人間の美意識とはいつ頃から芽生えるのか。自分を振り返ってみるに、記憶に残る最古の「好きだった娘」(小3だったかな・・)の写真を振り返っても、やはり一般的に言うカワイイ娘である。 残酷なことに、その頃では既に人気のある娘というのは大体決まってきており、カワイイか否かの差は割とハッキリしていたように思う。 しかし、そうした概念は経験則に基づいて構築されてくるもので、生まれながらにして「美」の定型が備わっているのではないと思っていたが、どうも違うのではないかという疑問が沸沸と沸いている。 保育園との連絡帳は、毎日家や園での様子を伝えるものだが、最近は食事の様子や散歩の様子に混じって「Rちゃん(♀)に一生懸命話し掛けてました」とか「Rちゃんにまとわりついていました」なんてことが書かれるようになってきた。大抵は「Rちゃんが迷惑顔をしても気にしないゆうたくんでした」で結ばれている。 Rちゃんって誰だ。 どれどれ、名指しで書かれるほどゆうたが日々ご熱心な相手ならば、父親としてひとつどんな子か見ておきたいものである。 園に送るついでに、それとなくどの子がRちゃんと呼ばれるか耳を澄ます。「Rちゃん***しましょう」と保母さんの声がかかる。その先に目をやるとまだ腰も満足に据わらない女の子がいた。 おお、ゆうた。君は年下が好みか。しかもなかなか可愛い子ではないか。なるほど守ってやりたいタイプということか。あの子は確か何度か朝会ったあのお母さんの子のはずだ。すると将来は……。 ノーコメント。 まあ、とにかくまとわりつくのも程々に。1歳にしてストーカーちっくな資質を見せられては余計な心配をしてしまう。そもそも、ゆうたの連絡帳にこう書かれるということは、Rちゃんの連絡帳には「今日もゆうた君にまとわりつかれ、泣きべそのRちゃんでした」なんて書かれているやもしれないのだ。 ところがしばらくすると、連絡帳には「りす組のMちゃん(♀)と…」「Mちゃんに…」とMちゃんなる子が頻繁に登場するようになり、やはり最後は「冷たくされてもめげないゆうた君でした」で締められてる。 りす組とはゆうたのひとつ上のクラスなので私はMちゃんを知らないが、お迎えに行ったちゅまが見てきたようで、すごくカワイイ子だと言っていた。 なんだ、ゆうた。もう年下は疲れたのか。まあ年上は楽といえば楽だがな。我が家もひとつ違いの年上女房だ。やはり親を見てると子も似てくるのだろうか。すると将来は我が家のように…。 ノーコメント。 この時ちゅまは保母さんにどの子か聞いたらしいのだが、教えてくれたついでに「ゆうた君て面食いですよね。選んでるって感じしますよ。」と言われたらしい。 では本当にゆうたが選んでいた場合、その選択の基準とはなんなのか。大人が見てカワイイと感じたのは偶然で、その子の持つ雰囲気がなにかゆうたに安心感の様なものを感じさせただけなのか。また、ゆうたの目を通したら、その子らは例えば母親たるちゅまに似ている何かを感じたのか…。 まあ、将来どんなタイプが好みになるのか分からないが、正直に自分のココロに従った結果なら何も言うまい。 数週間してまたもや連絡帳に書かれた。 「最近のゆうた君はCちゃんに……」 何も言うまい。何も。 |
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