尾野善裕氏は1998年論文で,佐賀県唐津市・島田塚古墳の銅鋺は北朝陶磁を倣したものという矢部良明氏の主張を引用していますが,よく読むと,矢部氏の挙げた例の一部が抹消されていました。
何か意味があるのかも……と思って中国の原報告を読んでみると,尾野氏が例に挙げる中国河北省景県・高長命墓〔河北省文管処1979〕に,ちょっと問題があることがわかりました。では,続きです。
高長命墓といわれる墓の墓誌は,盗掘のとき壊されて「大魏□(故カ)」の2字半しか読めません。被葬者の名前の部分はないのです。
この墓は高六奇墓の南にあり,さらに南の1基と等距離に配置されている(高六奇の墓誌には,その父は高長命であるとする)。この墓の位置や残存遺物からみて,これはまさに北斉の雍州刺史・高長命の墓であろう。〔河北省文管処1979:18〕
この墓を高長命墓というのは(可能性は高そうですが)解釈であり,この墓は紀年墓ではないのです。尾野氏の厳格な暦年代論に,この資料が混じってもいいのでしょうか。
どうも,尾野氏は矢部論文を一部改変して孫引きしただけで,原報告には遡っていないように思えてきました。
これに関連して,別の問題があります。紀年墓を暦年代論に利用するなら,その墓が最終的に閉塞(封印)されたのはいつか,が重要です。しかし,尾野氏が挙げた年代には,被葬者の没年と埋葬年が混在しています(後で表にします)。矢部氏が没年を挙げたところは尾野氏も没年,矢部氏が埋葬年を挙げたところは尾野氏も埋葬年……つまり,矢部氏の記述のままです。これも孫引きの証拠です。
さらに,山西省寿陽県賈家庄・庫狄廻洛墓では,庫狄廻洛だけでなく2人の妻(斛律昭男と尉嬢嬢)も合葬されています〔王克林1979〕が,合葬墓の場合にその事実を明記する矢部氏は,庫狄廻洛の妻に触れていません。尾野氏も同様です。
夫人・斛律昭男(女性ですが墓誌に「諱昭男」つまり「本名は昭男」とあります)は武定3年(545)に没し,河清元年(562)8月12日(庫狄廻洛の埋葬と同日)に改葬。
妾・尉嬢嬢(こちらはいかにも女の子っぽい名前)は没年・埋葬年ともわかりませんが,墓誌の年紀は天保10年(559)。
したがって,庫狄廻洛墓の閉塞が562年であること自体は動きません。
尾野論文の別の部分でも,尾野氏が庫狄廻洛墓の原報告を見ていないことが明らかです。
尾野氏は「1 武寧王陵出土品類似品の日本における出土例と伴出の須恵器」の「事例3」に,「宜子孫」銘獣帯鏡を挙げていました〔尾野善裕1998:85-86〕。この獣帯鏡を出土した古墳に群馬県高崎市・綿貫観音山古墳があります。尾野氏は,綿貫観音山古墳の獣帯鏡は伝世の後に副葬されたと考え,その理由として,綿貫観音山古墳で出土した銅製水瓶が庫狄廻洛墓の金銅製水瓶に似ていることを挙げています。
この論点自体は,すでに言われていることでオリジナリティがありませんが,ここで庫狄廻洛墓に触れながら,典拠が示されていません(またか(--;)。その代わり水瓶の実測図の出典として今話題にしている矢部論文を挙げています〔尾野善裕1998:93〕。
確かに矢部論文に同じ図があります〔矢部良明1985:6〕が,もし原報告を見たのなら,大して違いのないそちらの実測図〔王克林1979:386〕を参照しそうなものです。
話を銅鋺類似の北朝陶磁に戻しましょう。
明らかに,尾野氏は矢部氏の記述内容を吟味しないで,孫引きしていました。……あ。とすると,重大な真実が隠されてるかもしれないと思って原典に当たった私の苦労は,無駄だったのでしょうかjoj?
いえ,私のことはともかく,孫引き自体はいちがいに悪いとはいえません。典拠も明示しています。問題は,孫引きではあっても丸写しではないことにあります。尾野氏が矢部論文から古い方の年代を抹消したことが問題です。
前回と今回で調べたとおり,抹消の理由は矢部論文にも原報告にも見当たりませんでした。すると,やはり尾野氏の側に何か理由があって抹消したのでしょう。
しかも,問題はそれだけではありません。
同じ半截球形の碗では、先の百済国武寧王陵から出土した銅製鋺五個が重要資料としてあげられる。五二五年(武寧王葬)および五二九年(夫人合葬)の年紀によって下限が定まる鋺は中国における六世紀初葉のこの種の碗を時を移すことなく、受けとめたことが分かる。またやや大振りの銅鋺三個はやはり小さな高台をもつと同時に、胴には二連の陽刻弦文をあらわして、先の高雅墓出土の黒褐釉弦文碗と同一の趣向を示している。先の熊本県国越古墳から出土した銅鋺(図8)もやはり胴に三連、二連の陽刻弦文が施され、佐賀の島田塚古墳出土の銅鋺の場合(1)は、その弦文が細くなるが、同じく三連の陽刻弦文が二本、胴にめぐらされている。〔矢部良明1985:10-11〕
矢部氏は高氏墓・高雅墓に言及してから,房悦墓以下に言及するまでの間に,上の引用のように,武寧王陵の銅鋺にも触れていました。北朝陶磁を銅鋺のモデルと考える矢部氏にとって,武寧王陵の銅鋺は,そのモデルの実在を想定させる重要な証拠であるとともに,北朝陶磁と島田塚古墳の銅鋺を媒介する存在です。
ところが尾野氏は,武寧王陵を島田塚古墳の参考資料に加えません。武寧王陵も合葬墓で,夫妻の埋葬年は李希宗より古いので,結局尾野氏は,矢部氏が挙げた年代を古いほうから順に5つ抹消したことになります。
以上を表にしましょう。矢部氏が採用した年次の順に並べてみます。
没年 | 埋葬年 | 被葬者 | 矢部 | 尾野 | 注 |
---|---|---|---|---|---|
523年 | 524年 | 韓賄夫人・高氏 | ○ | × | |
523年 | 525年 | 武寧王 | ○ | × | 銅鋺 |
526年 | 529年 | 武寧王妃 | ○ | × | 銅鋺 |
519年 | 537年 | 高雅 | ○ | × | 『魏書』では518年没 |
540年 | 544年 | 李希宗 | ○ | × | |
541年 | 541年 | 房悦 | ○ | ○ | 島田塚の銅鋺に特に似る |
547年 | ? | 高長命?(推定) | ○ | ○ | 島田塚の銅鋺に特に似る 没年は『北斉書』による |
562年 | 562年 | 庫狄廻洛 | ○ | ○ | 下記に解説 |
551年 | 566年 | 崔昂前妻・盧修娥 | ○ | ○ | |
565年 | 566年 | 崔昂 | ○ | ○ | |
567年 | ? | 韓裔 | ○ | ○ | 墓誌に埋葬年の記述がない |
575年 | 576年 | 李希宗夫人・崔氏 | ○ | ○ | |
575年 | 575年 | 范粋 | ○ | ○ | |
587年 | 588年 | 崔昂後妻・鄭仲華 | ○ | ○ |
太字が矢部氏が採用し,尾野氏も(一部)孫引きした年代で,没年と埋葬年が混ざっていることがわかります。
なお,庫狄廻洛は没年と埋葬年が同じ年(562年)ですが,間に改元があったので,没年は太寧2年,埋葬年は河清元年と墓誌に刻まれています〔王克林1979:395〕。矢部氏も尾野氏も庫狄廻洛墓を太寧2年と紹介しているので,「没年を採った」とみなしました。
細かいことはともかく,尾野論文では,矢部氏の挙げた年代のうち,古いほうから順に1/3以上が抹消されています。もし尾野氏が,これらの年代をすべて記していれば,「540〜570年代台に集中」などとはとても言えなかったでしょう。
尾野氏が矢部論文から一部の年代を抹消した,尾野氏の側の理由とは,いったい何でしょうか。不幸な偶然が立て続けに起こったのでしょうか。
尾野氏の原文のうち,北朝墓の年代を列挙した部分からは,そろそろ推理も限界です。別の部分を見ましょう。年代列挙の直前の文は,次のとおりです。
佐賀県の島田塚古墳から出土している銅鋺(図21)は、半截球形のプロポーションが南北朝時代の中国陶磁碗に酷似していることが指摘されており、近接した時期のものであることが想定される。〔尾野善裕1998:87〕
この「指摘」も矢部論文に書かれています。参照元を次に引用します。
この二つの古墳(島田塚古墳と国越古墳−引用者)から出土した銅鋺はいずれも半球(半截球体)状となり、小さな高台がつき、胴に弦文が三段にあらわされている。この銅鋺をみて、まず印象づけられることは、その端正な姿であり、内刳りの施された小さな高台である。かつて筆者は「北朝陶磁の研究」のなかで(7)、この種の碗の形式が、早くは北魏正光五年(五二四)の高氏墓(河北省曲陽県嘉峪村所在)から出土した灰釉碗に求められることを説き、……(後略)〔矢部良明1985:10〕
前回も話題の高氏墓は,矢部論文で年代列挙の部分以前に,ここで登場していました。その後,河北省景県・高雅墓が登場し,さらに武寧王陵の銅鋺の意義に触れて,また高雅墓が登場し,そのまた次に,「先の高氏墓や高雅墓を先蹤として」と前置きして,ようやく北朝墓の年代列挙が始まるのです。この間,見開き2ページの出来事です。
つまり,尾野氏は矢部論文で島田塚古墳を取り上げた部分から,とびとびに2回参照していますが,抹消された5つの年代は,2つの参照個所の間にすっぽり収まっています。特に高氏墓の名は,尾野氏の参照個所に2度も隣接しています。
これをすべて見逃すなんて,そんな偶然,あるのでしょうか。
尾野氏が矢部論文から年代を抹消したのは,偶然の事故とは考えがたく,矢部氏の意図を歪めた学説変造の疑いがあります。とすれば,なぜ,そんなことをするのでしょうか。
それは,抹消された年代のもつ法則性から推察できるでしょう。つまり,540年以前の年代で,その中心は武寧王陵です。
尾野氏は島田塚古墳の銅鋺に触れる直前,こう言ってました。
さて、武寧王陵との対比を通して、猿投窯系II期中段階の暦年代の一端を確定したわけだが、その後の各段階についてはどのように考えるべきだろうか。〔尾野善裕1998:87〕
尾野氏は前節で武寧王陵の耳飾・熨斗・獣帯鏡によって年代を論じてきたのですが,この節では話を武寧王陵以後に転換して,島田塚古墳を取り上げています。もしも,読者の意識が武寧王陵に向かわないよう,あらかじめ武寧王陵に近い年代を抹消して予防したのだとすれば,それは恣意的です。
数多くの偶然を想定するよりも,目的意識をもった1つの恣意を想定する方が,抹消の説明がつきそうです。
次回は尾野氏の議論を離れて,島田塚古墳の銅鋺の年代をお話ししますが,その結果,尾野氏が矢部論文に対して施した別のプチ変造と,尾野氏が島田塚古墳に対して行った最大の抹消が,明らかになることでしょう。(つづく)
次回は12月30日公開予定ですが,学校や職場の事情で年明けまで第80話が見られない方もいるでしょう。そのような方がたとは,年内これが最後になります。そこで,冬休みの宿題を出しておきましょう。
まず,次の引用を読んでください。
(2) かつて、武蔵国内における大型古墳の地域ごとの消長から、稲荷山古墳を含む埼玉古墳群の成立を、『日本書紀』の安閑天皇元年(534)条に記された武蔵国造の継承をめぐる争いと重ね合わせる考え方が示されたことがある(甘粕1970、大塚1970)。古墳時代の暦年代観が全般的に引き上げられていく中で、この説に対しては年代的不整合が指摘されるに至っている。〔尾野善裕1998:91〕
これは尾野氏の1998年論文で補註に記されている文です。このうち,特に下線部分は,1998年論文でも出色のマヌケな記述といえます。では,どういう点がマヌケなのでしょう。論文全体の中でこの文の意味を考えましょう。そして,このコラムだけでなく,ぜひ尾野氏の原文や関連論文に目を通してください。
私自身の考え(それが「正解」かどうか,の判断は閲覧者の皆さんにお任せします)は,来年,徐々にお話しします。