エスニック

強い人

  「強い人」とはどういう人を言うのかと問われたら、みなさんはどう答えるだろうか。正直、私も答えられないが、過去に「この人はなんて強い人なんだろう」と痛感させられた方がいる。
 それはそれは大昔(?)、私が中学3年生の時の担任である。先生の担当は数学であったが、私の通う中学に赴任する直前まで(詳しく知らないが)何らかの研究員としてニューヨークで3年ほど仕事をされており、当時の貧乏な生活を面白おかしく語って聞かせてくれたのを憶えている。
 また、社会勉強と称して米国から友人が来日した際には、教室まで招いて講義(勿論先生がいちいち通訳してくれたが…)を開いてくれたりもした。

 「マルチ」といえば今では古臭い表現といわれそうだが、先生は実に多彩な方だった。前述のように数学、英語はもちろん、彫刻では企業から胸像製作の依頼があるほど腕前を持ち、亡くなった父親との作品と併せて詩集を出版、剣道は有段者で部活の顧問を兼任するなど幅広い活動をされる方であった。
 さらに剣道の修行から長じたものらしいが禅や仏教の世界についても造けいが深く、「沢庵和尚」「茗荷」「達磨」などなど、肝心の数学以外は随分と心に残る話しをしてもらった。

 その肝心な数学の授業でのことだが、先生の方針で数ヶ月に1度「ここまで授業の内容が理解できていないもの手を上げて」とやって、何処がわからないか質問させ、そこからわかるまで説明をし直すということを繰り返していた。
 理解できた方からすれば繰り返す説明中はなんとも暇になってしまうのだが、ある時いつまでも理解できない生徒が一人残ってしまい、どこから判らなくなったか溯っていったら、なんと新学期が始まった頃にまで戻ってしまった。
 正直言って傍目からは呆れていたのだけれど、先生は実に申し分けなさそうな表情で「T、すまんなあ。訳の分からない授業はつらかったろう。ただ俺が今お前に出来ることはこれが限界だ。みんなは先に進まなくてはいけないので、もう少し待ってて欲しい。放課後わかるまで責任持って説明するから…」と言われた。
 途端、私は今までいい加減に聞いていたことに大きな呵責を感じたのを憶えている。

 なぜか判らないが、この人はすごく強い人なんだ、と私はこの時思った。表現こそ違え、この先生の生徒である安心感のようなものは、みんな少なからず感じていたのだと思う。このクラスの自慢は体育際や文化祭、卒業式や合唱コンクールなどは病欠以外は全員参加したこと。卒業アルバムは我々だけが枠外写真のないことだった。

卒業してから随分経つ。

 それ以後も私の出会った人たちの中で「強い人」だと感じた人は何人かいる。そのうちの一人が、高校のクラスメイトだった「K」である。とても無口で目立つことをしない男だった。
 特にウマがあったわけではないが、グループに分れるような時はよく一緒になった。私はかなり後になって知った事だが彼はひとつ年上で、中学生の時投手として活躍、スポーツ推薦で県内の有名校に入学したものの怪我がもとで野球を断念、スポーツ特待生は部活動が出来なくなれば退学するしかなく、一浪として私たちの高校に入学してきたらしい。

 学校ではいつもつまらなさそうな顔をしていた彼は、決して不良と呼ばれるタイプではなかったが、タバコやバイク、(校則で禁止されていた)アルバイトなどをしているのは知っていた。
 クラスメイトから先輩のような扱いをされるのが面白くないと、ポツリと私にこぼしたことがある。彼からボヤキを聞いたことも無かった私は珍しいこともあるなと思ったが、知らずにいつも呼び捨てだった私は、普通に扱われたかった彼にとって気楽な相手だったのではないかと勝手に思い込んでいる。

 私が彼を強いと感じたのは、人前で不平・不満や他人の悪口、さらに言訳がましいことを口にしなかったからである。それに先輩扱いされていた彼にとって、クラスで大きな顔をすることは簡単だったはずだが、決してそんな態度はとらなかった。
 外見はパッとしない男だったが、女の子に対しても紳士的な態度で接していた為に意外ともてるほうだった。他人の悪口や陰口を叩くのは、その相手より低俗と覚悟しといた方が良い。他人を中傷することを本人でなく第三者に吐くのは不安に駆られての行動だ、とある心理学者が言っていた。

閑話休題。いつも一言多くて失敗する類の私としては、意志が強くて無口な男に「男らしさ」を感じる方だった。にもかかわらず、なぜ私が口数が多くなったかを人に説明する時、決まって話すエピソードがある。
 まだ幼稚園にも入る前だった頃だが、近所に言語障害のある老人がいた。滅多に会うことが無かったのだが、ある時イタズラかなにかをその老人に叱られたのだが、言葉になっていなかったので何か獣が吠えるように聞こえた。
 それが物凄く怖くて慌ててうちに帰り、なぜあの人はあのようになってしまったのだろうかと子供心に必死で考えた。きっと人間には一生のうちにしゃべることが出来る言葉の数が決まっており、それを超えたら言葉が出なくなってしまうのだ、そうかいつもおとなしくしなさいと叱られるのは大人になってから話しが出来なくなるからなんだ、と随分と早合点した。
 ならば言葉は節約しなければと、返事も頷くとか首を振るとかで済ますようになった。
 どうも様子がおかしいと心配した両親がいろいろと尋ねるのだが、こっちは頑固に首を振るだけ。ついには怒られて半べそになりながら訳を説明し、最後に説明した分の言葉だけ返してくれと泣いた憶えがある。
 さすがに親は呆れた様子だったが、こちらは「口数限定説」が間違いと分かると、今度は話さねば損とばかりにぺちゃくちゃしだした。どうやらその勢いのまま今に至っているようである。


 話しを戻すが、そんなこんなで私なりの「強さ」の定義には「無駄口を叩かず」「空威張りせず」「自分より弱いものに優しくでき」「言訳がましいことは言わない」ことは含まれそうである。

 最近、読書の傾向が昔好きだった「ハードボイルド」に戻って来ている。「強い男」についていろいろ考えることが多いのはそのせいかもしれない。


99年4月9日 ThinShin


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