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サイゴノオヤツ

朝霧義水   

「最後のおやつだから、なんでも買ってあげる」
 見上げると、ママはとても寂しそうな顔をしていた。なんで最後なのかわからなかったけど、わかったふりをしなければいけないと思って、わたしは、うん、と頷いた。デパートのお菓子売り場をぐるりと見まわし、ポッキーにしようか板チョコにしようかと迷っていると、ふと、どうしても食べてみたいお菓子があったのを思い出した。たしか一万円くらいしたけれど、なんでも買ってくれるって言うんだから大丈夫だろう。あのお菓子だったらいつものようにお兄ちゃんと二人で、分けて食べることができる。
 お兄ちゃんは生まれつき足が悪くて、補助杖がないと歩くこともできなかった。わたしはママとお買物をするときには、お兄ちゃんと一緒に食べられるおやつを必ず買ってもらう。ママは、それは高い、それは体に悪い、なんて言ってなかなか買ってくれなかったけど、わたしは目当てのものをなんとか買い物かごに放りこんだ。家に帰り、わたしが玄関で「ただいまー」と大きな声で言うと、お兄ちゃんは優しい顔をして奥から杖をつきながら出てきてくれた。そしてわたしたちはダイニングテーブルの席に座り、おやつをはんぶんこにする。ママはそんなわたしたちを見て、ヘンゼルとグレーテルみたいだね、と言った。
 でも今日は、お兄ちゃんの顔はとても怖かった。
「お前は、ママに捨てられるんだ」
 わたしはママとデパートに出かけようとしていたところだった。ママがお化粧しているのを待っている間に、お兄ちゃんはわたしの耳元で囁くようにして言った。
「パパとママは離婚するんだよ。それで、お兄ちゃんとお前は別々に引き取られることになったんだけど、お兄ちゃんの足がこんなだから、ママがお兄ちゃんを面倒した方がいいんだってさ。だからママはお前の親権を捨てる。その代わり、パパはお兄ちゃんの親権を捨てる。これからは、お兄ちゃんの親はママだけだし、お前の親はパパだけになるんだ」
 お兄ちゃんの言っていることは難しすぎて、わたしにはよくわからなかった。シンケンってなんだろう、幼稚園の先生からも教わったことがない。デパートへ行く途中「シンケンってなに?」とママに訊いてみたけど、ママはなにも答えてくれなかった。そのときのママはすごく悲しそうで、顔全体が涙になったみたいだった。
 一週間くらい前、同じようなママの顔を見たことがあった。あの夜、パパとママの言い争う声が家中に響いていた。わたしは怖くなって子供部屋の押し入れにもぐりこみ、しまわれていた布団の中に体をねじこんで、耳をふさいだ。それでも、コップの割れる音やテーブルのひっくり返される音が聞こえてきて、わたしは現実が時間に押し流れていくのを震えながら待つしかなかった。しばらくして静かになったのでおそるおそる押し入れから出てみると、ママはリビングの真ん中で下を向いて座りこんでいた。涙は流していなかったけど、泣いているんだってことがすぐにわかった。ママの横顔には大きな痣ができていて、すぐそばでお兄ちゃんが這いつくばるようにして砕け散ったコップの破片を拾っていた。
 一万円のお菓子を指さしたとき、高いからダメって言われるんじゃないかと心配になったけど、ママはなにも言わずに取ってくれた。でもママはお菓子の箱を見ながらまた悲しそうな顔をした。高いから悲しいんだろうか。わたしは、やっぱりいい、って言おうと思ったけど、その前にママはお菓子の箱を買い物かごに入れてレジへ向かって歩いていった。
 家に帰ってきて、いつものように「ただいまー」と言ってみたけれど、お兄ちゃんは出てこなかった。わたしはダイニングテーブルにお菓子の箱を置いて、サイドボードからナイフを取りだした。ママがお兄ちゃんを呼びにいく。「最後のおやつなんだから。さあ、早く来なさい」
 またママが「サイゴノオヤツ」って言っている。
 おやつは明日も明後日も食べられるのに、なんで最後なんだろう。
 お兄ちゃんとママがやってきて席に座る。わたしは箱を開けると、ママに切ってもらおうと思ってナイフを渡した。これでやっと、お兄ちゃんとおやつが食べられる。でもママはお菓子をじっと見つめるだけで、ナイフを手に持ったまま、いつまでたっても切ろうとしなかった。どうしたんだろう。と、突然、ママは手からナイフを落とし、口の辺りを押さえながら泣きはじめた。ママの涙がテーブルにぽたぽたとこぼれ落ちる。なんで泣いてるの、早く切ってよ。
 テーブルの上で、ケーキでできたお菓子の家が、二つに分けられるのを待ちつづけている。

(2000.6.29)


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朝霧 義水(Yoshimi Asagiri)
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