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コラム「水沫流人の水散歩」(8) 崖の上のポニョ



 恋愛小説とホラー小説の間には共通点がある。
 どちらにもドキドキするような「出会い」があり、他人どうしだった者たちが距離をちぢめ、やがて「一線」をこえてゆく。
 ただし「ホラー」の”お相手”は極めつけの「他者」ともいうべきトンデモナイ怪物。「一線」のこえかたが通常ありえない方法で、いきなり闇のなかから襲いかかりガジガジかみつかれたりする。
 もちろん「崖の上のポニョ」は「ホラー」ではなく、ファンタジックな「異類婚姻譚」。人と魚の「ボーイ・ミーツ・ガール」なのだが、それはある面、恋愛と「ホラー」的な要素をかねそなえているとも考えられる。
 さて、宗介とポニョは「異類」という壁をどのように乗りこえたのだろうか。

 とにかく、荒れ狂う波とも巨大魚ともつかないモノにポニョが乗り、嵐のなかを駆けてくる姿がすさまじい。この迫力を体感するだけで、じゅうぶん観る価値はある。
 そこには父親の制止をふりきった彼女の感情の高ぶりとか、制御不能な「水」の充溢する生命力などが表現されているのだろう。
 とはいえ主人公・宗介との再会の場面なのだから、ふた昔くらい前の少女漫画であれば背中にバラの花束でも背負って登場しそうなシチュエーションだ。それがこともあろうに荒ぶる大津波とは……!
 ここで思い出してほしい。嵐の前の晩、宗介の母リサと父耕一が交わしあった照明信号のやりとりを。
 貨物船の船長をしている耕一が仕事で帰宅できなくなり、沖あいから家にむけて信号を送る。さらには機嫌をとろうと船ぜんたいを光らせたりする。対するリサの応答は「バカバカバカバカ……」。
 その悪態にもかかわらず、遠い距離をこえて一点の光でつながっている夫婦の絆がひしひしと感じられ、涙ぐみたくなるようなシーンだった。
 これと相似形をなしているのが宗介とポニョの関係だ。
 しかも2人は人間と魚で、存在としてとてつもない距離がある。また視覚的にも、「崖の上」に建つ宗介の家は、海面からはるかに隔たっている。
 ところがポニョときたら、ミもフタもないような大津波の荒技で難なくこえてしまう。やがてあれよという間に海面が上昇し、崖上にまで到達するのだった。
 リサと耕一の照明信号どころではない。他者との距離を急接近させ、異世界との境界を一気に破砕してしまう暴力的なまでの烈(はげ)しさには、ただただ恐れいるばかり。
 僕はまさに「ノックアウト」された。

 一転、物語の後半は奇妙な静けさにつつまれ、「敗戦処理」という感が強い。
 圧倒的な海の勝利。街は海底に沈み、「死」のような静寂と、原初的な「生」の明るさとが混じりあう。
 それは『千と千尋の神隠し』に描かれた線路の光景や、『カリオストロの城』の湖を想起させる。
 さらにいえば舞台のモデルと思われる瀬戸内海は、その穏やかさもあり、古来から人間の生活のすぐ傍らに海があった。水と陸の距離がとても近いのだ。
 宮崎監督はそこに惹(ひ)かれ、護岸や堤防が目だたない海の姿を描写したかったのかもしれない。その延長上に、作品後半の「パンゲア大陸」的な茫漠(ぼうばく)たる水圏の世界が拡がっているのだろう。

 ともかくも「ボーイ・ミーツ・ガール」である。
 「ポニョ、宗介だあいすき!」のひとことのために陸が水に呑みこまれ、世界中の風景がひれ伏している。なんだか凄いことだ。武装解除された人間は、もはや「グラン・マンマーレ」のお情けにすがって茫々(ぼうぼう)と生きるしかないのだった。


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水沫流人(みなわ・りゅうと)
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