エスニック

こだわり

  今までいい加減な人生を送ってきた私にとって、様々な面で「こだわり」というものとはほとんど無縁で過してきた。
 ところが、最近ふとしたきっかけで今までとの違いに気付き、それからすっかり選り好みをするようになってしまったことが増えてきた。
 例えば、毎年中元の季節になると鮭の切り身を送ってくださる方がいるのだが、この切り身が実に美味しく、今まで食べることのなかった皮までも捨てるのがもったいなくて食べるようになったほどである。感激して何度もお礼を言っていたら毎年これが送られるようになり、なんだか返って催促になってしまったようで申し訳なく思っているが、 ともかくその味を覚えてしまってからは以後鮭を買うことがほとんど無くなってしまった。
 他にも、麦茶は実家からもらった自家製の煎り麦でないと飲まなくなったり、梅干しも妻の実家からもらった紀州のとある漬物屋のものばかり、トマトも昔と違って青臭いものばかりなのでほとんど食べなくなった。
 (きっかけがもらい物ばかりなのがなんとも情けない話だが…)

 味覚に関してのみならず、乱読派だった本などもある時を境にミステリーやエッセイを手にすることがパタリと止まった。
 無節操に買っては適当に着潰していた服や靴も、持ちがよくなり滅多に買わなくなった分選り好みが出てきた。
 「舌が肥えた」「贅沢になった」と言われればそれまでだが、別の言い方をすれば「自分にあったものが判ってきた」とも言えるのではないか。

 まだまだ年寄りじみたことが似合う年ではないが、手当たり次第身につけたくなる時期を過ぎると、次は無駄なものを削ぎ落とす時期になるというのは突き詰めれば人生そのものであると言えるし、実際昔から云われて来たことである。
 こだわりを持つということは、ある意味窮屈な部分もあるように思えるが、無駄を省いた自分のスタイルを身につけることが出来るなら、むしろ身軽になれるという見方のほうが正しいように思える。

 こじつけるようだが、自分にあった運用手法を見つけてしまえば、新たな運用法や他人の手法に目移りして右往左往することがなくなるのも同じではないだろうか。

 無駄を切り捨てられるようになるということは、成熟の証でもあるといえそうだ。

 ま、私の場合まず削ぎ落とさねばならないのは、脇腹のぜい肉なのだが。

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