エスニック

気と風水

  別にB'zの唄ではないですが、ミエナイチカラなるものを皆さんどれだけ信じるでしょうか。といってもこうした得体の知れないチカラはこの世に数多囁かれているけれど、ここで限定するなら「気」または「風水」のことです。
 決してTVで紹介されているようなモノに触れずに動かしたり透視するような超能力ばりのものでなく、人間のバイタリティの源とで言うべきものです。
 普段何の気無しに使ってますが、「気」は「空気」などのように「気体」を指すものとは明らかに違い、バイタリティを指す言葉が意外に多いものです。

 誰しも元気・活気・病気・陽気・陰気・気力くらいはスラスラ出てくるでしょうが、例えば体力と気力を比較した場合、体力はその効果を(体力測定のように)数値で表わすことが出来ますし、力の発生の仕方も筋肉などの構造が解明できれば科学的にも実証されます。
 ところが(気力測定が無いように)気力はそれができませんね。つまりは「見えない力」なんです。にも関らず、「体力的には限界だったけど気力で乗り切った」なんてフレーズがこの世にゴロゴロしていることを考えると、ほとんどの人が本能的に気の力を認めていると考えていいのではないでしょうか。

 とはいえ、やはり人間はモノの存在を認識するために視覚を頼る傾向は極めて高いものです。直接肌に触れたり臭いを嗅ぐことのできない距離では聴覚か視覚しか頼るものが無いので、当然といえば当然ですが、この視覚というものは甚だ頼りないものです。
 まず絶対条件として光の存在が不可欠だし、対象が無色透明であってはなりません。我々の身の回りにも、日常生活に重要な位置を占めながら、無色透明・無味無臭であるがゆえにそのモノ自体を認識できないものは幾つもあります。
 例えば、電気・電波・(世間を騒がせている)放射線など。また大気などは「無くなる」ことで初めて存在の有無を実感できるし、(スキューバダイビングをやる方はお判りでしょうが)海中では海草などがなびかなければうねりなどの潮の流れを把握するのは結構難しいものです。

 こうして我々は(視覚を中心に)生身では存在を把握できないものは、それらに反応する(つまり作用をもたらす)機械などでそれらを知り得るわけですが、その手段を持たない「気」も前述のようにやはり存在していると考えられ、その「気」に作用をもたらすとされる大地を流れる力、いわゆる「地脈」が存在していても何ら不思議はないと私は思っています。
 この地脈を操る手段を体系化したものが「風水」の原形とされ、今日まで受け継がれてきたのです。

 風水の起源や由来は幾つか説があるようですが、ここでは私が齧った範囲でご勘弁下さい。

 古い中国の暦では一日の始まりは子(ね)の刻(午後10時から午前1時)とされています。本来、この一日のスタート時点に宇宙からのエネルギーが北から地球に流れ始め、地球に活力がみなぎってくるはずなのですが、実際は地軸が23.5度ズレているため時間差が生じてしまいます。
 つまり、実際には丑(うし)の刻(約午前2時前)までズレてしまうのですが、それまでの空白の時間が「丑三刻(うしみつどき)」と呼ばれ、邪霊などが現れては悪さをする「魔の時間」になるわけです。

 時代劇などで真夜中の代名詞のように使われるのもこのためで、昔の怪談で幽霊が出る時刻やわら人形に釘を刺すのもこの時間ですね。
 つまりこの真北から23度半傾いた方角を「鬼門」と称し、この神仏の守護からはずれる裂け目をいかに補うかが陰陽師(おんみょうじ)や風水師の主な役目だったようです。
 さらに、地脈の流れる方角を考慮し地形などの生活環境を改良することで邪気を防ぎ、その土地に繁栄をもたらすことを風水の目的としてきました。
 現在でも、香港や台湾では風水の影響が強く、ハイテクビルの設計に風水が織り込まれていたりもするそうです。

 さて、この「風水」の語源ですが、カゼの特性を踏まえてはいるものの、風(ふう)は単なるカゼのことでなく、神の命令を四方に伝えるメッセンジャーを(フウ)と呼んでいたためで、フウが駆け巡るのも大気中ではなく大地だったようです。
 ですから、この神の命を含んだ土地を「風土」と言うし、風土に育まれた民俗を「風俗」、そこに定着した習慣を「風習」と言うわけですね。和風・洋風の味などと使われるように、その土地独特の味は「風味」となり、また、風土を見渡す眺めなら「風景」となります。そしてこれら全てを総合し、風土としてのオリジナリティを持ったものは「風格」とされるわけです。

 個人的解釈としては、このフウは生命エネルギーを運ぶ道の役割、つまり陽の面を担っており、この対極にある陰の面、すなわちエネルギーを留める役割を「水」が担っていると考えています。
 巷に溢れる風水診断書で、部屋に水槽などを置くことを善しとしなかったり、置き場所をうるさく指定するのは吉凶を大きく左右するほど水の力が強いためでしょう。

 とまあ、こうして長々と書いてはいますが、信じているわりには私自身そう熱心にインテリアの配置などに気を配っているわけではないんです。先に紹介した語源や起源などは、歴史的にも民族学的にも非常に興味深いと思いますし、自分の意志で改善することが出来るという点で、風水は単なる占いと違い知るに値する「知識」だと思っています。
 ですが、「こうなりたければどちらの方角に何色を置け」などカラーリングにまで言及されてしまうと面倒くさくなってしまうんですね。

 確かに、色は昔から方位や季節に当てはめて例えることも多く、方位学でも密接な関係を持っているようです。記憶が曖昧なんですが、四季では春が青(青春ですね)、夏が赤、秋が白で冬が黒というように色が当てられ、四方にも、東・南・西・北の順で同様の色だったと思います。

 とは言え、ミエナイチカラであるはずの風水が視覚で捉える色で左右されては自分の中で矛盾を抱えてしまう気がしてしまいます。それに実際問題として、一般市民の住宅事情からすれば家具の方向その他諸々の融通は利かないので面倒が増してしまいます。せめて色使いくらい、ということで大衆に受け入れられた面も大きかと思います。いずれにせよ心持ち齧ってモチベーションにでもなれば充分ではないでしょうか。

 努力も無しに風水のマニュアル通りにすれば望みが叶うなら、苦労はいりませんものね。

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