日頃、何かの折にふと時間が空いた時に本が一冊あると随分救われることがある。もちろん、ぼんやりと考え事をしてもいいのだが、仕事をしているとなかなかたっぷり時間を取って読書をすることが難しくなる為、もったいないとばかりに読み耽ることもある。 昔からのクセなのだが、私は何冊も同時進行で読み進むことが多い。大概は鞄に一冊、ベッドに一冊、机に一冊といった具合。持ち歩きの本が専門書なぞであれば、気が進まない時のために短編ものがもう一冊入っていたりする。 また、乱読派に近いので全て違うジャンルのものを選んでいる。しかも、同じ作家のものは続けて読まない。というのも、立て続けに読めばどうしてもその作家のパターンが目に付きだしたり、特に気に入った作家はそうだが、新作が出るペースより読破していくペースの方が速くなるので、読むものが無くなってしまうから。周囲からはよく混乱しないなと言われるが、多くの人がしているようにTVで何本も週一のドラマを見ているのと変りはない。 こんな話しを周囲としていると、皆それぞれの読書に対するこだわりが判明して面白い。映画と同じようにジャンル別に別れたり、好きな作家や俳優が決まっていてそれらが中心になっているのがメジャーな意見だが、他にも長編しか読まないという人もいれば、逆に短編派の人もいる。ちょっと変わり種としては、例えSFでなくても物語である以上はあまり現実味があってはならない、とか、人が殺されない推理小説を探すのが好き、なんて人もいた。 現実味うんぬんに関しては反ってチャチに感じるのではとも思うが、殺人のない推理ものは私もいくつか読んだ(参考:我孫子武丸、宮部みゆき、北村薫など)。これらに共通するものは読後感が爽やかである。手の込んだトリックなどなくても「してやらた」感じは満喫できる。一口に推理小説といっても今では随分とスタイルが様々で、殺人無き推理モノもいずれひとつの地位を確立してくるだろう。 もちろん私もミステリーは大好きだが、それ以前の持論として「物語は全てミステリー」であるべきだと思っている。ストーリーのある以上、ジャンルを問わずこの先どうなるかという緊迫感は不可欠だと思うが、どうだろう。 また、話しの筋立てに関らず、テンポや描写力によって引き込まれ方も大きく変わってくる。良い例が、優れた中編モノは下手な長編よりも読むのに時間がかかる。一行一行にかけるエネルギーの差が出るというか、物語に対する一行の重要度が違うからだろう。つまらない長編は斜め読みでも簡単に内容が把握できる。「行間を読む」必要が無いからだ。 まあ、こうして拙い文章を公衆に晒しておきながらなんだが、評論は勝手気ままに偉そうなことを言っていればいいが、実際に小説を書くということはなんとも大変なことである。世相を反映しているのかどうか解らないが、最近「小説書き講座」が随分流行っているらしい。本気でモノ書きを志しているのか趣味の一環として捉えているのかはともかく、自分の考えなり感性をアピールしたいということだろう。 ところが、作家志望者は増加しているのに小説の出版部数は減少傾向にある。自分は歌いたいけど他人の歌は聞く気が無い、という「カラオケ現象」と同じことか。であるなら、やはりここにも世相は反映されていると判断して良さそうだ。 |