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第6日(8月22日・土曜日)
 実は、この日の予定は前日に決まったのである。僕は室蘭へ行こうと提案したのだが、せっかくTsの車が使えるのだからと考え直し、Tsが以前おもしろいものを発見したという夕張に向かうことにした。個人的に、夕張にもう1度行きたかったので、あっさり自分の提案を取り下げた。
 目的地は決まったが、肝心の車がなんと手元にない。なぜなら、時を同じくして北海道にやってきていたTsの家族が使っていたのだ。いったん返してもらうべく、Tsと相棒Tはルスツに向かった。新夕張で合流ということにし、僕とSは、列車で移動ということになった。

札幌(904)―南千歳(936) 3870M 快速エアポート90 札幌→新千歳空港
 列車がなかなか入線しないのでイライラしていると、なんと特急『すずらん』の折り返しだった。というわけで、特急型車両でとても楽チン。しかし混んでるなあ。
 ところが、ここで血迷っていたことに気付いた。なぜか時刻表を見間違え、札幌をやたらと早く出発してしまったのだ。あと3本あとの快速でもよかったのだ!こうして南千歳で1時間近く待つハメになった。S君ゴメン。

南千歳(1025)―新夕張(1137) 2633D 千歳→新夕張
 さあ、再び追分駅を確認するチャンスがやってきた。速攻寝てしまったSを無視して、いざ追分・・・だが、昨晩の睡眠不足がたたり、またも熟睡!こんどは終点・新夕張駅に入線した瞬間まで寝てしまった。まったく何をやってるんだ、俺は・・・
 新夕張駅前には、JAの大きな店ができていた。昼食でも買おうかと店内を1周するが、めぼしいものがない。仕方がないのでコンビニでお弁当を購入、JAの駐車場に設置されたテントで食事をし、なぜか駐車場に流れていた曲のイントロクイズに熱中してしまった。小1時間ほど待つと、Tsの車が到着、いざ夕張へ。

新夕張―清水沢―大夕張―夕張石炭村―札幌 自家用車
 夕張にもう1度行きたかった理由は2つある。まず自分が炭鉱という職場についての知識があまりないという点。もう一方は、閉山後の寂しさの残る夕張に、前回は(なんと)9分しか滞在できなかった。芭蕉の『夏草や〜』という名句のイメージが浮かんできた瞬間に、帰途についてしまったのである。そんな場所にもう1度行きたかった。
 車でしかいけない場所に足を伸ばすつもりだったので、車で出発した。まず旧三菱石炭鉱業大夕張線の起点・清水沢へ。広大な構内はその8割が草に覆われ(まさに『夏草や兵どもが夢の跡』)、残った2割をJRが使用している。その空地の方では、ちょうど枕木の撤去中だった。線路は早々と撤去された一方で、枕木はなかなか処理しなかったのであろう。もう廃止から10年も経つのに・・・。この路線には3軸ボギーの「ストーブ列車」が走っていたという。乗りたかった。
 旧南大夕張駅の構内(ってほどでもない)には、荒れ果てた除雪車と客車が留置(放置)されていた。サビだらけというレベルではない。とにかく荒れた車両、廃線跡の寂しさをこれ以上増すものはない。
 次は旧大夕張炭山に向かう手もあったが、夕張駅の奥にある「夕張石炭村」に向かった。石炭関係の資料館があったら行ってみたいという、私の提案である。行くと資料館はあったのだが、「夕張石炭村」は単なる遊園地のようになっていて、入場料もやたら高い。石炭資料館だけの入場はできないのかと資料館前をウロウロしていると、学芸員さんがこちらの雰囲気を察したのか、ここだけでも入場できると教えてくれた。
 やはり、知らない世界の資料を見学するのは面白い。ウヒウヒ言いながら見学していると、なんと地下の廃鉱にヘルメットをして入ることができるという。これだ!俺が求めていたものは!大興奮のうちに見学終了。札幌に戻り、この日はサッポロビール園でしこたま飲んで、連夜の夜更かしをした。



第7日(8月23日・日曜日)

札幌(712)―小樽(801) 122M 岩見沢→小樽
 この日でTsと、北海道ともお別れだ。Sは船で帰京するため、また元の二人旅となってしまう。Tsが早朝の札幌まで送ってくれ、僕達は長〜い家路につく。まずは山回りで長万部へ。乗り換えは小樽だけだから、好都合だ。まずは小樽までぐっすり寝て、体力回復をはかることにしよう。天気もいいし。 

小樽(809)―長万部(1123) 2932D 小樽→長万部
 絶好の接続で(これを逃すと4時間ムダになる)、キハ150単行に乗り換えると、車内はごったがえしていた。2日目に見たサイクリングサークルだけでなく、北海道に貧乏旅行に来た人は、数少ない鈍行を乗り継いで帰らなくてはならないのだ。もう8月も後半、内地に戻る人の波にぶつかってしまった格好である。眠いのに座れないまま80分、旧胆振線跡を確認して安心(旧岩内線は予習不足で確認せず)、倶知安に到着したところで、やっと座れた。
 座ったとたんに睡魔に襲われた。起きようと外を眺めるにも、見事な山の中だ。当然熟睡してしまう。起きたら相棒Tが蘭越で入場券を買っておいてくれた。もう一眠りしたら黒松内に到着。なんとこの駅は平日のみ営業で、休日(今日は日曜)は窓口業務をしていない。新たな発見と感動。
 長万部は、噂(東理大生の友人からの情報)どおりの何もない町だった。コンビニに行こうとするも挫折、駅前の駅弁屋でかにめし(うまいぞ)を食べてひたすら待つ。

長万部(1317)―函館(1621) 2844D 長万部→函館(渡島砂原回り)
 これまた絶好の接続(この区間3時間ぶり、逃すと3時間待ち)で長万部を出た。3時間ぶりの割には空いているキハ40単行だが、ふと気付けば今日中に青森にたどり着かないと、東京に帰れないのだ。振り返ると、青森に向かって朝の7時過ぎから「最終電車」を乗りついでいるのである。こんなことを考えていたが、国縫で旧瀬棚線跡を探し忘れることはなかった。しっかり確認し、満足。
 さあ、ちょっと乗りづらい渡島回りの未乗区間を片付ける時が来た。ところが天気があまりよくないせいか、感動が薄い。さらに軌道内を歩く人がいて急停車したり、大沼から観光客がどっと乗って混雑したり・・・
 函館で最後のお土産を買うべく朝市へ。こんな時間だから当然空いていて、閉店間際の店で大量のカニを格安で購入。さっさと閉めたい店と、安く買いたいこちらの思惑が一致・・・したわけではない。店のおっちゃんが勝手に金額を決め(すっげー安い)、僕達はボーゼンと見ているしかなかったのである(買わないなんて言えない雰囲気だった)。

函館(1717)―青森(1956) 3132 快速海峡12 函館→青森
 ついに北海道とお別れする列車は、がきんちょが大騒ぎする、立客の多い列車だった。ここでもなんとか座ることができて、一安心。車窓に目をやればサイロが見える。この光景もしばらくは見ることができないと思うと、本当に惜しい気がした。
 青函トンネルのわずか30秒前に友人から電話!なんとか31秒で電話を切り上げた。大した用事でもないのにここまでアセったことは、めったにない。
 日曜夜の青森は閑散としていた。夕食にもありつけない恐れが・・・なんとか一軒の寿司屋を見つけ、ここで食事だ。青森も海に囲まれた土地だから、うまいものがあるだろう、と思ったら店内に客はいない。しかも椅子がアホみたいに豪華で、おまけに板前はルパンにそっくりなランニングシャツのオヤジだった。相棒Tはどう思ったか定かではないが、僕は恐ろしく落ち着かなかった。






第8日(8月24日・月曜日)

青森(622)―弘前(705) 632M 青森→弘前
 いよいよ帰京する朝である。朝はソバでさらっと済ませた。それにしても、上野まで帰るのに弘前に向かうというのが不気味だ。東北本線を直行すると1日では上野に着けないからだが、なんにせよ遠ざかっているような気がする。そんな列車は701系5連、ロングシート嫌いの相棒Tが嫌がる車両だが、これに乗らないと帰れない。そんな列車は、弘前から青森方面への通勤・通学客を迎えにいくような列車だから、ガラガラである。わずか40分だがゆっくり眠れた。

弘前(708)―盛岡(1030) 3928D 快速八幡平 弘前→青森
 僕はよっぽど疲れていたらしい。席に座って間もなく寝てしまい、起きたら十和田南。なんと90分が過ぎていた。寝過ぎて少しボーっとする。寝ぼけ眼で車窓に目をやれば、見えるものは田んぼと山ばかりだ。水田が続くと山に入り、また水田が・・・という連続。この水田が日本人の胃袋を支えていると思うと、自然と頭が下がる。
 沿線には民家や温泉宿も多く、山の中を走るといっても、原生林の中というわけではない。2両のキハ58には、観光客も乗って空席がほとんどない。みなさん温泉帰りらしく、元気と肌のツヤがいい。元気なおばさん達に囲まれた列車だった。ただ、岩出山は雲がかかって見えなかった。
 盛岡ではわずか30分しかないので、駅弁屋さんで昼食を購入。朝が早くて軽くしか食べていないから空腹だ。結局、列車が走りだす前に食べ終わってしまった。

盛岡(1100)―一ノ関(1230) 1536M 沼宮内→一ノ関
 701系は北東北のエースとなる車両だが、ロングシートには旅情というものを感じないので、やや残念だ。再びそんな701系2連の客となった。
 沿線はとにかく米!米!米!そして風鈴だらけ。南部鉄が名産とはいえ、ものすごい。
他にやったことは、花巻で500キロポストを確認したことくらいか。立派なキロポストだった。線路脇のキロポストは、上野に向かっているのだから当然数字が減ってゆく。なんだかカウントダウンみたいで、とてもよい。

一ノ関(1245)―仙台(1434) 534M 一ノ関→仙台
 またまた701系2連だ。さっきまでの乗客がほぼ全員乗り換えた。みんな、どこまでゆくのだろう?すると、「ムーンライトながら」という声を耳にした。このまま東京を目指せば、『ながら』には十分間に合う。
 さて、沿線はまだまだ米のオンパレードである。今年はやや不作というが、素人目には十分すぎるほど実っているように思える。
小腹が空いてしまい、仙台ではパンを購入。マトモなパン屋だったため、コンビニパンとは違い、とてもおいしい。

仙台(1500)―福島(1619) 584M 仙台→福島
 乗車率は105%といったところだろうか。それにしても、719系6連にこれだけ乗るのだから、人が多くなってきた。もう相棒Tと話す話題も尽きかけている。

福島(1622)―黒磯(1814) 2144M 福島→黒磯
 学校帰りのため、乗り換えたらすでに高校生で車内は埋めつくされていた。乗ったのは455系6連。
 さて、この第8日は、旅行中に書いていた「旅行メモ」の記述が妙に少ない。もう東京に戻ってしまう残念な気持ちが強かったからではないだろうか、と思う。その中で、この区間の記述が異常に長い。旅行帰りに、僕は以下のとおり考察していたのだ。
 「山が近い中にも、民家・畑(水田)は目立つ(市だから当然=福島・二本松……)。北海道や北東北のような大規模農業は、この辺ではムリだろう。また、生徒の絶対的人数が増えているのは、人口に比例している。もはやここは、北の大地から遠い」
わずか半日でこんなところまで南下してきてしまったことが、驚きなのだ。
 この区間の楽しみは、「豊原駅」である。以前、ちょっとした空時間を利用して、黒磯から豊原まで来たことがあった。その豊原をもう1度見たかったのである。そんな豊原は山の中だ。盛岡から上野の区間で、もっともとんでもないところかも知れない。
 <後日談>黒田原〜豊原間は、私たちが通った数日後(8/26)の集中豪雨で盛土の崩壊が起こり、約1ヵ月にわたって不通となった。

黒磯(1829)―上野(2110) 3548M 通勤快速 黒磯→上野
 最後の乗り換えも、なんの問題もなく終わった。10連の列車に乗るのは、何日振りだろう?ともかくガラガラの211系の客となる。この車両は全車両がロングシート、相棒Tのロングシート嫌い病が猛威をふるい、JR東日本への不満が始まる。最初はおもしろがってロングシート擁護を唱えて議論したが、結局東日本の悪口に落ち着いてしまい、そこからなぜか小田急の悪口にも発展。
 ちょっとした停車時間を利用して宇都宮で「最後の晩餐」を仕入れる。最後の2個をなんとかゲット!食べてしまうと、もうお互い話題はない。ほとんど黙りこくったまま、上野に着いた。旅は終わった。




3.廃線データ
 ここでは、本文でちょっとでもふれた廃線についてのデータをまとめてみたい。といっても、ある文献の丸写しだけれど。なお線名の前の数字は、その線の記述が何日目に書かれているか、を表わす。
   線 名     区   間      営業キロ  廃止年月日
 4 根北線 斜里(現知床斜里)〜越川   7.5km  1970年10月31日
 5 札沼線  新十津川〜石狩沼田    34.9km  1972年6月18日
 3 白糠線    白糠〜北進      33.1km  1983年10月22日
 4 相生線    美幌〜北見相生    36.8km  1985年3月31日
 7 岩内線    小沢〜岩内      14.9km  1985年6月30日
 7 胆振線   倶知安〜伊達紋別    83.0km  1986年10月31日
 3 広尾線    帯広〜広尾      84.0km  1987年2月1日
 7 瀬棚線    国縫〜瀬棚      48.4km  1987年3月15日
 4 湧網線   中湧別〜網走      89.8km  1987年3月19日
 3 士幌線    帯広〜十勝三股    78.3km  1987年3月22日
 5 羽幌線    留萌〜幌延     141.1km  1987年3月29日
 1 松前線   木古内〜松前      50.8km  1988年1月31日
 2 歌志内線   砂川〜歌志内     14.5km  1988年4月24日
 4 標津線    標茶〜根室標津    69.4km  1989年4月29日
 4 標津線    厚床〜中標津     47.5km  1989年4月29日
 4 名寄線    名寄〜遠軽     138.1km  1989年4月30日
 2 (上砂川線) 砂川〜上砂川      7.3km  1994年5月15日
 5 深名線    深川〜名寄     121.8km  1995年9月3日  
 6 三菱石炭鉱業大夕張線 清水沢〜大夕張炭山 17.2km 1988年
 5 三井芦別鉄道   芦別〜頼城     9.1km  1989年3月





4.あとがき
 本当は、この原稿は2〜3日でさらさらっと書き上げる予定だった。ところが、今日ですでに20日。書いてみると、あれも書きたい、これも落とせないというものばかりで、ずいぶん長くなってしまった。また、文章も小説調で書いたつもりだが、なんだかいつの間にか紀行文になってしまった。ただ、こうして書いてみると、本当の大旅行だったことがよくわかる。出費も計算したが、なんと¥101.508!ところが、まったく損をしたという認識はない。むしろ、有意義であったことは間違いない。
 ともかく、自分の好きなことをここまで満喫したのは久しぶりだった。また、会いたかった友人2人とも会え、それはなによりすばらしいことだった。その後、札幌のTsは2度ほどこちらに戻ってきているので、なんだかしょっちゅう会っている気がしてならない。学生時代とあまり変わっていないような気さえする。
 最後に、様似のO君ことおーくぼ君とご家族のみなさん、札幌在住のTsことはぢめ君、鉄道旅行にはまったく関心のないS君ことせいいち君、そして、しまいにはお互い話題も尽きてしまった相棒Tことまさき先生には大変にお世話になった。感謝している。

 他にも書きたいことはあったのだが、急に思い浮かばなくなってしまった。

1999/1/9



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