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陸奥国府で出土した新羅型硯

―郡山遺跡II期官衙における出土資料の紹介―

“東アジア古代史・考古学研究会”第16回交流会2004(2004年12月4日口頭発表)口頭発表原稿
資料集掲載文

直前まで「百済緑釉陶器の再検討(仮)」の予定だったが,10日前に決断して急遽変更。

資料の紹介と銘打っている割には,硯に対しての研究スタンスを語っている部分が多すぎるかも。

なお,これは事前に準備していた原稿に,実際の内容を盛り込んで補正したものである。(5/Dec/2002)

目次


.はじめに

今日は,あらかじめお伝えした題目を変更して,新羅に由来を持つ硯についてご報告いたします。ちょうど10日前に,仙台で遺物を実際に観察することができまして,先週末に2日間で資料を作って,文章を30分で書いたという程度で,まだ充分な検討ができておりません。

タイトルですでに結論は見えておりますし,あまり込み入った話ではありませんので,懇親会までのつなぎとして,気楽にお聞きいただければと思います。

なお,「百済緑釉陶器の再検討」の方が聞きたかったと言う方がいらっしゃるかもしれませんが,ボツになったレジュメも若干持ってまいりました。3部手許に残っておりますので,ご希望の方先着3名に差し上げます。

さて,今回の資料は3ページ分を用意しました。真ん中へんの余白が多くて内容スカスカなところを開いていただくと,そこが私の資料です。


1.資料(図1)

1枚目の図の1が,今回ご報告する硯です(図1-1)。仙台市太白区にある郡山遺跡で,1983年に実施された第35次調査の時に,竪穴住居跡SI390で,炭化物の上面から出土しました。仙台市教育委員会が所蔵しておられます。報告書には図と写真が掲載されておりますが,詳しい記述は伴っておりません。

郡山遺跡はJR長町駅の東側に広がる官衙と古代寺院からなる遺跡で,官衙は大きく分けて,7世紀後半のI期官衙と,7世紀末〜8世紀前葉のII期官衙があります。I期官衙とII期官衙は,建物の主軸方向がまったく違っており,I期とII期の遺構の間には切り合い関係があり,それから出土する土器にも時期差があります。特に方四町II期官衙では,正殿や石敷き,石組み池などが確認されていて,仙台市教育委員会では,このII期官衙を多賀城以前の陸奥国府であると推定しています。

問題の,竪穴住居跡SI390は方四町II期官衙の中央北寄りの場所に位置していますが,ここから硯の1とともに出土した土器は,まさに郡山遺跡のII期官衙の標式資料であり,現在,大阪歴史博物館で開催中の特別展「古代都市誕生」で12月20日まで展示されております。大人800円,大学生540円,火曜日が休館日,金曜日は夜8時まで開館しているそうですから,ぜひこの機会にご覧ください。

それはともかく,出土状況からみて,硯の1は郡山遺跡のII期官衙,つまり陸奥国府に赴任した官人の持ちものであろうと考えられます。

この硯は,海と,それを囲む外堤の1/4周程度が遺存しておりますが,陸は端部のごくわずかを除いて失われており,海の裏側には脚がすべて根元の接着部分から剥離しています。脚の痕跡は3か所が認められ,その痕跡の形状や配置からみて,本来は,断面方形または台形の脚が10本付いていたと考えられます。実測図では脚の先が開くように復元しておりますが,たいした根拠はありません。図の見栄えを考えて,こんな風に復元してみました。

胎土には白色粒子と白色針状物質を含むのが特徴です。還元焔焼成で,よく焼き締まっておりますが自然釉は見られません。

この硯の形態上の特徴は,陸の端部から鋭角に下に折れて海に落ち,海の底で水平面をなしたのち,今度はほぼ直立し,外堤をなす,という点にあります。このような形態のため,海は上の方で狭く,底の方が広くなっています。海の底の陸寄りに爪の圧痕がめぐっていますが,これは,あるいは海の底を広げるための行為の跡かもしれません。また,外堤は端部で内側に折り返したように脹らんでいてます。

海の底は水平ですが,特に海底の裏面は平坦になっており,ここに断面方形または台形の脚が貼り付けられていましたが,現在はすべて剥離しています。この貼り付けの際に,海の裏側に接合沈線などのような圧着のための措置は講ぜられていません。脚の前面は外堤とほぼ同一面をなすようで,脚の背面はナデツケ,脚の側面は,ヘラのような工具を当ててケズリ,そのまま脚と脚の間,つまり海底の裏面にナデツケています。

陸のわずかに残る端部はつるつるになっていますが,墨の跡は確認できませんでしたので,実際に使っていたものかどうかは定かではありません。


2.類似する新羅硯の提示と分類

郡山遺跡の硯は,陸の端部が横に張り出す点が,新羅の硯に似ています。新羅の硯も,陸の端部から内側に傾斜するように鋭角に海に落ちて,海の底が広くなっている場合があるからです。

そこで,郡山遺跡の硯が新羅のものであるかどうか,どの硯と最も近いのかを調べるために,新羅の硯の例をいくつか見ていきたいと思います。2枚目の図の2をご覧ください。

関連する新羅の硯のうち,出土地が明らかなものが2から12までで,これに加えて,出土地はやや不明確ですが,新羅の硯とみなして差し支えないと思われるものが13から15です。これ以外にも新羅には,陸と海の落差が比較的小さい硯などがありますが,郡山遺跡の硯とは対比できないものなので,ここでは省きました。

したがって,この図の2は,新羅の硯のあらゆる形態を網羅したものではありません。

(1) 新羅a類

硯の2は金海大成洞焼成遺跡で溝から出土したもので,釜慶大学校に所蔵されています。陸は強く張り出し,そこから鋭角に折り返して海に落ちますが,この,折れる部分の裏面の側に素地を補っています。外堤はほとんど遺存していませんが,開き気味に延びるようです。海の中に,筆を立てる穴を設けた「筆挿」と呼ばれる立方体を設置しているのが特徴でして,海の形ができてから,立方体を押し込んで,棒のような工具で海の底に押し付け,筆を差し込む穴を開けて,さらに,無理やりスタンプを差し込んで紋様を押捺しています。この硯の2が出土した溝は,6世紀後半ごろに形成され,その後徐々に機能を喪失したと考えられています。伴出の土器から考えて6世紀後葉から7世紀くらいではないかと考えられます。

硯の3は金海亀山洞1号窯の灰原第2層から出土したもので,東亞大学校に所蔵されています。陸がまったく遺存しませんが,陸の端部が張り出していたことが推定できます。外堤は外に開いています。年代は6世紀の末くらいです。

この,2と3を,新羅の硯「a類」と仮に呼ぶことにします。a類は,海の断面形が全体に角張った感じで,海の底は平坦で,外堤は外に傾いています。2と3は,いずれも筒形に開く脚を持つ,いわゆる「圏脚硯」です。年代も6世紀まで遡りうるものです。新羅では咸安城山山城で6世紀後半ごろの木簡が出土していますので,6世紀末に独自の硯を生産していても,不思議はありません。

(2) 新羅b類

次に,硯の4は,鎮海の亀山城で出土したものです。それから,硯の5は慶州の岬山寺で出土したものです。残念ながら,硯の4と5は,実際に観察したわけではありませんが,実測図によりますと,海の部分の断面形が曲線的になっていることが特徴です。脚はどちらも,多数の脚を貼り付けるやり方で,いわゆる「獣脚硯」にあたります。硯の4は,遺跡の使用時期などから考えて,6世紀後葉から7世紀中葉くらいの範囲と考えられますが,硯の5は,多弁花紋のスタンプが用いられていますので,これよりも遅く,7世紀の末から8世紀くらいの範囲で考えることができます。

この硯の4と5を,新羅の硯「b類」と仮に呼ぶことにします。陸の端部から海の底を経て外堤まで,断面形が丸みを帯びていて平坦部分がなく屈曲し,外堤の端部で少し折れ上がる感じになっています。

(3) 新羅c類

硯の6と7は,慶州の仁容寺跡で,ほかの硯1点とともに出土したものです。このうち硯の7は,慶北大学校で観察することができました。硯の7は,陸の中央がくぼみ,端が沈線で区切られることによっていわゆる内堤のようになっています。陸の端から鋭角に海に落ちて,海の底は広く平らになっています。その端っこからやや内傾ぎみの外堤が立ち上がっていますので,海は上が狭く,底が広くなっています。印花文が用いられていることや仁容寺の創建年代が三国遺事(巻2奇異第2文虎王法敏条)によって文武王の在位中,661年から681年までの間と考えられることからみて,この硯は7世紀後葉か,それ以降と考えられます。……と,私の手許の原稿には書いてありますが,先ほどの河廷龍さんのご発表を聞いて,すっかり自信がなくなってしまいました。とりあえず,こういうことにしておいて,話を進めたいと思います。硯の6も,図や写真からみて,脚がないだけで,基本的には硯の7と同様の作り方と思われます。

硯の8は,新羅の王京内にある,慶州城東洞386-6番地生活遺跡で,7号井戸の内部から出土したものです。陸はまったく遺存しておらず,海の底と外堤,それから脚1本が残っています。海の底は平らで,外堤は内側に傾いており,脚は背面側が抉れたような形をしています。このときに発掘調査された遺構は,全般的に8世紀後半以後と考えられており,7号井戸の内部からは扁瓶などが出土しています。この硯8も,8世紀後半以降と考えられるでしょう。

硯の9から12までは慶州の雁鴨池で出土したものです。脚の形はさまざまですが,陸・海から外堤にかけての形状は共通しています。

硯の9は,脚が剥がれたように見えるのですが,本来の形はよくわかりません。実際は脚がほとんどなかったのかもしれません。図を取った位置以外では,外堤がもっと内側に傾いたところもあります。この硯の9は陸が平滑になって,しかも墨が付着しているので,明らかに使われています。

硯の10と11は,いずれも筒状の脚を持つ「圏脚硯」です。全体的な作り方もほぼ同様で,陸の端部で鋭角に折り返すとき,裏面の側に素地を補っています。硯の10では陸の端部が立ち上がって明確な内堤を作り出していますが,硯の11ではそうなっていません。しかし,硯の10が陸に自然釉が掛かっていて明らかに未使用なのに対して,硯の11は陸の全面にわたって墨が付着し,盛んに使われた形跡があるので,あるいは内堤が摩滅して失われたのかもしれません。一方,外堤は,外面が2段になっていて,端部に沈線がめぐる共通点があります。

硯の12は,いわゆる「蹄脚硯」です。基本的に硯の7と同様なのですが,海の底から外堤に移行する部分の外側に素地を補って突出させている点が特色です。陸はつるつるで,墨跡も見られ,しかも陸が割れた部分の割れ口にまで墨が及んでいます。新羅では,このような装飾的な硯でも,壊れるまで使い込むんだということがわかる興味深い例です。

雁鴨池は674年に造営が開始されたので,9から12の4点は,いずれも7世紀後葉か,それ以降のものであろうと考えられます。そうすると,造営時期の近い仁容寺で出土した硯の7が硯の12と形状が似ていることも納得できます。

ここまでにみた硯の6から12までを,新羅の硯「c類」と仮に呼びます。海の底の裏側が平坦で,かつ外堤が内側に傾くもので,a類ほど角張ってはいないけれども,b類ほど曲線的でもない,やや中途半端なものです。また,時期が7世紀後葉かそれ以降であること,脚の形態が多様で,特に蹄脚硯が登場していることも特徴です。

以上,出土状況がわかっているものを便宜上,a類,b類,c類と分けてみました。これらによって,出土経緯が不明なものも対比ができます。

たとえば,硯の13は釜山博物館の所蔵品ですが,やはり陸が横に張り出し,端部が少し立ち上がって内堤を作り出しています。外堤は内側に傾いていて,外面に印花紋が押捺されています。これは硯のc類に該当します。

硯の14は韓国の国立中央博物館に所蔵されているもので,伝慶州出土とされています。海は浅めですが,上が狭く底が広くなっており,外堤は内側に傾いていますので,c類の特徴を備えています。しかも,脚の背面が抉れている特徴は硯の8に共通しています。逆に,硯の14を参考に,硯の8の全体の器形が推定できます。

硯の15は東京国立博物館に所蔵されているもので,やはり伝慶州出土とされています。これも海がいくぶん浅めですが,硯の10や11と同様の特徴があるので,c類に当てはまります。


3.中国,百済との関係

(1) 新羅硯各型式の比較

このように,新羅の硯のうち,陸が横に強く張り出すものを,海の断面形を基準に,便宜的にa類・b類・c類に分けてみました。このうち,c類にはさまざまな形態の脚がついていることになります。これまで硯の分類というと,脚の形態や紋様に着目した分類が行われることが多かったのですが,硯のような土製品では,またあるいは土器なども,成形の早い段階に与えられる属性を分類の上位概念にすべきであるという私の従来の考えから,このような分類をしているということを,改めてお断りしておきます。

さて,a類・b類・c類を比較すると,出土状況からみて,a類が古く,c類が新しい,b類は片方がa類に近い古い時期,もう片方がc類に近い新しい時期に位置づけられます。また,a類・b類・c類を通じて,古い時期のものほど陸の直径が大きく,新しいものほど陸の直径が小さい,というおおまかな傾向も認められます。しかし,a類・b類・c類の相互の間には,明らかな型式学的な関係を見出すことはできませんでした。

そこで,系譜を外に求めるために,百済や中国の硯と比較をしてみます。

3枚目の図の3をご覧ください。

(2) 百済の硯との比較

まず,百済の硯と比較してみます。百済には,私が縁台獣脚硯と呼んでいる,独特の形態の硯が多く見られます。最近出た『九州考古学』でおおまかに触れているので,詳しい説明は省きますが,3枚目の図3の,上から2段目,21,および23から26までがそれです。陸から鈍角または曲線をなして海に落ちて,海の底から水平に鍔のように張り出す縁台があります。これらの中にも若干のバリエーションがありますが,そのうち限られた形態のものにだけは,緑釉を施す場合があって,そういった緑釉を施釉しうる形態のものは,同じ図の最上段にお示しした,中国四川省の硯と形態が近いので,中国の青磁を緑釉で再現したものであると考えられます。この四川省の硯は,四川省が北朝の北周王朝の支配化に属して以後,隋までに当たります。このような,百済の縁台獣脚硯に対し,新羅で最も似ているものは硯のa類といえるでしょう。年代も,縁台獣脚硯の形態が百済に伝わった北朝末か隋のころに近そうです。しかし,百済の硯では陸の端部は張り出していることはありません。また,百済では縁台が幅広い端面をもって横に突出するのに対し,新羅ではそのようなことが起こっていません。ですから,もし仮に新羅の硯a類が百済に由来したとしても,両者の間には未発見の型式が多数介在することになってしまいます。

このように考えると,新羅の硯の形態を百済と対比することは困難です。むしろ百済と新羅では,硯の系譜がまったく異なっていると考えるべきでしょう。

(3) 中国の硯との比較

そこで,今度は中国の南北朝から隋・唐にかけての硯と新羅の硯を比較してみます。

中国で,陸が横に張り出した硯を探してみると,陝西省にある,北朝の北周王朝の墳墓から出土例があります。ただし,硯の全体的な成形技法が違っているようなので,今のところ新羅の硯との関係は不明です。

そのような訳で,新羅の硯a類・b類には,今のところ適当な由来がたどりにくいのですが,硯のc類と対比できる興味深い例が,中国の河南省洛陽で出土しています。それが図の4の16番に写真を挙げた灰陶蹄脚硯です。これをみますと,陸が皿形で,端部が横に張り出し,外堤は内側に傾いているため,海は上が狭く,底が広くなっています。型押しによる獣面をつけた脚が多数ついているあたりも,新羅のc類の蹄脚硯に近いものがあります。このような中国の灰陶蹄脚硯が新羅に伝えられて,その形態や装飾をもとに新羅c類の,特に蹄脚硯が作られ,さらに蹄脚硯以外の,獣脚硯,圏脚硯,無脚硯に応用されたという可能性が考えられます。

このような可能性から図の4のような展開を考えてみました。しかし,このように考えた場合,硯a類と硯b類の位置づけが,なおさら不明確になってしまう,というが,なんとも難しいところです。

ここはひとまず,新羅と百済の硯は系譜が異なっているらしく,しかもそれぞれ中国の別の地域との関係がありそうだ,という可能性を指摘するに留め,今後じっくり検討していきたいと思います。


4.郡山遺跡出土品の解釈

大きな回り道をしてきましたが,ここで郡山遺跡の硯に話を戻したいと思います。

郡山遺跡の硯は,新羅の硯にぴったり一致する例がありませんが,新羅の硯の3つの形態の中では,硯c類に最も似ています。外堤がどちらかというと外に傾いている点はa類と近いのですが,陸の端部の仕上げ方や,全体の雰囲気はc類に近いものがあります。また,年代や法量も,c類の硯に近いといえます。

しかし,郡山遺跡の硯には,新羅の硯とは食い違う特徴がいくつか見られます。

まず,外堤の端部が内側に脹らむような作りかたは独特です。また,新羅の硯では,陸の端部で鋭角に折り返すときに裏面に素地を補う例が多いのですが,郡山遺跡の硯ではそのような措置は取られていません。脚が断面方形または台形で,両側面をヘラで整えていることも気になるところです。こういう場合,新羅ではナデが主体であり,ヘラを用いるのは,百済か日本で例があります。さらに,胎土に含まれる白色針状物質の存在は,生産地の重要な手がかりになります。白色針状物質を含む須恵器は,郡山遺跡では在地産と考えれています。一方新羅では,私の知る限りでは,白色針状物質を含む陶質土器は見た覚えがありません。もし,そのような混和材を韓国でも見たことがある,という方は,ぜひお教えいただきたいと思います。

そのような訳で,郡山遺跡の硯は,遺跡の近くで在地生産されたものと考えられます。私の知る限りでは,宮城県は陶質土器空白県であったのですが,やはり空白県として残ることになりました。しかし,形態が日本の硯としては異例であり,新羅の硯と似ていることは無視できません。やはり,どこかで新羅の硯と系譜が繋がると考えられます。

郡山遺跡のII期官衙が,7世紀末から8世紀前葉ごろの陸奥国府であるとするならば,都から陸奥国府に赴任した官人の中に,渡来人やその子孫が含まれていたか,あるいは官人が以前に新羅人と親交があって,硯を貰い受けていた,などの経緯で,仙台平野に新羅の硯の形態に関する情報がもたらされ,それに基づいて陸奥国府近辺で新羅のものに似た硯が在地生産されたと推定できます。

『九州考古学』に発表した通り,7世紀後葉から8世紀前葉ごろに,百済の縁台獣脚硯を形態上の規範とする,「百済型」とも言うべき硯が,主に西日本で展開しているわけですが,郡山遺跡の例からすると,数は少ないながらも,新羅の硯を形態上の規範とする,「新羅型」の硯も,日本列島の内部で展開していたかもしれないと考えられます。いまだ全体の経緯を復元するには至っておりませんが,現時点で想定できる限りで,新羅型の硯の展開過程を,一案として図の4にまとめてみました。


.おわりに

なお,図の4には載せませんでしたが,愛媛県松山市・西野春日谷遺跡で窯場の作業場遺構で出土した硯は新羅型の可能性がありますし,三重県四日市市の西ヶ広遺跡で出土した硯も,新羅型の可能性があるものです。これらは実物を拝見した後に検討したいと思います。それから,今回問題とした硯と形態上相違する新羅の緑釉硯が,法隆寺の西院金堂からで出土しています。また,図の3には載っていませんが,埼玉県大里郡寄居町の末野遺跡の灰原からは,かなり変容してはいますが,百済型の硯が出土しています。

念のために申し添えておきますと,図の3と図の4を眺めると,まるで7・8世紀の日本列島には新羅型やら百済型の硯がそこかしこにあったかのように誤解をされるかもしれませんが,まったくそのようなことはありません。日本で7・8世紀に生産された硯のうち大半は,その形態の由来を新羅にも百済にもたどることができない,という事実を,ここで指摘しておかねばなりません。特に7世紀中葉以前の日本では,新羅や百済の硯との対比はおろか,ひとつの窯の中でも,ほとんど無原則なまでに多様な形態の硯が生産される場合があります。

香川県の打越窯の灰原で出土した硯を見ると,硯の形態に規範がなく,工人一人一人がそれぞれに異なった硯を生産していた様が窺えます。私たちが土器に型式学を適用するとき,同時期の工人たちは同じ形の規範に則って作ろうとするだろう,前の世代の作品を真似ようとするだろう,次の世代にも伝えようとするだろう,という暗黙の前提のもとで考えるわけですし,実際,同じ窯で作った蓋杯や壺などはそのように作られているわけですが,硯の方は,そのような規範が見出されません。この,型式学が通用しないあたりが,硯研究の面白いところなんですねぇ。

どうやら日本では7世紀の初めごろ,文房具を受け入れるとき,墨をするために何かの道具が必要だ,という観念は朝鮮半島から受け入れたものの,硯はこういう形で作るべきなんだ,といった形態上の規範は受け入れなかったようです。見方を換えると,一般的な規範が確立されていない状況の中で,あえて明確な形態上の規範に基づいて作ろうとしている新羅型の硯や百済型の硯は,当時の日本の硯の中では,きわめて突出した,非日常的な存在だったはずです。

新羅や百済の硯を見聞きした人物が,工人に特注して作らせたという,ご都合主義的な解釈が,意外に当を得ているかもしれません。

そのような視点で,硯の展開や存在意義をを検討していきたいと考えておりますし,陸奥という地域の特性も考慮しなければならないところですが,なにしろ10日前に見たばかりの硯なので,時代背景や関連資料など,これからゆっくり検討していきたいと思っています。


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