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第5日(8月24日・火曜日)

札幌(2204)―稚内(600) 311D 急行利尻 札幌→稚内
 今回の北海道旅行で、最初で最後の夜行である。東京で指定券を取ろうとした時に、満席と言われたこともあったが、その後首尾よく並びで指定がとれた。指定席の車両はキハ480、快適である。寝台車もあるのだが、それはTsの希望でやめた。そんな急行利尻は4両編成だが、後ろの1両は旭川止まりである。旭川で切り落としてどーするのだ?へんなの。
 眠いのだが、なぜか眠れない。Tsは、僕との雑談(“まんじ”を使ったダジャレ大会。完全に2人とも壊れている)が一段落したら、寝てしまった。0:01に旭川着、最後尾の車両の分割作業を見物する。札幌―旭川間は交通の大動脈なので、乗客には急行利尻をこの区間の最終列車(厳密には最終1本前=0:56に到着する網走行き特急オホーツク9号が最終)として乗る者も多いようだ。なるほど、後ろの1両から前3両に乗り換える人はいない。そんな分割風景を見ていると、Tsも起きてきた。29分の停車時間を利用して、2人で歯を磨く。停車時間中の歯磨きは、こちらとしてはごく自然な行動なのだが、一部の人に奇異の目で見られた。寝る前に歯くらい磨こうよ・・・
 旭川を出たら寝てしまい、気づいたら駅に止まっていた。時計を見ると3:15、音威子府である。寝ているTsの横をすり抜け、せっかくだからホームに降りてみたが、真っ暗で何も見えない(あたりまえだ)。外はけっこう寒く、気温は20度以下ではないか?半袖ではつらい。音威子府を出たところで、また眠りに落ちた。
 この列車は深夜にもかかわらずちょこちょこ止まる。僕は寝ていたが、Tsは4:06着の天塩中川で下車客があったことを確認している。僕が目を覚ましたのは豊富(5:06着)だったような気がするが、ほとんど覚えていない。完全に目を覚ましたのは抜海を過ぎたあたりで、終点稚内まであと15分くらいである。夜行だから、稚内に着いても「乗った」という感情はわき起こらないかな?これは帰りに期待しよう。

稚内
 ついに終点・稚内に着いた。最果ての駅はわずかに1面2線、もっとも、これ以上のホームは不要だろう。やや肌寒いホームに降り立ち、まずは深呼吸。しかし、本当に稚内に着いたのか、イマイチ信じられない。立ち食いソバ屋が開いていたので、まずは腹ごしらえ。駅舎の中には、天北線写真展とやらをやっていて、鉄が群がっている。一方宗谷本線にも、特急を走らす予定があるそうな。路盤を補強して、札幌―稚内間が1時間も短縮されるらしい。その特急の名称を募集するポスターを発見、Tsに“スーパー利尻”でいいんでないの?と言うと、即座に却下された。安直すぎたか(後日、“スーパー宗谷”と発表された)。
 駅外にある駅付近の案内図を見て、北防波堤が近いことを知った。しかし、稚内での滞在予定時間は41分である。何もできない。ここは、また来る必要がありそうだ。コンビニに行ったTsが、道路案内標識の青看板にロシア語が書いてある、と言う。さっそく僕も見に行った。う〜ん、漢字の下にローマ字とロシア語。ここで、初めて稚内にいるんだと実感した。

稚内(641)―名寄(1016) 4326D 稚内→名寄
 稚内からの一番列車は、キハ54の単行だった。車内は自転車での北海道旅行集団がほとんどだが、僕たち2人は首尾よくボックスを占領できた。そして、さっそく南稚内で旧天北線跡を確認、頼り無い空き地がこちらから離れていくのが見えた。
 南稚内―抜海間で、礼文島と利尻島が見えた。利尻富士は頭を雲の上に出している。天気がいいから、とてもきれいに見える。Tsと話すと、彼は急行利尻の車内でも利尻富士が見たくて、寝ないようにこらえていた時があったそうな。なるほど、とにかくこれは見るに値する。いずれあの島々にも行かなくてはとも思う。ついでに、この付近の東の方に「大規模草地」なる、北海道から補助が出ている草地があることを知った。草地に補助・・・詳しいことは知らないが、北海道行政の奥深さを感じる。
 Tsが寝てしまったので、1人でぼーっと外を眺める。しばし牛だらけの区間を走り、幌延着。しかし、なぜか旧羽幌線跡は確認できなかった。もっとも、僕たちの席は東側、羽幌線は西側に分岐してゆく。これではディティールがわからない。その分、音威子府で天北線跡を確認しようと気合いを入れるが、なぜかよくわからないまま、音威子府に到着してしまった。
 深夜とまったく印象の違う音威子府は、わずかに2面3線。広大な構内は、草が生えまくっている。停車時間が11分ほどあるので、寝ているTsをそのままにして駅舎まで行ってみた。音威子府駅舎はログハウス風の造りをしているが、ドライブインの公衆トイレに見えなくもない。ここで初めて音威子府の行政区画が「村」であると知る。てっきり「町」だと思っていたのだが、なるほど駅の前は閑散としている。自動販売機さえない。咽が乾いたので、駅の中の自販機でコーヒーでも・・・と思ったら、ほとんど売り切れ!そんな駅の中に、天北線資料館なるモノがあった。鉄めあてに作ったのかどうか分からないが、他にウリはないのだろうか?
 紋穂内を過ぎたあたりから、水田が広がってきた。なるほど、「穂」という字がつくだけのことはある。肘掛けに頭をぶつけたTsが目を覚ましたので(目を覚ましたとは言えないか?)聞いてみると、北海道の稲作の北限は留萌支庁遠別(旧羽幌線沿線)とのこと。宗谷本線沿線は水田に向くような広くて平らな土地がないから、紋穂内が北限になっているのだろう。
 これまた駅舎がきれいな美深では、今回の北海道旅行初の入場券を購入。もう硬券入場券なんて置いてないと思ったのだが、聞いてみるものだ。発車してから美幸線跡を探し、なんとか確認するもののイマイチ自信がない。最初の予定では、4日目にここまでドライブしようなんて話してたこともあったのだ。すっげー遠いな・・・
 そして名寄に到着した。これで北海道のJR全線に乗ったのだ。しかし、満足感はなかった。まだ乗り足りないような気がした。これを一つの区切りとして、また何度も乗ってやろうと思った。

名寄(1018)―旭川(1147) 3324D 快速なよろ6 名寄→旭川
 キハ40の2連に乗り換える。さっそく旧深名線跡を確認。また、こちらの線路に並行して鉄道公園があり、SLが2輛ほど展示してある(その後Tsからの指摘により、実は雪掻き車両も2輛あり、計4輛が展示されているそうな)。ただし、観光客が来るのかが疑問だ。
 この区間も昼間に乗るのは初めてだ。風連はもち米の里ということで、車窓に揺れる稲穂はもち米だらけだそうな(見た目は普通の米とかわらない。キチンと説明されたってどうせわかんないだろうが)。また、和寒付近の沿線はそばとかぼちゃだらけということを確認。昼間の車窓は、どこもかしこも情報だらけだ。きょろきょろするうちに旭川到着。昼食は、駅弁売りのお姉さんから買った、さけ親子わっぱ。具が多くて食べづらい(うれしくもあり悲しくもあり)。

旭川(1200)―札幌(1320) 3012M 特急スーパーホワイトアロー12 旭川→札幌
 札幌までは「僕が車で勝った」特急スーパーホワイトアローに乗車することで、万字への道中を急ぐ。列車は快調に飛ばすが、乗客は少ない。自由席なのに、滝川でやっと7割程度だった。妙に車内が静かなこの列車は、わずか80分で札幌に到着した。ついでに、この特急・785系の車内はシンプルだが、直接照明だか間接照明だかわからない、微妙な位置に蛍光灯がついている。

さっぽろ―自衛隊前(時刻失念) 地下鉄南北線 麻生→真駒内
 もう心は万字に飛んでいる。2日連続万字探訪なんてと思うが、早く万字炭山の真相を確かめたい。

Ts家―旧万字炭山駅跡―Ts家―札幌駅北口
 はやる心を押さえながら、前日と同じ道を走る。めざすは渓谷に架かる橋の、万字駅側である。その前に、志文―上志文間を国道234号が横切っている。そこをどうやって線路が通っていたかも確認したいのだが、制限時速で走ったくらいでは分からない。とりあえずはいいや、まずは万字炭山だ。
 万字駅前を通過し、運命の渓谷の橋へ。渓谷の橋を右手に見ながら、昨日も行った細い道に入るべく、直進する。山がいっそう深くなり、ダートになってしまった細い道(すれ違い困難)を走ると、左手が開けた。車を止めて降りてみると、駅の構内のようだ。足元はボタ?広いのでどこが本線か分からないが、ここは操車場のようになっていたのではないか?石炭を積んだ貨車がひしめきあっていた?歩き回ってみて、きっとここが万字炭山駅跡だろうということになったが、確信がもてない。車で、もうしばらく進んでみた。
 この道は、前日に立てた“廻りこんで万字炭山駅へ”という仮説にそって進んだ道である。前日には道道に復帰すべく登った急坂を右に見る地点に来た。直進すると、倉庫のような建物が左側に1軒あるのが見える。するとTsが車をすすめ、建物の先で止まった。建物の奥に見えたのは・・・ホーム!ここがホンモノの万字炭山駅なのだ!1999年8月24日15:51、前日に来た30m先が、僕たちが探し求めた目的地だった。外は霧雨が降っているが、せっかくだからとホームを見に行ってみる。わずか1両分さえもない古ぼけたホーム跡は、すっかり雨に濡れていた。
 さらにその先へと車をすすめたが、この先は完全な山道(林道?)である。どうにもならなくなる前にターンして引き返すことにした。こうして2日間に及ぶ万字線探訪が終わった・・・わけではない。最後の砦は志文―上志文間の国道越え線路跡である。この日もダートを走って線路跡を探してみたが、やはりわからない。さらに国道に戻ってから周囲を見ると、線路跡っぽいものがまるでなく、草木が生い茂ってしまっていて、結局分からずじまいだった。最終的に、志文駅付近の踏切りで埋め立てられた万字線の踏切り跡と、踏切りの隣の川にあった橋梁跡を発見したことで、万字線の調査を終了した。国道越えの実態は最後までつかめず、Tsに今後の追跡調査を依頼する。
 こうして、北海道での予定はすべて終わった。18:20にTsの家に戻り、荷物を持って車で札幌駅へ。お礼の言葉に続いて出た僕の言葉は、また来るよ、だった。

札幌(1919)―新千歳空港(1955) 3972M 快速エアポート192 札幌→新千歳空港
 ちょっとしたおみやげをKIOSKで買って、ホームに向かった。せっかくだから指定を取ろうかとも思ったが、みどりの窓口に行くのが面倒だからやめる。列車はだいたい座席が埋まっていたので一瞬後悔したが、歩き回ると最後尾の車両は空いていた。

新千歳空港
 夕食を取るべく、レストラン街へ。歩いている最中に、家から電話があった。東京は雷と大雨で、山手線も京浜東北線も止まっている、とのこと。まあ、僕が東京につく頃にはなんとかなるだろう。まるで深刻に考えずに、巨大なビールタンクのある店に吸い寄せられ、ビールを飲んだ。
 食事をしてしまえば、やることがない。ひたすらぼーっとして、21:20に搭乗ゲートに向かった。例によって手荷物は預けないで・・・と思ったら、リュックを開けてくれと言われた。いいですよ、どーぞ。
 「これは何ですか?」
あれ・・・?どっひゃあ!!犬釘がリュックの中に!!乗員に預けるのはイヤだったので、スポーツバッグごと手荷物を預けることにした。手荷物を預ける時に、中に釘があると、先に言っておく。ハイジャック犯と間違えられたら、たまったものではない。係員が「他に壊れ物はありますか?」と聞いてきた。もうない・・・しまった!
 「酒ビンがあるんですが・・・」
 やっとサテライトへ。ここでは、東京モノレールの切符を売っていて便利だ。なんせ、僕が乗る最終便・JAS124便の羽田到着予定は23:20、モノレール最終は23:35だから、1秒でも惜しい。ヒマだったせいもあり、モノレールの切符を買った。

新千歳空港(2150)―羽田空港(2328) JAS124便 MD90
 全席3+2列シートのMD90は、定刻に動きだした。行きに搭乗したB777とは、比べ物にならないほど古臭い。まあいいや。わずか90分で東京なのだから。機内ではまた落語を楽しんだ(柳昇・昇太の師弟共演だったので、聞き逃せない)。
 機内にはモニタがついている。B777は全席についていたが、せまっ苦しいMD90には、手荷物入れのところにくっついているだけだ。飛行経路が表示されていて面白いのだが、それによると、なぜかこの飛行機は房総半島を廻りこんで、羽田には南からアプローチしている。雷雲を避けたのだろうか?とにかく、こちらはモノレールの時間が気になりだした。

羽田空港
 着陸したのは23:28だった。モノレール最終まで、時間的にかなり厳しい。僕の席は5列目なので、到着した瞬間に走れば間に合うだろうか?と、全力で計算したことを無にする事態となった。
「当機はバスゲートに到着いたしました」
終わった・・・しかたない、京急だな。預けた荷物をピックアップし、モノレールの改札に着いたのは23:40、すでにモノレール最終は出た後だ。とりあえず千歳で買った切符を払い戻してもらう。飛行機が遅れても、臨時列車を運行してくれはしないのか・・・
 京急の改札に行くと、まだ列車は2本あった。しかし、京急蒲田まで行ったとしても、品川行きはもう終わったそうな。これはマズい。タクシーでJRの蒲田まで行っても、京浜東北線最終赤羽行きに間に合うかどうか微妙だ。もうタクシーで家まで直行するしかないのか。そう思って財布の中身を見てみると、所持金は5000円もない。絶対に足りないだろうと思い、家にSOSの電話をした。なんで旅の終わりがこんななんだよ・・・
 この日は落雷のためにモノレールも止まったとかで、タクシー乗り場に客が殺到、いつもは余るらしいタクシーがまるで来ない。異常気象好きの僕も、いざ自分が足を乱された張本人となると困る(後に、この日は未曾有の落雷で、JRの列車400本が運休・48万人の足が乱れたことを知った)。30分も待っただろうか、タクシーに乗れたのは24:25、自宅に着いた時には24:50になっていた。部屋に荷物を置いた瞬間、疲れがドッと襲ってきた。

第5日目写真館(1枚だけ)


5・あとがき
 北海道から帰ってきても、充実感はなかった。最終日のドタバタで疲れたのもあったが、出てくることは「次に渡道するのはいつか?」。
 本文にも書いたように、まだ何度でも乗ってやろうと思うし、何度でも渡道してやろうとは思うのだが、そうしょっちゅう行けるわけではない。しかも、今回は特急をさんざん利用したせいか、勝手が違うことだらけで、忘れ物でもしたかのような気分である。ただし、すべての印象を万字に注ぎ込んでしまった観もあるのだが・・・とにかく、僕が「乗ったことがない線」は北海道にはもうない。しかし、「乗りたりない線」は?本当に、線路は続くよどこまでも、とはよく言ったものだ。
 さて、その後のTsの報告による、志文―上志文間の国道越えの真相だが、僕たちが通った国道234号は新道であり、万字線が廃止されるまでには完成していなかったということが判明した。つまり、国道234号新道は万字線が廃止された後に完成したわけだから、線路を無視して作られたのである。当時の国道234号は旧道だけで、跨線橋のある細っこい道が、国道234号の旧道だそうな。これでは面影を見つけられるわけはない。ただし、万字線には大変に失礼な話だが、冗談まじりに調査することにした万字線が、ここまで僕たちを楽しませてくれるとは思わなかった。
 最後に、例によってお礼を述べようと思うが、今回の北海道旅行に参加した先輩の中で、会社をサボって参加してくださった方がいる。個人名を挙げると問題になるかもしれないので、ここはあえて札幌在住のTsことはぢめ君と、相棒Tことまさき先生にのみお礼を申し上げることで、代表してもらうことにさせていただくことにする。感謝している。

1999/11/27 東京にて

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