2月25日(金)



寝台特急「富士」車内
 眠ったんだか眠らないんだかわからないような朝は、車掌からの列車遅延を告げる放送で明けた。岡山県内の相生〜有年間で鹿をはねてしまい、列車は定刻より43分ほど遅れている、という。昨夜の不思議な停車は、運転停車ではなかったのか……

 これで大変にまずいことになった。九州ではよく列車の遅延があるので、僕はそんなにタイトなスケジュールを組んでいない。それでも30分以上の遅れは考えていなかったため、大幅な予定変更が必要である。今日は比較的運転本数の多い箇所から1日に6本しかない原田線まで、細かな乗継ぎが多い。それに初めて乗る区間は明るいうちに乗りたいから、効率よく乗り換えねば日没までに予定が消化しきれない。では、どのように予定を組換えればいいのだろうか。こういったことを考えるのは、本来ならお酒を飲みながらなど、ゆっくりと楽しむものである。それを「富士」下車までに考えなくてはならないのだ。自分のミスでこうなったのではないから気楽なのが救いであろうか。それでも昨日までのしょんぼりした気持ちが再来する余裕はない。寝起きから頭をフル回転させて『時刻表』に向かう。

 まず、間もなく停車する新山口から小倉まで新幹線を利用し、当初のスケジュールに復帰できるか検討するが、いい時間の新幹線がないめどうにもならない。そこで「富士」で小倉まで行って乗り換え日田彦山線で田川後藤寺へ、それから後藤寺線で新飯塚に抜けて桂川で原田線乗り換えという、当初のぐるっと回る計画を諦め、小倉から桂川まで福北ゆたか線を利用して直行することにした。すると桂川以降はもとのスケジュールに復帰することができるし、本数の少ない原田線を動かさなくて済むのだから傷口は意外に小さい。ただし、もともと午後に福北ゆたか線を博多方面から乗るつもりだったので、桂川まで直行すると福北ゆたか線の大部分を往復することになってしまい、おもしろくない。また、今日のうちに小倉〜田川後藤寺〜新飯塚間を片づけないと、今後のネックになることは調べれば調べるほどわかってきた。迷うに迷ったが、代案なのだからどこかにムリが生じるのは仕方ない、と自分を納得させる。

 下関では電気機関車の付け替えがあるので、のんきに撮影する。ひょっとすると停車時間を短くして先を急ぐかと思ったら、そんなことはなさそうだ。早くしろと怒り出す乗客もいないのがよい。僕だってなんだかんだと焦る風で、まあなんとかなるだろうという気分である。列車は青函トンネルと比べると圧倒的に短い関門トンネルを通過し、九州に上陸した。

下関にて機関車をつけかえます。関門トンネル内はヘッドマークがありません。


 結局55分遅れで着いた小倉駅は、朝のラッシュで混雑していた。金曜とはいえ、まったく観光シーズンではない平日なのだから当然だろう。朝飯に、僕も通勤客と一緒に駅のホームで「かしわうどん」をすする。鶏肉を意味する「かしわ」という言葉を聞くと九州に来たんだなあと思うが、どう味わっても鶏肉ではないような気がする。まだインフルエンザが治ったばかり、匂いがわからないのだろうか。



小倉(848)―直方(930) 3625H 小倉→直方
 小倉駅で20分ほど待ち、ラッシュがほぼ終わった時間に発車した電車は2両編成だったが空いていた。電車は小倉からしばらく鹿児島本線上を高速で突っ走り、折尾から福北ゆたか線に入ってゆく。周囲は筑豊の山々だ。それでも山の中を分け入っていくという雰囲気ではなく、遠賀川沿いの平地には水田が広がるのどかな風景だ。また炭坑閉山とともに人がいなくなってしまった、という雰囲気でもない。このあたりから小倉までは目と鼻の先だから、北九州経済圏の中にすっぽり入ってしまっているのだろう。そのためか廃線跡がなんだか見つからない。筑豊地域は廃線跡の宝庫であるのに?どっちにしろ、今日は博多から再びこの線に乗って戻ってくる(単純往復みたいでつまらないけど)のだから、帰りにまた確認すればよいのだ。



直方(939)―桂川(1005) 2641H 直方→博多
 大関の魁皇関の故郷である直方で、またしても2両編成の電車に乗り換える。こちらは直方までと比べると若干山深くなった気がするが、それでもそんなに高い山ばかりというわけではないし、水田だっていくらでも目にすることができる。また民家もだいぶ多いので、北海道の寂れた炭坑の町とはだいぶ印象が異なる。

 飯塚を出てすぐに石炭カスが積まれたボタ山があり、僕の手元にある地図(地形図を用意するのは面倒なので、僕は旅にロードマップを持参するのです)にも「ボタ山」と記されている。見事な円錐だ。もう草が茂っているので遠目には普通の山に見えるが、実は日本のエネルギーを支えた残骸である。



桂川(1008)―原田(1037) 6625D 桂川→原田
 今日の予定で絶対に動かせなかった原田線は、案の定たった1両のディーゼルカーだった。筑豊と鹿児島本線をショートカットする路線なのだから便利に見えるが、いくら便利でも乗客の需要がなければどうにもならないのである。沿線には人口が少なく、完全な山の中をクネクネと走ってゆく。併走する国道は筑豊から鳥栖へ、さらに長崎や熊本方面へという大切な道路のため、片側2車線で車が行き交っている。しっかりとした道路を敵に回した原田線、将来が危ない。

九州のお約束。「原」という字を見たら“はる”と読みましょう。
そんなわけで「はるだ(原田)」行きの「はるだせん(原田線)」です。




原田(1042)―南福岡(1056) 4326M 荒木→門司港
博多南(1131)―博多(1141) 654A 博多南→博多
 原田から南福岡まで快速電車で移動し、タクシーに乗り換える。住宅地を15分ほど走って、次のお目当ては「博多南線」だ。駅は新幹線の博多駅から先にある車両基地の脇に、ぽつんと置かれている。これは新幹線の車両基地があるんだから駅を作ってほしいという沿線住民の希望が叶った、北綾瀬駅状態(わかった人だけ笑ってください)の駅なのである。それでも九州新幹線全通の暁には、まさに博多南駅付近に線路が敷かれるのである。すでに若干の工事も進んでいた。

九州新幹線工事中の高架橋。駅は撮影中の僕の右後方にあります。


駅の入口はこんなかんじ。右上の連絡通路を通るとバスターミナル(工事中)に出ます。


 沿線は完全に住宅地で乗客もかなり多いため、博多南線を作ったのは正解である。しかし博多まではわずかに10分だから、4両の「こだま」編成新幹線は比較的チンタラと走る。博多からはこのまま岡山行き「こだま」に化けるそうで、性能をもてあましているようだ。僕が岡山まで寝過ごしたら一生のネタだよなあ、と思う。

 その瞬間、天啓のようにひらめいた。僕は博多で下車して香椎線に乗り、そして福北ゆたか線で先ほど乗った区間を戻る予定である。しかし一度乗った区間に再び乗ることへのためらいは、代案が完成した時点からずっと胸の中にあった。ならば、新幹線でこのまま小倉まで乗り越して、今朝乗れなかった小倉〜田川後藤寺〜新飯塚を片づけてから香椎線、という順には乗れないだろうか……?博多到着まであと5分、大あわてで『時刻表』を調べる。

 イケル!と判断したのは博多到着のわずか1分前だった。自己満足、自画自賛。ただし僕が持っているきっぷは新幹線だと料金別途の周遊きっぷだから、小倉で精算が必要となるのだが、乗り越し運賃は調べないことにした。一瞬でも、高いから止めようかな……などと躊躇しているヒマはないのである。



博多(1145)―小倉(1205) 654A 新幹線こだま564 博多→岡山
 博多で大幅に乗客が入れ替わる。わずか4分ほどの停車で「こだま」は出発し、新幹線らしい速さで快調にかっとばすようになった。それでもわずか20分で小倉に着いてしまうので、まったくあっけないものである。しかも小倉は4時間ぶりだからまったく感動はないまま、乗り越し運賃の精算をする。請求額は2050円、そこまでする必要はあるかな、とここで初めてちょっと後悔した。やっぱり後悔しているじゃん、俺。



小倉(1219)―田川後藤寺(1314) 949D 小倉→田川後藤寺
 小倉駅でホームと反対側のドアを開けてサボを交換した列車は、定刻に発車して城野まで日豊本線上を行き、日田彦山線に入る。住宅が徐々に姿を消して田園風景になってくると同時に、だんだんと剥きだしの山肌が近づいてきた。茶色か白く見える。鉱山だ。筑豊の炭坑は役目を終えているが、そのすぐ近くではまだセメントの原料が採掘されているのである。なるほど、近くにはカルスト台地で有名な平尾台があるわけだから、その端を走っているのだろう。

 もっと強烈なのは香春岳だ。香春駅に近づくにつれ巨大な工場が見えてくるが、その隣には3つの峯からなる石灰岩でできた香春岳があり、一番南に位置する一ノ岳は削りに削られて山頂がなくなっている。手元の資料には標高250mとあるが、もともとの標高は490mだったそうな。産業を担うというのは残酷なものである。

中央の真っ平らな部分が香春岳の一ノ岳、すぐ右隣のこんもりが二ノ岳。
5日目に平成ちくほう鉄道の車内から撮影。



田川後藤寺(1319)―新飯塚(1339) 1548D 田川後藤寺→新飯塚
 広大な構内をもつ田川後藤寺から、後藤寺線に乗り換える。石炭輸送のために敷かれた路線というだけの先入観だったが、車内は高校生が目立った。そういえば、筑豊の炭坑は全山がなくなっているとはいえ、だからといって他の産業・農業はしっかりと残っているため、大規模に過疎化しているという印象はない。だから人口が大きくは減らず、若い人も多いのだろう。僕は炭坑が好きなので筑豊というだけで思考を炭坑中心にしてしまうのだが、改めなければならないかもしれない。



新飯塚(1341)―長者原(1412) 641H 門司港→博多(福北ゆたか線経由)
長者原(1414)―宇美(1433) 755D 西戸崎→宇美
 新飯塚から桂川までは5時間前に乗った区間を重複し、桂川からウトウトしてしまった間に長いトンネルを越えて長者原に着いてしまった。

 長者原から乗った香椎線も筑豊の端を担っていると思いこんでいたが、周辺は完全に住宅地だった。確かに博多から30分程度で着いてしまうのだから、開発の余地は大いにあるだろう。ただし昼下がりだから乗客は高校生ばかりだし、福岡空港に近いはずなのにあまり飛行機も見えなかった。見るべきものがない。

「うみ」がないのに「うみ」とはこれいかに?海のない宇美駅。



宇美(1447)―西戸崎(1544) 760D 宇美→西戸崎
 宇美から長者原までは乗ったばかりの区間を戻る。僕はこういった単純な二点間の往復は嫌いなのだが、香椎線は20分に1本という比較的便利なダイヤなので、他の交通手段に代えようがない。長者原からが未乗区間になるが、こちらも住宅地の中に水田が多少という特徴のない区間である。博多までは目と鼻の先のはずなのだが、まだ開発の余地は大いにありそうだと、不動産屋のようなことを考える。

 香椎に着くと、新たな高校生軍団が大挙して乗ってきた。これからの区間は「漢倭那国王」の金印発見で有名な志賀島に向かって行く砂嘴を走るのだから、てっきり観光区間だと思っていた。ところが雁ノ巣までは畑がほぼ消滅し、大規模に開発された住宅地と団地だらけである。やはり福岡の不動産は鹿児島本線沿線の方が人気なのだろう。

 高校生はほとんどが雁ノ巣までに降りた。そこから先は防砂林と国道に挟まれた区間を走る。なかなか海の見えない区間なのだが、海の中道駅を出ると念願の博多湾が目前に広がって爽快……といううちに、終点の西戸崎に着いてしまい、あっけない。駅は寂れていた。金印観光客を目当てにしたタクシーが数台駅前にいるものの、志賀島まではまだ若干の距離があるため、貼ってある「タクシーの参考料金」が高いと思う。

香椎線西戸崎駅の0キロポスト。



西戸崎(1554)―香椎(1618) 769D 西戸崎→宇美
香椎(1631)―折尾(1654) 3039M 特急ソニック39 博多→大分
 再び退屈しながら香椎まで戻り、やっと特急の自由席乗り放題である周遊きっぷ「九州ゾーン券」の実力を見る時がやってきた。といっても折尾までは未乗区間でありながらわずかに20分である。もちろん遠賀川駅付近で旧室木線の道床は確認したが、他になにかをしようというほどの時間でもない。便利と言おうか、あっけないと言おうか。今日は細かな乗継ぎが多いので、朝からあっけない続きだ。

やって来たのは「白いソニック」でした。白くないのは後日登場。



折尾(1715)―若松(1734) 6462D 折尾→若松
 折尾駅は狭苦しいところにムリヤリ駅を作ったような構造をしているからか、鹿児島線の2階ホームから若松線の1階ホームまではぐるっと回り込み、薄暗い通路を歩かされる。待つことしばし、やはり薄暗いホームから2両編成で列車が出発すると、僕は驚いた。複線だ。こんなローカルな非電化線なのだから、てっきり単線だとばかり思っていたのである。

 うっかりしていたが、筑豊で産出された石炭の積み出しのメインは若松港だ。つまり石炭のメインルートなのだから、往時は単線で処理しきれないほどの貨物車が行き交っていたはずである。確かに若松まで国道沿いの特徴がない区間であるにも関わらず、鉄道用地(要は空き地)は堂々としたものだ。特に若松駅周辺の広大なこと!日本屈指の石炭産出地から、その多くが若松港に運ばれてきていたのである。それでも若松操車場が廃止されてすでに20年以上経つため、空き地の中途半端な一角にある若松駅から一歩出ると、駅前にはぽつんとSLが置かれ、旧若松操車場のことを記した案内板もあったが、往時を偲べるようなものではなかった。もっとも、懐古趣味の欲求を満たすような町作りばかりというわけにはいかないことは当然なのだけれど。

誰もいない駅前広場に立派な石碑が哀しい……



若松渡船場(1748)―戸畑渡船場(1751) 北九州市渡船 若松渡船場→戸畑渡船場
 若松線をそのまま戻るのも面白くないので若戸大橋の下まで歩き、戸畑までの連絡船を利用する。生活密着もいいところで運賃がわずかに50円、自転車でそのまま乗船している人もいる。頻繁に運行されているため、対岸までちょっと買い物という利用だって多いのだろう。乗船時間はわずかに3分である。

戸畑渡船場にて撮影。


 戸畑駅までは船着き場から一本道なので迷子になる心配はないが、ちょっと寒かったのもあって駅まで走ってみた。我ながらバカみたい。



戸畑(1757)―門司港(1820) 162M 二日市→門司港
 この日2度目の門司から先が未乗区間である。海側は工場か空き地、山側は住宅というわかりやすい区間を突っ走ることわずかに8分で、最近はレトロ地区とかで有名な門司港に着いた。九州の鉄道の玄関となる駅だから、本来なら旅をこの駅からスタートせねばならないと思うほどの大切な駅である。それなのに僕がこの駅にやってくるのは半年ぶりなのだ。というのも昨年の夏に山口県内を旅行した際に、ちょっとだけ足を伸ばして関門トンネルを歩いて渡り(歩行者専用の人道トンネルというのがあるのだ)、駅を見物しにやってきたのである。なんせ駅そのものが重要文化財なのだから!

門司港駅の駅舎です。



門司港(1920)―小倉(1934) 2553M 門司港→宇佐
小倉(1940)―企救丘(1959) 北九州高速鉄道 小倉→企救丘
企救丘(2006)―小倉(2025) 北九州高速鉄道 企救丘→小倉
 昨年の夏旅行を懐かしんで瓦そばを食べ、小倉に戻って今度はモノレールに乗った。外はもう真っ暗だから何か見えるほどでもないが、渋滞した道路の真上を進むのは悪くない。しかも隣の団地の7階の高さを走ったりするので、けっこう遠くまで住宅が続いているのがわかる。ただし金曜とはいえこんな時間のためか、往復とも乗客は少なかった。

小倉駅停車中のモノレール。JR改札の真っ正面がモノレール駅です。


 小倉駅に戻って待つことしばし、東京行き上りの「さくら」がやってきたので見物する。ラストランまであと4日だから、ほぼ満席のようだった。寝台特急「富士」で始まって「さくら」で終わったこの一日、だいぶ予定が変わったけれど当初の予定の98%に乗れてしまった。乗車距離は「富士」を降りてから376.8km、ほとんど鈍行ばかりの割にはなかなかの数字となった。




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