考古学のおやつ

抹消の戒律・後篇−島田塚古墳vs武寧王陵

萬維網考古夜話 第80話 30/Dec/2002

第78話第79話で,佐賀県唐津市・島田塚古墳の銅鋺をめぐる尾野善裕氏の議論を辿ってみると,尾野氏は矢部良明氏の論文を不適切に引用していました。島田塚古墳の類例から韓国忠清南道公州市・武寧王陵のころのものを抹消していたのです。

尾野氏は,紀年資料としての武寧王陵を重視しています。その尾野氏が,矢部氏の文意を曲げて島田塚古墳の銅鋺と武寧王陵の銅鋺とを比較せず,武寧王陵より後と決め付けて話を進めるのは不可解です。そもそも銅鋺と陶磁器の対比よりも,銅鋺どうしの対比の方が,紀年資料と須恵器を2つの共伴例と1つの媒介資料で繋ぐ尾野氏の方法論(第78話)に適っています。

また,陶磁器について別の見方もできます。
矢部氏が挙げた北朝陶磁の原典を確認すれば……,いえ,そこまでしなくても,矢部氏が掲げた,中国河北省贊皇県南刑郭村・李希宗墓出土遺物の写真〔矢部良明1985:9〕を見れば,武寧王陵の白磁碗に似ていると気づきそうなものです。これらの碗は第78話で触れた「仮圏足」(高台のように見えるが中が詰まっている)ですが,銅鋺は仮圏足ではありません。もし銅鋺の形が陶磁器に倣ったものなら,ここでも島田塚古墳の年代の根拠として,武寧王陵が考慮に入るはずです。

武寧王陵も類例に加えたら,また,銅鋺どうし比較したら,島田塚古墳の銅鋺はどう位置づけられるのでしょうか。

矢部氏と国越古墳・島田塚古墳

その前に,矢部氏の真意は何だったか,を明らかにしておきましょう。関係部分を,記号をつけて1文ずつ紹介します。

(A) さて、つづいて熊本県宇土郡不知火町の国越古墳、そして佐賀県唐津市鏡の島田塚古墳から出土している銅鋺に焦点を移そう(図8)。
(B) 小田富士雄氏は、伴出した須恵器などから島田塚古墳を六世紀前半、国越古墳を六世紀前半から中葉に位置づけている(1)
(C) この二つの古墳から出土した銅鋺はいずれも半球(半截球体)状となり、小さな高台がつき、胴に弦文が三段にあらわされている。
(D) (銅鋺の形態の特徴を指摘)
(E) (両古墳の銅鋺が高氏墓以来の北朝陶磁に似ると指摘)
(F) (高氏墓の説明)
(G) (碗の形態の起源を考察し,新羅瑞鳳塚のガラス碗を例示)
(H) (高雅墓を例に挙げ,瑞鳳塚のガラス碗の年代を論ずる)
−−段落−−
(I) 同じ半截球形の碗では、先の百済国武寧王陵から出土した銅製鋺五個が重要資料としてあげられる。
(J) (武寧王陵の年紀を指摘)
(K) (武寧王陵の大型の碗を高雅墓の黒褐釉碗と対比)
(L) (国越古墳・島田塚古墳の銅鋺にも陽刻弦文があると指摘)
−−段落−−
(M) (国越古墳・島田塚古墳の類例に北朝墓出土の碗を挙げる)
(N) となると伴出須恵器を拠り所とする小田氏の古墳編年と大差ないことになろう。
〔矢部良明1985:10-11〕

これまで,尾野氏が1998年論文で参照した部分を紹介してきました。第78話で引用した(M)第79話で引用した(C)(D)(E)がそうです。
これに対して,尾野氏が引用しなかった重要部分として(F)から(L)も紹介しました(第79話)。
しかし,冒頭の(A)(B),末尾の(N)は,ここまで出てきませんでした。

まず,冒頭の(A)を見ると,矢部氏は島田塚古墳だけでなく国越古墳も挙げています。国越古墳は須恵器型式のTK10型式ころで,島田塚古墳(MT15型式)より少し新しい古墳です。銅鋺も島田塚古墳のものにそっくりです。
島田塚古墳の類例(矢部氏・尾野氏の場合は北朝陶磁)を,島田塚古墳(MT15)だけでなく,島田塚古墳と国越古墳の2基(MT15〜TK10)に対比した場合,尾野氏の議論には少し修正が必要ですが,ここはひとまず,尾野氏のように国越古墳を抹消して話を進めることにします。

矢部氏は通説を支持

それ以上に問題なのは(B)(N)です。どちらも尾野氏の参照部分に隣接しています。

(B) 小田富士雄氏は、伴出した須恵器などから島田塚古墳を六世紀前半、国越古墳を六世紀前半から中葉に位置づけている(1)〔矢部良明1985:10〕
(この間に類例挙げ,論旨を展開)
(N) となると伴出須恵器を拠り所とする小田氏の古墳編年と大差ないことになろう。〔矢部良明1985:11〕

双方に小田富士雄氏が登場しています。九州の須恵器編年に大きな業績を上げた小田氏は,暦年代論では通説の立場にありますから,矢部氏は結論で通説を支持しているのです。そうすると尾野氏は,矢部氏の挙げた類例を一部抹消しただけでなく,矢部氏の主張をも抹消して,通説否定の根拠に摩り替えていたのです。

もう1つ。上の(B)で矢部氏が注(1)に挙げたのは小田氏の論文〔1975〕で,これ以外にも矢部氏は論文中で毛利光俊彦氏の業績〔1978〕を挙げています。矢部氏の論文が両氏の業績に触発されたものであることは,論文冒頭に両氏の名が登場することからも明らかです。今回の最初の方でお話した,武寧王陵と島田塚古墳の対比,銅鋺どうしの比較,それらは両氏によってすでに論じられていました。

とすると,尾野氏は矢部論文を通じて,小田氏や毛利光氏の業績を知ることができたはずです。しかし尾野論文に両氏は引用されていません。

小田氏・毛利光氏の研究

武寧王陵が発見された4年後,小田氏は,銅鋺に着目した動機を次のように語っています。

5・6世紀の墳墓には韓国・日本国を通じてしばしばあい似た副葬品が出土する場合のあることはよく知られているが編年の基準となるべき絶対年代の明らかな墳墓は知られていなかった.我々は型式学的な研究成果を重ねて一応の推定には到着しているものの,やはりその当否を決定するためには絶対年代のわかる古墳の発見が渇望されてきた.武寧王陵の発見はその意味で,6世紀の20年代に比定できる諸遺物を学界に提供して貴重な基準を与えてくれた.これはまた韓国の考古学界のみでなく,日本国の考古学界に及ぼす影響も極めて大きい.〔小田富士雄1975:199〕

検討の結果は矢部氏の紹介のとおり,島田塚古墳や国越古墳を武寧王陵と近い時期に位置付けるというものでした。

一方,毛利光氏は日本・中国・朝鮮の銅鋺を集成・分類・比較し,中国に島田塚古墳出土品と類似した銅鋺があると指摘しています〔毛利光俊彦1978:12〕。陶磁器と比較するだけでなく,銅鋺どうしで中国と比較できるのです。

大勢において中国・朝鮮出土銅鋺と我国の銅鋺とが各時期に亘って密接な関連を有していたことは認めねばならないであろう。〔毛利光俊彦1978:13〕

外国資料で暦年代を論ずる尾野氏にとって,毛利光氏の指摘は朗報のはず。どうして尾野氏は銅鋺どうしの比較を試みなかったんでしょうか。

南朝墓にも類例

矢部論文よりも後,毛利光氏はさらに中国の銅鋺出土例を集め,研究を充実させています〔1991〕。

高台杯鋺DI(島田塚古墳の銅鋺に毛利光氏が与えた型式名)の類例は,中国ではいくつかの例があり,瓷器はとくに数が多い。承盤CあるいはDが伴うようである。この種の小型鋺は,北燕墓(415年)〔黎1973 6図〕例にみるごとく,5世紀前半までは底を突出させた低い擬高台で,鋺身も浅く広いが,5世紀後半からは劉宋墓(462年)の銅鋺(注6)(1)〔福建省博1986 20図2〕や同期の瓷椀のように輪状の高台をつけ鋺身も高くなる。〔毛利光俊彦1991:196〕

指摘のとおり,中国福建省政和県松源村・政和M831号墓には,島田塚古墳のものに似た銅鋺が副葬されていて,しかもそのそばに,矢部氏が挙げる例に似た仮圏足の青磁碗も配置されています。年代(462年)の根拠は紀年磚です〔福建省博物館・政和県文化館1986〕。

6) 類似の銅鋺は南斉墓(497年)からも出土。承盤も伴う〔福建省文管委1965 2図7〕〔毛利光俊彦1991:202〕

この注には間違いがあります。原報告では福建省閩侯県荊渓郷関口村の4基の磚室墓が報告されていますが,毛利光氏が着目する銅鋺を出土した墓1は年代不明。497年の紀年磚が出たのは墓2です。ただ,年代差はなさそうです。

墓1と墓2は構造において基本的に一致している。墓2では斉の建武4年(497年)の紀年磚が出土しており,これが南斉の墓であるとわかる。墓1に紀年磚はないが,時代はおおよそ同じであろう。〔黄漢杰1965:427〕

しかも,年代の明らかな墓2では,これまた島田塚古墳の銅鋺に似た青磁碗が出土しています。

毛利光氏の研究を利用すれば,銅鋺どうしの比較,さらには南朝陶磁との対比によっても,須恵器のMT15型式を5世紀後葉から6世紀前葉の範囲内に位置づけられます。これは通説の範囲内ですし,議論の由来が1970年代に遡る以上,通説に組み込み済みの議論といえるでしょう。
銅鋺を根拠に須恵器の年代を新しくすることは,尾野論文が登場した時点ですでに不可能でした。しかし尾野氏は,矢部氏を引きながらも,矢部氏が根拠とした小田氏や毛利光氏を引用しません。両氏の研究成果も,尾野氏は抹消してしまったのでしょうか。

『末盧国』の指摘

尾野論文では,島田塚古墳の遺物実測図を『末盧国』から引用していますが,『末盧国』で島田塚古墳を解説した部分の末尾(須恵器蓋杯の実測図と同じページ)に,次の記述があります。

承盤をもつ小型銅鋺は韓国扶余(公州の誤り−引用者)・武寧王陵からも出土しており,その実年代の一端を示している。〔岡崎敬・本村豪章1982:52〕

結局,尾野氏が島田塚古墳に関する先行研究や類例やをどこからどう辿っても,必ず武寧王陵に行き着くはずです。島田塚古墳を武寧王陵以降として取り扱う尾野氏の論議は,とても奇妙です。
尾野氏は不幸なすれ違いを繰り返しているのでしょうか。

桃崎氏の研究

尾野論文より後,桃崎祐輔氏が銅鋺の比較と編年を論じました。毛利光氏らの業績を参考にしながら,古墳の年代観を一部改め,充実化しています。中国・朝鮮・日本の銅鋺を対比するだけでなく,金属器倣しと思われる百済土器・新羅土器・須恵器とも対比していて,触発される点の多い研究です〔桃崎祐輔2000〕。これをみると,ほぼ通説どおりの年代観で,日本の古墳出土銅鋺を整合的に位置付けられることがわかります。
これ以上触れる余裕がありませんが,この他にも興味深い指摘の多い論文です。

銅鋺は中国・朝鮮に類例があり,特に中国の紀年墓と直接対比できる長所があります。古墳時代と飛鳥・奈良時代を一連のものとして検討できるのも,捨てがたい特徴です。尾野氏が銅鋺の重要性に気づいたのは慧眼ですが,なぜか変な方に進んでしまったのでした。

ついに最大の抹消

島田塚古墳については,この論文にとどまらない謎が残されています。尾野氏は1999年論文で暦年代を再論しますが,なぜか島田塚古墳の銅鋺に関する記述が消え去っています。何の説明もなく,ただなくなっているのです。資料不足を嘆いていたはずの尾野は,資料数も多く,外国資料と直接対比できる,この銅鋺という重要資料に一度は気づきながら,なぜか論じなくなってしまいます。

毛利光氏の研究に気づいたから?いえ,だったらなおさら変です。それは2001年に明らかになります。
2001年論文では日高慎氏の批判〔2000〕に応える一方,日高論文の次に載っている桃崎論文には触れず,「元々5・6世紀の実年代論自体に根拠が乏しいのであって、その背景にある資料的制約は如何ともしがたい。」などと言っています〔尾野善裕2001:107〕。
しかし,戒律シリーズにお付き合いくださった方は,もう気づかれたことでしょう。根拠は尾野氏が抹消してしまったのです。暦年代論に有効でも,通説を支持する根拠は存在を許されないのです。

こうして,武寧王陵以後のつもりの島田塚古墳に関する議論は,すべて武寧王陵に帰し,ついには尾野論文からも抹消されたのでした。(つづく)


(2005年1月15日補足)熊本県宇土郡不知火町(国越古墳)は2005年1月15日から宇城市になりました。


今回登場した文献


[第79話 抹消の戒律・中篇−島田塚古墳vs庫狄廻洛墓|第81話 鶏口のレジェンド・前篇−伯孫派vs高貴派|編年表]
白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 2002-2005. All rights reserved.