文藝学校
朝霧義水
水沫流人
苗字の歴史は日本の歴史
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コラム「水沫流人の水散歩」(9) 石神井川
川の流れに沿って歩く。
たとえ町なかの中小河川であっても、それは心ときめくすばらしい冒険であり、新鮮な驚きに満ち満ちている。
その意を強くしたのは数年前、石神井川に出会ったときだ。
王子から板橋まで歩き、帰宅したあとも感動がさめやらない。やがて一念発起し、源流の小金井公園から河口の隅田川まで、全流路25キロを踏破した(ただし一気にではなく、3日間に分割したが)。
当時の自分にとって、一大壮挙ともいうべき達成感があった。
いったい、この川のどこに魅(ひ)かれたのだろう。
岸べの緑の豊かさ、寺社や旧跡など歴史的景観は言うにおよばず。が、それ以上に強調したいのは、思うさま蛇行し、渓谷状に深くえぐれた川の形そのものである。古(いにしえ)の大自然の名残をとどめ、そこはかとなく深山幽谷の趣さえ感じられるほどだ。
それもそのはず、かつて滝野川と呼ばれた北区・王子の一帯は、江戸時代、庶民が夏場に涼を得るため滝に打たれたり、行者が修行をおこなうなど、行楽と信仰の場所を兼ねる幽寂の地であったという。
奇妙な感覚だ。
歩けば歩くほど脳が覚醒し、不思議な高揚感のままに足がどこまでも進んでゆく。
あるいは、この「蛇行」がクセモノなのか。
ゆったり歩いているつもりでも、右に左に頭が振られてボディーブローのように遠心力を受け、スローな「ジェットコースター」状態を味わっているらしい。
それとも、ただただ歩行のリズムに酔っているのか。米国キリスト教会の「ペンテコステ派」のゴスペルに示されるように、単調なリズムによるくりかえしは、最も効果的に宗教的陶酔をもたらすのだという。
ふと川沿いの駐車場に目をやれば、観光バスの群れがきれいにペイントされ、やけに賢そう。今にきっと人語を喋りだすだろう。歩道の石垣にはびこるコケは、夕刻になると妖しく光りはじめるに違いない。はたまた、眼下の澄んだ流れに感じ入り、温泉の湯気でも立っていやしないか目をこらす(実際、ずいぶん昔に「音無川温泉」という観光施設があったそうだ……)。
とまあ、こんな調子でやっているうち、桜が満開の季節ともなれば花粉エキスのドラッグ的効果とあいまって、どこかこの世ならぬ世界へと旅立ってしまう輩(やから)もいるとか、いないとか。
2年ほど前、金沢橋横の加賀公園(もとの前田藩下屋敷の築山あと)で、文藝学校・塩見組の花見をした。
ちょうど盛りの頃で花びらの層がいくえにも分厚く重なり、みごとな眺めだった。
そのときの参加者によれば、シートに腰をおろすや否やいきなりハイになり、それはそれは格別な酔い心地だったという。
確かにあの場所、あの状況では、酒を飲む前から出来あがっていてもおかしくはないはずだ。
※雑誌『幽』(12月15日発売・メディアファクトリー)に短編「通り魔」が掲載されております。読んでいただければ幸いです。
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