第2日(2月23日・月曜日)

長崎市内
 前日とはうってかわり、朝からきれいに晴れ渡った朝を迎えた。若干肌寒いものの、すぐにでも気温が上がってきそうな雰囲気が、東京との違いを感じさせる。いや、今は僕がアウェーにいるわけだから、これが長崎のいつもの朝なのだろう。ある日常に僕が闖入しているのだ。

 8時前にホテルを出て、まず孔子廟に立ち寄った。最近は仏教の勉強をせずに儒教の勉強なんかをもっぱらやっているので、とりあえず孔子をしのぶフリをと思ったのだが、開堂前だったので塀越しに外から眺めるだけである。周囲は通学の中学生だらけなので、さすがにのぞき込むのは恥ずかしい。他宗とは縁がないのだろうかと思いつつ、顔には出さずに通過する。

 雑念を無視して孔子廟から歩くこと数分のところに、他宗の極地の大浦天主堂はある。ほとんど開堂と同時に行ったようなものだったから、他に参拝客はなかった。朝のお参りがしやすい状況だが、さて、どうやってお参りすればいいのだろう。思案することしばし、静まりかえった堂内で、場違いかもしれないが冒涜しているわけではないから許されるだろうと、祭壇の前で「ぐるりよざ」を熱唱してお参りに代えた。

朝の大浦天主堂です。


 僕は教会の造りにはまったく詳しくないので、受付で買ったパンフレットを手にキョロキョロする。内陣上部はステンドグラス越しの太陽に照らされて、暖かな雰囲気だ。また、天井が高いのでとても開放的である。司教座・祭壇・洗礼所などとにかく見慣れない空間だが、それでも心がおだやかになってゆくのがわかる。内陣右上には巨大な絵画が掲げられ、長崎で殉教した聖人が描かれている。ただし、ステンドグラス越しの日光が絵画にかかり、学芸員が見たら嘆くであろう保存状態になっているが、宗教礼拝施設と美術品とのどこにでもある永遠のジレンマだから仕方ないと思う。こうしてお堂を出たところで、団体客とすれ違った。静寂に包まれた宗教的礼拝施設が、単なる観光スポットに変わった瞬間だった。

 天主堂の隣にあるグラバー園付近でちょっとだけ長崎の市街地を遠望する。園の展望台は周りから一段高い位置にあるので見晴らしがいいのだろうが、入場料が気にくわないので僕は入らない。ところが、入場しないで景色を眺めようにも電線やお土産屋が視界を邪魔する。タダでいいものは見せられないと言われているようで不愉快だが、天主堂で心を落ち着かせてからまだわずか数分だから、ここで怒ったら台無しだ。冷静を装ってそのままもと来た道を戻り、石橋電停から市電に乗った。2停留所目の大浦海岸通電停を通過したところで、めでたく長崎市電を完乗となった。

左が市電の標準色。右のようなラッピング塗装もあります。長崎駅前にて。


 築町電停で乗り換え、松山町電停まで15分ほど乗る。爆走市電は今日も朝からなかなかのテンションなのだが、そのままのノリで市電を降りるわけはない。松山町電停から徒歩2分の場所が、原爆投下中心地なのだ。

 1945年8月9日午前11時2分、長崎から北へ約2kmの上空。その真下に僕は立っている。平日の朝方だから、落下中心地公園は清掃ボランティアの人しかいないような状態だったが、毎日お参りに来ているのだろうおばあさんが、慰霊碑に水をかけている。それがないと、今から59年前の悪夢なんて全く想像できない静かな空間だ。

原爆落下中心地の碑


 そのすぐ近くに原爆資料館があるので見学する。もちろん資料館だから館内は写真撮影不可なのだが、なんでこういった施設で写真を撮ってはいけないのだろうと思う。この資料館のコンセプトは、原爆の悲惨さと世界平和を訴えるものではないのか。だったら観光客に写真をバンバン撮ってもらい、その人が見たものをさらに発信させないと、新たな世代が過去を知らないことになっていくのではないだろうか。残念ながら、59年前というのは僕の世代にとって遠い遠い昔の話。僕は縁あってこの土地にやってきたわけだが、一生長崎に来ない人はいくらでもいるわけだ。もちろん資料提供者の感情とかがあるのはわかるけれど、普通の美術館や博物館と一線を画さないのが不思議な気がする。

 すぐ隣接したとこにある原爆祈念館でお参りをし、落下中心地公園の北側、道路を挟んだところにある平和公園に向かった。ここには、原爆慰霊祭などでよくテレビに映る平和祈念像が置かれている。巨大な像だ。上に伸ばした手が原爆を、水平に伸ばした手が平和を表しているということで、花や千羽鶴があちこちに飾られている。ただし、ここは原爆が投下された中心地ではない。

平和祈念像。高さは10mほど。


 もうちょっと時間があるので、平和公園から8分ほど歩いて浦上天主堂に行った。原爆でメチャクチャに壊され、その一部が原爆資料館や落下中心地公園に展示されているお堂だ。建物はさすがに戦後に建て直されたわけだが、大浦天主堂より二回りほど大きな建物であることから、この地域の中心的なお堂であることが想像できる。ただし休館日で、堂内には入れなかった。しかも見事に逆光で、外観を撮るのも容易ではない。

フレアが入ってしまいました。撮影希望の方は午後に行きましょう。



長崎(1050)―鳥栖(1238) 2016M 特急かもめ16 長崎→博多
 市電で長崎駅に戻り、特急「かもめ」の乗客となる。僕の持っているきっぷは特急の自由席に乗り放題だから、昨日来やっとモトを取る機会がやってきたわけだ。ガラガラの783系4連に乗り込み、右側に陣取る。もちろん遠くに雲仙の山々(今回は行かない予定。でも行きたい……)を眺めたいからだ。トンネルだらけのショートカット線を超高速で駆け抜け、前日は50分以上かかった諫早までを、わずか20分で駆け抜ける。そしていよいよ雲仙が見えてきたところで、すぐ間近に諫早湾の愚かな水門と大量の工事車両が見えてしまった。不愉快。
 肥前飯田で東京発長崎行きの寝台特急「さくら」と交換した。あちらはすでに18時間以上の長旅を続けている列車だが、車両の切り離しがあってものすごく短い編成になっていて、とても惨めに思えてしまう。乗ったことはないのだが、寝台特急「さくら」と言えば寝台特急の世界に君臨する古参であるはずだ。ゆったりのんびり寝台列車の旅というのは、もう流行らないのだろうか。



鳥栖(1248)―上熊本(1347) 1017M 特急有明17 博多→水前寺
 なんでも鳥栖は焼売が名産ということなので、鳥栖駅で焼売入り焼米(しゃおまい)弁当を購入して特急「有明」に乗り込むと、自由席は7割くらいの埋まり方で、お天気の昼下がりだから睡魔が大活躍していた。そんな車内で、のんきにランチタイムなのは僕だけだが、ビール片手に焼売というのはまことに極楽。たまには崎○軒のシウマイ以外もいいもんだ。また、弁当のご飯がかしわめし(鳥そぼろがのっかっている)なのもうれしい。羽犬塚付近と瀬高付近で廃線跡を確認できたこともあり、まだ2日目なのにいい旅になったなあ、などと思う。

 さて、食べて飲んだところでちょっとしたいたずら心が起きた。鳥栖を出たときにはまったく想定していなかったのだが、上熊本駅から熊本駅までは、市電(チンチン電車)を利用してみようと思ったのだ。上熊本から熊本までJRならわずか1駅、しかも熊本駅での本来の待ち時間は40分ほどある。いくら市電が鈍足でも、それだけ時間があれば十分だ。ネタにもなるし、ウヒヒ……



上熊本駅前―辛島町―熊本駅前 熊本市電3号線→2号線
 駅前の市電乗り場で、ちょっと失敗したかなと思った。なかなか市電が来ないのだ。市電といったらどんどこ来るものだと思ったのだが、熊本の市電は7〜8分間隔だった。これは単に予習不足だったのだが、熊本市電の路線はアルファベットの「Y」の字をしていて、健軍町から辛島町まではわんさか走っているものの、辛島町からは上熊本行きと熊本駅前方面田崎橋行きの二系統に分かれた先は、本数が少なくなってしまうのだ。それでもそんなに致命的なことではないので、市電を待つ。やってきたのはレトロ塗装の車両だった。

熊本市電はカラフルです。下が、僕が乗ったレトロ塗装。すべて辛島町にて。


 市電は道幅のある通りの中央を進む。交通量がそんなに多くないので順調だが、熊本市電は電停間の距離が長いような気がする。隣の電停までなかなかの距離があり、辛島町で乗り換えればいいのは分かっているのだが、走っても走っても辛島町に着かない。長崎市電は次々と電停が設けられていたよな、などという比較は一日に二都市の市電に乗ったお陰でできる業だ。

 初めての市電に乗るときの問題は運賃だ。熊本市電は均一料金ではなく乗車時に整理券を取り、乗った距離によって料金が変わる。そして辛島町で乗り換える際は、いったん上熊本から辛島町までの料金を支払い、さらに乗り換えきっぷをもらう必要があるのだ。その上に熊本駅前で降りるときに残りの料金を支払うという、なんだかめんどくさいシステムである。間もなく熊本駅前だが、いったいいくら追加で払えばいいんだろう?時間もそろそろ気になってきた。上熊本から30分もかかっちゃったか……なんとか列車には間に合うな。駅でみやげもんでも見ようと思ったけどムリだなあ。いくらですか?さっき払った金額?150円払ったんですけど。あと30円?30円だけここに入れればいいんですね?ハイハイ、えーと小銭が……あったあった。やべ、カメラ落としそうになった。なんだかあわただしく市電を降りた。

なんにも気づかずに熊本駅舎を撮影。これから事態が急転します。



熊本駅にて
 熊本駅の豊肥本線は0番線から発車するが、なんとホームが2つ(0Aと0B)あった。その強引さに感心しながら列車に乗ると、ロングシートの車両だ。ロングシート!これほど旅の風情を削ぐシートはない反面、30分ほどで乗り換えだからガマンができないほどではない。とりあえずリュックを降ろしてカメラをしまい、次にボストンバッグを網棚に……あれ?ボストンバッグがない。さっき駅舎を撮影したときに下に降ろした……記憶もない。すると……やべぇ!市電の中だ!!時間と料金とみやげもんに気をとられて忘れたんだ!市電乗り場に全力で走る。目の前に、僕が乗っていた車両がちょうど終点から折り返してきたところだったが、信号でひっかかってなかなか電停にたどりつかない。電車の時間も迫っている。大いに焦りつつ、ドアが開くやいなや運転手さんに直接かくかくしかじかと言うと、僕のバッグはやはり車内に置き忘れており、運転手さんが預かってくれていた。遺失物センターに運ばれる前に取り返せたのだから上々である。ところが、列車の発車時刻が……バッグを受け取るなりホームに再び全力疾走したが、列車はすでに発車した後だった。

 もう途方に暮れるしかない。次の列車に乗ろうにも、接続列車の都合で、熊本を出発するのは80分後となってしまったのである。予定していた立野駅のスイッチバック探訪やら南阿蘇鉄道に乗る算段が、すべてボツなのだ。熊本をまったく無視した日程作成の祟りだろうか、それとも天主堂を2つも回ってしまったバチであろうか。今までにない、しかもありえない自分のミスに不愉快なのだが、駅で途方に暮れていたって仕方がない。残りの75分(5分ほどガッカリしていた)を有意義に使わねば。そこで、再び熊本市電に乗ることにした。もう見たくもない熊本市電なのだが、毒を食らわば皿まで。全部乗ってやる!



熊本駅前―健軍町 熊本市電2号線
 やってきた市電は、ピカピカ真っ白の最新鋭・超低床車だった。列車の床を下げてホームの高さと合わせ、スムーズに乗り降りができるというバリアフリーを全面に押し出した車両である。窓が大きい上、白を基調とした車内なのでとても明るい。爽やかな気分で乗れるはずである。……車掌がいなければ。

 どういうシステムなんだかよくわからないのだが、この列車には女性車掌が乗っていてドアの開閉やらアナウンスやらをする。このアナウンスが悲劇的にうるさいのだ。なんせテープによる車内放送(次はどこそこです、という当たり前のもの)は通常通り放送されている上に同じことを繰り返してしゃべり、さらに両替の説明やら揺れるから注意しろだとか、とにかくひっきりなしなのである。熊本市民はよく苦情を殺到させないものだ。お陰でチラッと見える熊本城や水前寺公園にも、ちっとも心躍らない。きっと新しい車両なので防音がしっかりし、周囲の音があまり入ってこないのが逆に問題なのだろうけれど、どうして旅でこんな目に遭わなければならないのだろう。旅なんてするんじゃなかったかな……
※腹立たしいので画像ナシです。



健軍町―水前寺駅通 熊本市電2号線
 足の悪い人には快適で、耳のいい人には不快なバリアフリー市電から飛び出て、ちょっとだけ休憩する。健軍町は小さな電停で、ホームはわずかに1本だけ。折り返し待ちの市電が渋滞しているのだが、時間調整のためか、ホームにいる列車はなかなか発車しない。あのうるさい車両にもう一度乗るのは心の底からイヤだったので、折り返し時間もそこそこに別の車両に乗ることにした。

 快適である。確かにモーターからはゴリゴリという不気味な音が聞こえ、列車もガタガタ揺れるけれど、あの放送が半分以下になっただけでうれしい。居心地がよいのでこのまま熊本駅まで戻り、さらにもう2つ先の田崎橋まで乗ってめでたく熊本市電完乗!参ったか熊本市電!といきたいのだが、気づけばまたしても時間的に厳しいことになっていた。熊本駅まで戻れないなら、水前寺駅通電停で降りて、その目の前にあるJRの新水前寺駅から豊肥本線に乗ればよい。そうすれば二度目の乗り遅れという最悪の事態は免れるが、
 ・熊本市電 熊本駅前〜田崎橋 500m
 ・豊肥本線 熊本〜新水前寺 5.2km
を乗り残したことになる。最悪の事態を免れても、どこかうまくいかないものだ。だが、熊本駅まで戻る時間はない。選択の余地はなかった。



新水前寺(1605)―肥後大津(1627) 1459M 熊本→肥後大津
 やってきたのはやっぱりロングシートの815系だったが、実はそれも仕方ないことだった。なんせ車内が高校生で埋め尽くされているのだ。ちょうど学校帰りの時間であり、ワンマン運転では限界じゃないか、というくらいの高校生が乗っている。それでもワンマン運転になったのは比較的最近のことのようで、車内には「ワンマン運転のご利用について」(整理券をとりましょう、など)が貼られている。

表情がかわいらしい815系。熊本駅0B番線にて撮影したもの。



肥後大津(1628)―宮地(1719) 435D 肥後大津→宮地
 電化区間は肥後大津で終わり、真っ赤な塗装の気動車・キハ200に乗り換える。高校生軍団もかなりの人数が乗り換える。列車は阿蘇の外輪山に向けて登っているが、みんなどこまで帰るのだろう?すると、ほとんどの高校生が立野から南阿蘇鉄道に乗り換えていった。阿蘇山に抱かれた高校生というと聞こえがいいだろうが、会話の内容はやっぱり普通の高校生だ。バイトの給料がもっと欲しいらしい。

 立野は、日本でも数少ない「スイッチバック」の駅として有名である。それなりに期待していたのだが、立野のスイッチバックはなかなか大規模で、折り返すまでに駅からだいぶ走る。こういった区間は、実際に乗るよりも上空から見たほうが面白いと思うのだが、そんなことをする機会は永久にないだろうし、そんなことをした人も聞いたことはない。

 スイッチバックを過ぎると、阿蘇山が眼前に迫ってきた。山頂からは水蒸気がモコモコと上がり、火山らしい風情が十分だ。列車だってカルデラの中を進んでいるわけだから、もう火山の中を走っているのだが、人家や畑がいくらでもあるために火山のそばという気がしない。それでも、重症の火山フェチである僕にとっては最高の風景だ。たぶん、山頂からの水蒸気をぼーっと眺めているだけで一週間は暮らせることだろう。こうして宮地での待ち合わせ時間は、ほとんど山を見て過ごしてしまった。あとは駅隣のコンビニでお茶を買っただけである。現在地は阿蘇の北側で、南阿蘇鉄道に乗れれば南側から阿蘇を拝めたのに、という後悔はちょっとだけあるのだが、それでも十分に満足だ。

阿蘇山です。画像中央部、山の上がうっすら白くなっているのが噴気。



宮地(1807)―大分(1941) 75D 特急あそ5 熊本→大分
 大分までは、夕日に染まる中をやってきた特急「あそ」の乗客となる。わずか3両なので混んでいたらどうしようかと心配していたのだが、僕が乗ったキハ185の1号機は悲劇的に空いていた。そのうちに日が暮れてしまい、いい時間なのでビールでもと思うのだが、車内販売は乗っていないという。豊後竹田で荒城の月を探すこともせず、ウトウトしているうちに大分に着いてしまった。



大分にて
 大分といったらうまい魚が期待できるので、寿司でも食おうと思っていたのだが、ぶらぶら歩いていても「おいしそうな雰囲気」の店がない。そこで「混んでいる店に入れ」という鉄則に従ったのだが、僕が入った店はどこかの会社の宴会で盛り上がっていた。今日は月曜だぜ……そのせいか、ビールを注文するよりも先にお通しが来るという事態に呆れたのだが、なんだかわからないが注文するたびにサービスしてもらった(焼酎2杯としめ鯖1人前タダ)ので、結果オーライということにしておこう。



第3日目に続く

「九州ノート」トップページに戻る