エスニック

天才の影に

  女子柔道48kg級の長井敦子選手ってご存知ですか。失礼ながら私は知りませんでした。一般的には女子柔道と聞いてサッと頭に浮かぶのは「YAWARAちゃん」こと田村亮子選手かちょっと遡って「女三四郎」と呼ばれた山口香選手ぐらいではないでしょうか。

田村選手は先日も全日本女子選抜体重別選手権で前人未踏の10連覇を達成し、シドニー五輪への切符を確実にしたばかりで、未だ向かうところ敵なしの状態です。彼女の記録は「前人未踏」「史上初」のものばかりで、正に希代の天才と言っていいでしょう。この天才と対戦して唯一一本負けを期していないのが先の長井選手です。

長井選手は数々の大会で優勝を勝ち取ってきたものの、5歳以上年下の田村選手が登場して以来直接対決は全て判定負け。国際大会で手にした6個の金メダルは全て田村選手が不参加だった大会だったそうです。先日、年齢的にも最後のチャンスとなるであろうシドニー五輪の代表入りにかける彼女の執念と奮闘ぶりがドキュメントで放送されていましたが、結果は予選敗退という大番狂わせで涙を飲みました。
柔道選手として一流であるにも関らず、彼女もまた不世出の天才と時代が重なることで歴史の影に埋まってしまった一人なのでしょう。

スポーツの世界では我々観衆はいつもスーパースターの出現を待ちわび、その活躍を期待しています。そして、その存在は当該スポーツの振興に繋がりレベルのボトムアップにもなります。
ところが、超一流選手一人の影には、スポットライトの当たらない多くの「普通の」一流選手が隠れてしまいます。厳しい勝負の世界だからこそ、その真剣な戦い振りに観る側は胸躍らせるわけですが、希代の天才を前にした当事者達は「ああ、あいつさえいなければ…」という気持ちだって正直あるでしょう。

6年連続首位打者という常識では考えられない記録を打ち立てたイチロー選手のおかげで、走攻守3拍子揃った西武の松井選手なんかは随分割に合わない評価をされてる気がします。また、ゴルフではD・デュバルが塗り替えた年間獲得賞金記録も、次の年にT・ウッズが倍の金額で塗り替えてしまってはデュバルの記録は影も形も残りません。

様々な記録を競うにも、タイトルが存在するか否かで後の扱われかたは随分変ります。例えば連続出場記録や生涯成績であれば、歴代の1位と2位の差は雲泥の差とまでは開きません。しかし、試合毎やシーズン毎のタイトルは1位と2位の差は歴然としてきます。
例えば相撲やゴルフでは、全場所・全試合で2位なら成績は立派ですが、残る経歴は通算勝星や賞金ランキングくらいです。野球のピッチャーなら、毎試合1点に抑えて負け投手になるのと、5点取られても勝ち投手になるのでは記録は雲泥の差です。ましてや、冒頭の柔道のように個人競技でトーナメント制の場合、絶対に勝てない相手がいるということは優勝は絶望的です。しかし、それでもなお挑戦し続ける姿勢こそがスポーツファンを魅了する一番の要素ではないでしょうか。

長井選手のドキュメントは、誰の記憶にも残る天才の影で流される悔し涙にも、勝利の行方以上に観衆の心を捉えることも多いのだと、改めて感じされられました。


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