考古学のおやつ

よみがえるオーパーツ・後篇

萬維網考古夜話 第24話 6/May/1999

連休はいかがでしたか?私の方は,何だか考古学のおやつの取材のために連休を使ってる気がしなくもありませんでした(^^;ゞ。その合間に見たNHKスペシャルのDNAの話,なかなか面白かったですね。


『考古学研究』の注に登場した周處墓アルミニウム製帯金具の話を追っています。ここまでの話は前篇をどうぞ。なお,オーパーツというのは Out of place artifact (そこにあるはずのないもの)の意味です。

楊根氏の論文が出た時点では,金属片が銀だったという沈時英氏の分析は未発表でした。それは1962年に内容を補って発表されました。ここから先の中国語文献は,田中史子さんの論文には引かれていません。

沈時英,1962,「関於江蘇宜興西晋周處墓出土帯飾成分問題」,考古1962年第9期,北京,考古雑誌社,503-508

それによると,沈氏は1958年(報告の翌年)12月に帯金具残片のスペクトル分析・化学分析・顕微鏡観察を行い,アルミニウムではなく銀であるという結果を得ました。楊根氏の引用した分析結果は,この分析のようです。南京博物院にこれを知らせると,別の破片が送られ,それを調べてもやはり同じ結果が,つまり銀製であり,アルミニウムはほとんど含まれていませんでした。

1959年4月,沈氏は北京の歴史博物館で,南京博物院から送られた周處墓の帯金具を観察しましたが,その外見は沈氏が分析したものと同様で,沈氏は疑いなく銀製と確信しました。

そして,楊根同志が示した爪ほどの大きさの銀白色の金属片は,外観などが違っていた。話によると,これは南京博物院から考古研究所の夏鼐同志に送られたものである。彼らはこの小片にスペクトル定性分析を施し,そこに大量のアルミニウムが含まれていると証明したのである。

さて,疑惑はかなり明確になってきましたね。つまり,はっきり西晋の帯金具とわかるものは銀で,よーわからん破片が分析され,アルミニウムだったと,沈氏は疑っているのです。そして,報告書に載った写真は銀の帯金具の方だが,分析したのはアルミニウムのかけらの方。これは「張冠李戴」(ちぐはぐ)だから再鑑定が必要だ,というのでした。

沈氏は仮説の実証に乗り出します。1958年12月に南京博物院からもらった資料(最初に沈氏が分析した資料;なぜかもらった日が同じ論文の中で1日違いになっている)と,楊氏からもらった資料を定量的に分析します。結果は,前者はやっぱり銀(90〜95%),後者はアルミニウム(97〜99%)でした。さらに沈氏はアルミニウム片の方を顕微鏡観察します。結晶構造を観察して,鋳造か,それとも引き延ばしたりしているか,によって,作られた時代を推定しようというのですが,よくわからず,20世紀初葉に民間で日用に作られたという仮説を披露しています。そして,周處墓は盗掘を受けており,その際紛れ込んだのではないか,そしてアルミニウム片は1,2片,おそらく元来は1片だけ紛れ込んでおり,それが分析されたのではないか,と言うのです。

これについて,半年後,周處墓の調査担当者であった羅宗眞氏が反論を寄せました。

羅宗眞,1963,「我対西晋[金呂]帯飾問題的看法」,考古1963年第3期,北京,考古雑誌社,165-166

そこで羅氏は沈氏に対し,周處墓の帯金具は人骨のところにあって攪乱はされておらず,発掘中も原位置を動かず,また,堆積土中にあったことを強調しています。型式も広州の大刀山東晋墓(あとでもう一度名前が出ます)と同一で,このような帯金具は解放後,六朝墓の発掘でたくさん出土しており,後世のものではあり得ないというのです。そして,沈氏がアルミニウム製は1,2片で,もとは1片だけだったろうと推定していることにも,アルミニウム製は3片以上あったはずで,銀製と判明してるものだってごくわずかだと反論しています。担当者として,遺物にケチつけられて,少し怒ってるのかも知れません(このあたりの文はけっこう笑える)。でも,重大な手がかりとなる言葉があります。

当時,筆者らは,原物ができるだけ完形のまま保存されるように望んでおり,常に最も小さく最も不完全なかけらを分析に回し,決して原品を損なうことはなかった。

全体に,沈氏の疑問に充分答えてはいませんが,いくつか手がかりを残していますね。沈氏もすぐさま反論しました。

沈時英,1963,「再談“晋墓帯飾”問題」,考古1963年第12期,北京,考古雑誌社,674-678

沈氏は,出土状況に関する羅氏の言葉は,完形の17点であって,アルミニウムと分析された1片がその帯金具に由来するかどうかが問題で,特に,堆積土中から見出された細片(おそらく分析に供された破片群)が完形品と同じ出自とは言えまいと指摘しています。そして,(細片ではなく,まさに)帯金具の全面鑑定を希望として掲げています。

沈氏の疑惑は,実は前稿では幾分曖昧だったのですが,ここでかなり具体的になってきました。果たして,再鑑定は1964年に行われました。しかし,その報告は文化大革命のためか遅れ,『考古』が復活した1972年にずれ込んだのでした。

夏鼐,1972,「晋周處墓出土的金属帯飾的重新鑑定」,考古1972年第4期,北京,科学出版社,34-39

ここで夏氏は,これまでの事態の経過と,諸外国への「アルミニウム製帯金具」の反響などに触れた後,次の指摘をしています。

問題の鍵は,筆者らの分析資料が,みな小片だということにある。そのうちあるものは銀合金,またあるものはアルミニウム合金(さらに正確に言えば「雑質をやや多く含む純アルミニウム」だという)だったのだが,都合17点の完形に近い金属帯金具については,分析によって材質を明らかにされたことが全くなかったのである。

夏氏は,毛主席の言葉を引きつつ,再鑑定の経過を述べます。中国歴史博物館と南京博物院から,壊れずに残っていた16点(1点は壊れていた)を集め,まず,全点の比重が狭い範囲に分布することから,すべて材質が一定であると確認した後,3点を選んでスペクトル分析などを行うと,材質の主体が銀だったので,周處墓の帯金具は全部銀であることが確定しました。

そして,アルミニウムと分析された破片については,盗掘時の混入品で,おそらく由来は1片だけだったと推定しています。

考古学者は,完形に近い出土品を化学分析に供することなど望まぬものである。とりわけ,分析に使えそうな小破片があるときはなおさらである。

この文は次の言葉で締めくくられています。

今後我々は,それ(周處墓の帯金具)を晋代にアルミニウム製錬が知られていた証拠として再引用せぬ方がよい。

文化大革命が終わった後,夏氏は中国の科学技術史について触れています。

夏鼐,1977,「考古学和科技史−最近我国有関科技史的考古新発現−」,考古1977年第3期,北京,科学出版社,81-91

ここでは,今度は毛主席ではなくエンゲルスを4回も引用しつつ,周處墓のことにも触れています。それによると,北京鋼鉄学院が新たな鑑定を行い,完形品16点が銀であることを確認するとともに,アルミニウムのかけらも新たに分析して,20世紀初頭に発明された方法で作られているとわかったそうです(この鑑定の正式報告は,今回探し出せませんでした。ご存じの方はお教えくださいm(_ _)m)。


今回はやたら話が長いのですが,ここで話を切ってしまうとなかなか私の真意が伝わらないと考えたので,3回シリーズにしないで,なんとか話を収めます。

周處墓の帯金具が銀製であるとわかりました。しかし,前篇で触れたように,それはことさらに言うべきことではないのでした。例えば,再鑑定後の千賀久さんの著作を見てみましょう(田中論文にも名前が出てくる論文です)。

千賀久,1984,「日本出土帯金具の系譜」,橿原考古学研究所論集第六,東京,吉川弘文館,299-339

千賀さんは周處墓の帯金具を「銀製帯金具」としています〔309ページ〕。ところが,ここで引用されている文献は,羅宗眞氏の原報告〔1957〕と,『中国化学史稿』です。後者の文献は,今回探し出せなかったのですが,夏氏によると,「晋墓でのアルミニウム銅合金の発見を重点的に紹介している」そうです。すると,千賀さんは帯金具がアルミニウムだと書いている本を引用して,「銀製帯金具」と書いたことになります。なぜでしょう?

実は,次のページで広州市大刀山東晋墓を紹介したときに,参考文献に夏氏の再鑑定の論文を引いているのです。つまり,再鑑定の論文を踏まえて,さりげなく「銀製帯金具」とだけ書いているのです。ここで問題は田中論文に戻ってきます。

田中さんは,千賀さんの論文を読んで,周處墓の帯金具に再鑑定が行われており,その結果を知っている千賀さんが周處墓の帯金具を銀製としていることを知り得たのです。
そして,千賀さんが夏氏の再鑑定論文を大刀山東晋墓の出典としていることに注目しましょう。

田中論文の注13に次の文面があります。

1932年の大刀山墓の報告を実見することができず,龍文については千賀1992に拠った。

しかし,実見できなかったはずの1932年の報告は,なぜか同じページの「参考文献」の中に挙げられています。そうすると,疑問がわきます。田中論文では,読んでない文献も参考文献に挙がっているのでしょうか。楊根氏の論文(銀製という鑑定結果がすでに言及されていた)の名が間違っていたこと(前篇)も思い出されます。

私が問題にしたいのは,田中さんの周囲がどうして周處墓の帯金具の件を指摘しなかったのかと言うことです。例えば,『考古学研究』の査読者です。

小耳に挟んだところでは,「査読が免除される場合もある」と言うことですが,最近号をみますと,

本誌の論文と研究ノートは,それぞれ二人のレフェリーの査読を経て掲載されています。
〔N,1999,「編集後記」,考古学研究第45巻第4号,岡山,考古学研究会,表3〕

と断言されてますから,おそらく何かの間違いでしょう。ただ,無償の協力をしている査読者やその人選を批判するのはフェアではありません。やめておきましょう。

田中論文は卒論のリライトだと言うことですが,卒論指導をした人たちは,少なくとも,「アルミニウムなんて,眉唾じゃないの?」くらいの言葉はかけなかったんでしょうか。不思議です。また,文献の引き方など,もうすこしアドヴァイスすべきこともあったように感じられます(時々出典不明になり,非明示的な引用が多い)。

それとも,あの注1って,卒論の時にはなかったんでしょうか。福永さんに,別件とともにお聞きするつもりだったんですが,時間がなくて聞きそびれてしまいました(^^;ゞ。


何年か前,ある人物が「やっぱり周處墓のアルミニウムは弁当箱だった」と言っていました。その話は,今回私が問い合わせた何人かの人も,「その話は聞いたことがある」そうでした。しかし,その発言の裏を取ることはかないませんでした。確か90年代の初めごろだったので,そのころに何か新事実が発表されていたのかも知れませんが,探し出せませんでした。常識として納得してしまうと,その出典はわかりにくくなるものかも知れません。その点では,私も人のこと言えませんね。


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夏鼐の鼐=[乃/鼎]
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