2月27日(日)


都城(804)―南宮崎(909) 6756D 西都城→宮崎
 この日はかなり冷え込んだものの、見事なまでの快晴だった。昼間にはどれくらい暑くなるんだろうという勢いの直射日光の下で、まずは昨晩に真っ暗な中で通過しただけだった南宮崎のまでの区間を戻る。かなり空いているキハ147二連に乗って車窓を見ていると、僕が昨日眺めていた南側は都城盆地の端側で、むしろ北側のほうがかなり開けていることに気づいた。ずいぶん広く見える盆地はまだ農業シーズンでないため、霜が降りてすっかり白くなった畑が広がっている。確かにこれなら夜は真っ暗になるだろうが、民家がないということはない。開けていない方に座ったから、失礼な印象を昨日の夜は抱いてしまったのだ。遠くに霧島連峰を眺めながらそのうちに山の中に入ったが、民家が見えなかったのは短時間だった。暗い=開けていない、という単純な認識は改めねばならないと思う。



南宮崎(913)―志布志(1141) 1929D 高鍋→志布志
 乗り換えた日南線は老若男女、特に数人のグループがとても目立った。みんなどこまで行くのかと思ったらわずかに15分、ほとんどが木花駅と運動公園駅で降りてしまったのである。なるほど、読売ジャイアンツのキャンプ最寄り駅だ。ガキどもはジャイアンツ見物、高校生は隣接する運動公園で部活の試合だろうか。ともかく15分だけが通勤ラッシュ状態だったキハ40の単行は、身軽になって南に向かって走る。なんだか日差しがどんどん強くなっているような気がする。なるほどここは“日向”、乗っているのは“日南線”なのだ。

 駅間距離が短いので、列車はちょこちょこ止まりながら宮崎県内を南下する。某国営放送の連続テレビ小説でちょうど放送中の番組の舞台となった飫肥を過ぎ、日南市内に入ると残った乗客は油津駅でほとんどが降りた。どうやら駅前の野球場で行われている広島カープのキャンプを見物するようである。さらに南郷では西武ライオンズのキャンプが行われている。グラウンドは駅から遠いようで、駅前には歓迎の旗がはためいているだけではあったが、日南線沿線はプロ野球ファン垂涎の路線だと思う。去年の球界再編問題ではいろいろあったけれど、騒動は今後どうなるのかな、と思う。

日南カラーというわけではありませんが、キハ40です


 志布志に近づくにつれ、山間ということもなく畑とビニールハウスと茶畑が目立ってきた。ガッチリと守られたビニールハウスでは、植えられて間がないような大きさなので何が植わっているのかわからず、先達があらまほしきところである。僕でもわかるのは線路際に目立つ菜の花だ。春はもうすぐそこまでやってきていると言うけれど、ひょっとしたら宮崎にはもう春がやってきていたのかもしれない。

 日南線はしばらく海から離れたものの、串間を過ぎてから志布志湾がスカッと見渡せるようになった。逆光のため、日光が海に反射してまぶしい。遥か向こうの志布志港にはフェリー「さんふらわあ」が見える。船体には日光、上空にも日光。“日南”という地域名をつけた人は本当に天才だと思う。そのうちに民家の中に突入し、列車は終点の志布志駅に着いた。その昔は日南線・志布志線・大隅線という三路線が集中する駅だったのだが、こぎれいに整備された一面一線の静かな駅だった。

旧駅は撮影している僕の背後で、鉄道公園になっています。


志布志駅(1227)―垂水港(1415) 鹿児島交通バス 志布志→垂水中央病院
 駅前にない駅前バス停を探して迷子になることしばし、なんとか発見してバスを待つと、やってきたバスはどこにでもいそうな普通のバスである。トイレのない普通のバスに2時間も揺られるのかと思うと、昼飯にビールを飲まなくて本当によかったと思う。

 バスはしばらく旧大隅線と平行に走る。線路跡は国道からずいぶん離れているので、川を渡る際にチラッと見える程度、廃線跡好きには欲求不満の区間だ。それでも沿線の旧大隅大崎駅跡付近は開発されて健康ランド?のようになっていて、旧駅跡も若干整備されているようだが、バスの中では詳細がわからない。さすがに降りて調査する時間もなく、さらに欲求不満が溜まる。レンタカーにするんだったかな、と思う。

 東串良までは辛うじて廃線跡がわかったが、串良町に入るとすっかり廃線跡から離れてしまったようで、さっぱりわからなくなった。道路もアップダウンが激しく、鉄道を通せる雰囲気ではない。このアップダウンがそもそも桜島の火山灰による造形なのだろうか、と思う。手持ちの地図(ロードマップ)を見ても周辺に温泉のようなものはないし、目立った火山は桜島(と開聞岳)くらいのものである。ならば大隅半島の中部はシラスがメインの台地であり、桜島付近は北西からの風が吹くことが多いのだろうか。そうでなければこの台地はどのように造形されたのだろうか。勝手な考察を巡らすことしばし、鹿屋バスセンターに着いた。

 鹿屋から垂水港まではバスが30分に1本という区間である。僕が乗ったガラガラのバスは市内のゴチャゴチャしたところを抜け、そのうちに自衛隊の基地と特攻慰霊塔のそばを通過する。特攻!知覧だけではなく、大隅半島からも最初で最後の出撃が行われたのである。戦後60年とは言うけれど、戦争はそう遠い昔の話ではないのだ。

 退屈な郊外をしばらく走ると、急に視界が開けて目の前に錦江湾が広がってきた。アップダウンを繰り返しながらずいぶん高いところまでのぼってきたようで、対岸の指宿市付近や正確な円錐に見える開聞岳まで視界は十分である。じっくり眺めるだけでまた数時間が過ごせそうな気がしたが、バスは海に向かって容赦なく高度を下げる。そのうちに南の方から廃線跡が合流し、海と山に挟まれた狭い地域を垂水に向けて北上するのである。進行方向の左は海が見放題、右(山側)は廃線跡が見放題。廃線跡が国道より若干高いところにあるものの、遺構を見つけるのは容易である。海側を見て山側を見てさらに海側を見てと、慌ただしいままにバスは進んで行く。

旧大隅線の、橋の跡でございます。こんなのを見て喜んでいるのが鉄なのです。



垂水港(1430)―鴨池港(1505) 大隅交通ネットワーク(フェリー)
 鉄道も飛行機も好きな僕だが、船だって例外なく好きである。しかも桜島を見倒せるこの航路は念願だった。わずか35分間の船旅を念願にするのだから、我ながら安いもんだと思う。

フェリーで移動です。

フェリーのお客様に「ブヒブヒ」としかおっしゃらない方が乗船されておりました。


 刻一刻というほど早い展開ではないが、噴煙がまったく見えない桜島の南側から西側に船が進むにつれ、桜島の形は凄みを増して行く。峯と峯との間がガケのように見え、荒涼とした風景だ。もともと火山活動が穏やかな日だったようで噴煙はほとんど見えず、冷めたポットから湯気が上がっているようである。それでも西側から見る桜島は、地球の出口がすぐそこにあるのだと思える光景である。この山を幼少期から眺めていたら、大志を抱く(例・江戸幕府を倒す)のも当然かと思う。

桜島の南側はこんな感じ。

南西からだとこんなふうに見えるのです。


鹿児島中央(1616)―新八代(1703) 54F 新幹線つばめ54 鹿児島中央→新八代
 鴨池港から鹿児島中央(旧西鹿児島)駅までバスで移動し、今度は九州新幹線の乗客となる。まもなく開業一周年ということで、駅では記念ティッシュが配られていた。駅で電車のティッシュをもらうというのはなんだか不思議な気がする。

すっかり工事も終わった鹿児島中央駅。


 九州新幹線の車両は、東海道新幹線の700系車両に準拠している。そのため大体の雰囲気は700系なのだが、車内のいたる所に木が使われているので、無機質な感じはしない。ただし背もたれ部の裏側も木なので、僕が座った目の前につるっとした木がどーんと置かれているような、なんとも言えない圧迫感を感じてしまう。それでも各駅停車タイプの列車でさえ乗車時間はわずかに47分、ガマンできない時間ではない。列車はほぼ満席で発車した。

ホームドアが高いので撮影するのがけっこう大変な九州新幹線「つばめ」。



 発車してしまえば新しくできた新幹線、トンネルに次ぐトンネルである。たまにトンネルから顔を出すと緑一色で、そのうちに駅に停まって若干の乗客が降りる、といった連続だ。こうして去年までは特急で2時間以上かかった区間を、新幹線はさすがの速さで快走する。あっという間というのはこういう時間のことを言うのだろう、トンネルだらけの割には飽きる前に新八代に着いてしまった。


新八代(1706)―博多(1853) 54M 特急リレーつばめ54 新八代→博多
 新八代駅では、新幹線ホームの向いがわが在来線ホームである。そのため階段を上り下りすることなくスムーズに乗り換えられるのだが、6両編成の新幹線から7両編成の在来線特急にほぼ全員が乗り換えたらどうなるか?新幹線のほうが席数が多いのだから、在来線の方が1両多いとはいえいきなりの混雑である。この詰め込みの方針はなんとかならんかなと思うが、車内販売でビールを買ったらもうどうでもよくなった。つばめもかなりの高速で博多に向かって突っ走る。そろそろお腹が空いてきた。夕飯はなににしよう?

博多(1905)―小倉(1944) 3049M 特急ソニック49 博多→大分
 わずか12分という絶妙のタイミングだったので、博多での夕食をやめて特急「ソニック」に乗り換えてしまった。白くない、いかつい顔をした「ソニック」に乗車するのはこのときが初めてだったのだが、なんちゅうかもう、なんて説明したらいいかわからないほど“意欲的”な列車である。座席はスペースワールドを意識したのかあまり落ち着かない内装であるものの、座り心地が意外によかったので文句は言わない。すっかり日も暮れてしまった中、人身事故の影響でノロノロ運転を余儀なくされた特急は、10分ほど遅れて小倉に着いた。

 小倉では一昨日と同じホテルに泊まり、寝る前のお楽しみの「今日の移動距離」の計算をする。新幹線を利用して朝から晩まで動いたのだから、JRだけで492.4km、バスと船の距離も入れれば、この旅行最大の移動日になっているはずだ。またしても長い一日だった。





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