先日、ようやく「臓器提供意志表示カード」を携帯するようにした。 以前から持っていようと思いながらもすっかりものぐさをしてしまっていたが、偶然にも「プリントアウトするだけでOK」というカードをネットで見つけたので飛びついた次第である。 不思議なもので提供意志のある項目に丸をつけていると、「俺はどんな死に方をするのかなぁ」と急に想像を巡らせるようになった。カードひとつで大袈裟なとも思うが、これはある意味一つの遺言である。法的効力はともかく自分が死んだ後のことを考え、意思を代行してもらうのだから一度はちゃんと考えておく必要はあるのだろう。 私自身は「脳死」を条件にしたが、現実には条件通りの脳死というのは極めて確率が低いらしい。だからというわけではないだろうが、脳死判定を受けた人が出た場合、ワッと移植手術が行われることにもなっているとも云われている。 個人的には自分で必要のなくなったもの、しかも焼いて灰にしてしまうものをそれこそ命を削りながら待ちかねている人が居るのなら使ってもらったらいいと思う。 それでヒトの命が救えるのならそれに勝るものはないではないか。 ところが一方で「他人の臓器を使ってまで」という考え方もある。医学的に可能な治療法なら無制限に認めていいものか、といういわゆる「倫理」の登場である。 今なら代理母の議論が盛んだが、他にも遺伝子治療や臓器移植などがその対象になったのは昔の話ではない。 科学と医療が同居するようになり、生身の身体がもつ治癒力を超えた治療が出来る以上、「医」の倫理を問い、その正当性と社会的対応を議論するのは不可欠だと思う。 仏門をくぐったある医師の言葉だが、「ヒトの身体が無くても命を誕生させるとことが出来る現在、その手段を持つ側に哲学が無いと医療と科学の境は益々なくなり、ヒトの身体はモノになってしまう」 確かに、現在の高度医療は倫理問題をはらんでいるものが多い。殊、臓器提供に関しては誰かの死を経なければならないだけに問題は複雑である。 しかし、それでも私は「生きたい」という願いがある以上、それを最優先するべきだと思う。 それよりも移植手術にかかる高額の費用のほうが問題ではないか。 金銭的な問題で助かるかもしれない道を閉ざされてしまう方がどれだけ苦しい思いをすることだろう。 公的な補助はこうした面では拡充出来ないのだろうか。 方法論だけに関わらない「医の哲学」の存在を信じたい。 |