考古学のおやつ

津屋崎から甘木へ

萬維網考古夜話 第16話 10/Mar/1999

どうやらわかってきたことは、現時点で、●●論自体が充分には深められていないし、●●論と△△器を絡めて論ずるだけの議論の蓄積も、心構えすらない、ということです。それなのに△△器の問題に踏み込もうとした討論の進行には、不満を持っている参加者も多かったようですが、ひょっとして●●研究や△△器研究の現状を明示させるための司会の作戦だったとしたら、恐ろしいものがありますね。この部分を司会されたのは□□さんですから、そのくらいはやりかねない気もします。


一年前の1998年2月、津屋崎という港町で埋蔵文化財研究集会(九阪)「前方後円墳の終焉」がありました。2日目の朝、会場に着いた私を見つけて、福岡県教育委員会の重藤輝行くんが、

あ、白井くん、ちょっと、ちょっと。話がある。

え?なに?悪い話?

いや、来ればわかる。

と言って、私を九州歴史資料館の赤司善彦さんのところまで連れて行きました。うへー。何か悪いことしたかなぁ。あれかなぁ、これかなぁ(身に覚えがあるんか!)。

赤司さん、白井くんをお連れしました。
おお、ちょっとこれを見てくれ。

そこにはコンテナに入った百済土器の高杯が。大刀洗町西森田遺跡で溝から出土したというものでした。時期は5世紀の後半くらいらしくて、ソウルの夢村土城あたりに類例がありそうです。佐賀県の野田遺跡の三足杯とかも同じころじゃなかったでしょうか。

このときは、「また今度見に行きます」ということにしたのですが、ほぼ完形の百済の高杯が日本にもあったんですねぇ。いやぁ、いいもの見せてもらったなぁ。呼ばれたときは、日ごろの行いが悪いもんだから、ついビクビクしちゃいましたけど(^^;ゞ。

さて、そのまま時間がとれず1年が過ぎてしまいまして、今年の九阪の時に大刀洗町に伺うと言うことにしました。また、別の陶質土器の調査で小郡市の埋文センターに伺うことにもしていましたので、九阪前日に2ヶ所で陶質土器を見ることになったのでした。

週末、福岡県の甘木に行ってきます。
天城って九州だったっけ?
いえ、甘木です(^^;。

同じ会話に何度もつきあわされましたが、先月の末、甘木での埋蔵文化財研究集会「弥生時代の集落−中・後期を中心として−」のため、再び関門海峡を渡りました(って、この1年間に何回渡ったかな?)。

(11/Mar/1999補足)「関門環境」になってました。指摘があったので修正しました(^^;ゞ。何度も読み返したのに、読み落としてました。ほかにも修正したところがありますが、さて、どこでしょう。

2月25日は福岡市博物館で「発掘福岡空港」を見て、26日午後は小郡市埋蔵文化財調査センターで念願の津古内畑の新羅土器の高杯を観察し、そこから大刀洗町に行って西森田遺跡の百済土器の高杯を観察しました。半日で、日本で出土した新羅と百済の両方の高杯を観察できるなんて、嬉しいですねぇ(^^。津古内畑の方は、日本では珍しい6世紀後半くらいの新羅土器で、類例は前原市の糸島高校所蔵品くらいしかないものです。

(1/Jan/2010補足)福岡県前原市は2010年1月1日から糸島市

ここ何年か、まるで自動販売機のように資料紹介をしてきたのと、私のことを心配してくださる人たちのおかげで、最近では、たまに陶質土器を見てくれと頼まれることがあります。実際には、こちらの方が拝見して勉強させてもらっているので、「これ、いつごろですか」と言われて困ってしまうことも多いのですが。また、「白井、どこそこの土器は、もう見たか」と聞かれて「えぇー。そんなの、出てたんですかぁ(^^;。」ということもしばしば(情けない……)。でも、以前だったら「もう見たか」とさえ聞いていただけなかったでしょう。以前書いた文章って恥ずかしい内容((^^;赤面)が多いのですが、やっぱり書いといてよかった(^^。

この辺は、研究者の間でも考え方の違いがあるでしょうね。安直にいっぱい書くな、という人もいるでしょう。

さて、すっかり気分が良くなったところで、この晩はアルコールが入ってしまいまして、翌朝(27日)はぐたーっとしたまま甘木に向かったのでした。いえ、ほかの人にとっては決して大量のアルコールではなかったのですが、弱いもんで(^^;ゞ。

昼間の話は全部飛ばして( (__)zzz 寝てたので覚えてない)、初日の懇親会の話に行きましょう。このときに、前回の冒頭にもお話ししましたとおり、閲覧者の方々のご批評をいただくことができましたし、村上恭通さんからは、『倭人と鉄の考古学』について、疑問の点を教えていただきました。

このときに、前原市三雲八龍遺跡(みくもはちりゅういせき)で加耶系の高杯が出ていることも教えてもらいました。原寸の実測図が載っている現地説明会資料をもらいましたが、この手の高杯(と言っても見えないですよね(^^;ゞ)って、三雲では初めてじゃなかったかな?でも、4世紀の末か5世紀の初めくらいですから、出てもおかしくない時期ですよね。あ、でも脚部の突帯の雰囲気がちょっと変ですね。

(1/Jan/2010補足)福岡県前原市は2010年1月1日から糸島市

さらにさらに機嫌がよくなってきたところで、私を見つけた福岡県教育委員会の重藤輝行くんが、

あ、白井くん、ちょっと、ちょっと。話がある。

え?なに?悪い話?

いや、来ればわかる。

と言って、私を九州歴史資料館の赤司善彦さんのところまで連れて行きました。うへー。何か悪いことしたかなぁ。あれかなぁ、これかなぁ(身に覚えがあるんか!)。

などと言いながら、「去年はこのパターンで、百済土器が出てきたんだよなぁ。今年は何かなぁ(^^。」などと甘い考えを抱いていたのでした。

赤司さん、白井くんをお連れしました。
おお、ちょっと頼みがある。

その結果、なぜか翌日の討論で壇上に上がることになってしまったのは、参加者ならご存じの通り。でも、壇上では何もすることがありませんでした(^^;ゞ。李東注さんも李弘鍾さんも日本語できるんだもの。それよりも、よりによって風邪が一番ひどくなったとき壇上に上がってしまったので、大変でした。風邪引くのは自己管理の問題で、他人のせいではないですが。

会場にいる人から見ると、李東注さんや李弘鍾さんが時々私に何か尋ねてるのがおわかりになったと思いますが、あれ、実は論議が×××××××××ったところで、「これ、何の話ですか?」と尋ねておられたのです。でも、まさか「これは○○な◎◎です」とは答えるわけにいかず、困りました(^^;ゞ。

おかげで、こんなに討論を最初から最後までまじめに聞いた九阪は久しぶりでした。いつもはだいたい熟睡してたのに(^^;ゞ。最後にコメントされた方のように、寝たり起きたりしても、起きてすぐ、しっかりまとめのコメントが言える人になれると、いいんですけどね。


少しまじめに、小沢佳憲さんの発表について一言。

資料集98〜99ページの「表3 福岡平野北半部における集落の消長と動態表」に疑問があります。

実は、これらはいずれも私が調査を担当してまして、私が調査した後期の集落がなぜか表から抜けてるんです。
また、小沢さんの表には「土器資料のみの出土など、存続している可能性は高いが確実でない場合。」という意味の記号があるんですが、これによって中期の遺跡数が水増しされているような印象を受けます。
そんなこんなで、中期から後期にかけての画期が強調され過ぎているように感じるんですけどねぇ。

何だか、どこもかしこも中期の終わりか後期の初めに画期がある……という、ちょっと予定調和っぽい討論(うわ……禁句でした?)だっただけに、細かいところを気にしてみました。

いえ、よその心配してる場合じゃありません。このコーナー、手抜き企画が何回続くんでしょう。パワーダウンも指摘されている今日このごろ、気合い入れなきゃね。


[第15話 考古学者,応答せよ−偏在する考古学情報|第17話 誰が指南車を発明したか|編年表]
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