
「しんにょう」
「つりばり(“乱”の右側)」
「八」
<半紙に漢字1文字シリーズ(順不同)>
「龍」
「舞」
「寳」
「靜」
「魂」
「賀」
「嘉」
「賢」
「虎」
<半紙に漢字2文字シリーズ>
「香雪」
「寒光」
「光風」
「春望」
「松露」
「神秀」
「銀漢」
「乾坤」=ただいま練習中
“乾坤”が終わった後は、「故園」「孤蓬」と続く。さて、練習しますか。
2000/01/21