文藝学校
朝霧義水
水沫流人
苗字の歴史は日本の歴史
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水沫流人の水散歩(3) 東久留米のつづき
蚊に追いたてられて竹林公園をあとにする。
駅の方向にすこしもどると、北東へむかい小川が流れていた。川面をのぞけば底まで見通せるほど澄みきっており、青々とした水草が流れのなかでたゆたっている。
まるで誂えたような風景を前に、水散歩者は魂をぬかれ、フラフラと川をさかのぼってゆく。
落合川という。
川底や、上流の南沢緑地に多くの湧水群を有し、抜群の水質を誇っているそうだ。
それにしても、いま土手の道を歩きながら感じる伸びやかさ、多幸感のようなものはなんなのだろう? そう、気をつけて観察すれば、コンクリートの護岸や金網が見あたらない。土手もずいぶん低く、柔らかな芝生が陽光をあびながら、川原までゆるやかにつづいているのだった。
それは逆に、ふだん僕たちが水に接する川や海べなどとの違いをきわだたせる。通常、そこはものものしい護岸や堤防によって強固におおわれているのだ。
人は水を見る前にコンクリートのカタマリを見、とたんに緊張してしまう。本能的な水への警戒心を、いっそうつのらせるのかもしれない。
さて、それでは水への武装解除をうながすこの希有な風景は、はたして是か非か?
しかし、こんなに美しい流れを目の前にすると、考えるのが面倒くさくなってしまう。僕はいつのまにかジャブジャブと川のなかへ足を踏み入れていた。ザリガニとりの子どもたちが、横で迷惑そうな顔をしているのも気にせず……。
たぶんこのような人間が、真っ先に水の犠牲者となるのであろう。
駅にもどる途中、自動車教習所の前に映画ポスターが貼ってあった。
子どもが赤いデイパックを背負い、なかからカッパが顔をのぞかせている。
『河童のクゥと夏休み』
説明書きを読むうち、不思議な感覚にとらわれた。どうやら原作者がこの東久留米出身で、落合川周辺も舞台になっているらしい。なんだか、みょうなめぐりあわせだ。
「うーん」思わず腕ぐみをしてしまう。
ろくろく予備知識もないまま訪れたこの地は、カッパの「メッカ」だったのか?
さっき川にひっぱりこまれた(?)のも、ひょっとするとカッパのしわざかもしれない。あるいは竹林公園の祠のお導き? つぎつぎと疑問がわいてくる。
こうなった以上、事のなりゆきを見とどけてやらねばならない。
「よし、『河童のクゥ……』を見てやろう」僕は心に決めたのだった。
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