エスニック

臨界点

 共働きで家事も育児も分担となると、どちらが何をどれくらいするかのバランスを取るのが難しい。我が家の場合、役割分担をハッキリさせているのは保育園の送り迎えぐらいで、後はどちらかが出来る事をするというのが方針にはなっている。
 しかし、どうしたって得て不得手というのはあるもので、中には自然に担当が決まってしまったものも多い。例えば、食事。最初はボチボチやってはみたが、私は性格的に料理には向いていないと言うことが判明したので、今は専らちゅまの役割に落ち着いてしまった。

 根本的にグータラな私はレシピ通りに調理することが無く、サジ加減を目分量にしたり、加熱時間を適当にしたりと大抵どこかで何かを端折ってしまう。当然経験から来る勘ではないため、どこか出来あがりは一味おかしなことになり、「なんか不味いなあ」といいつつ2度と同じ物は作らなくなってしまうのだ。

 元々私は食に対する執着心が極めて薄い。家に一人きりなら、ラーメン一つ作るのも面倒で、作るくらいなら我慢するというタイプだ。賢明なちゅまは早々とこれに気づき、料理はちゅま、洗い物は私という領域を築いてくれたのであった。
 もちろん、ちゅまが不在の時ぐらいは私もゆうたの食事くらい作るが、普段の私は食べさせ役で、ゆうたからすればちゅまは背を向けるばかりで(台所に向かっている)、ご飯をくれるのは私ということになり、おいしい役を取られたと少々不満があるようだ。

 また、自己弁護しておくと、ゆうたを風呂に入れたり爪を切ってやるなどは私の専売特許になっている。問題なのは、先に気づいた方がやれば良いと言う領域。そうなるとグータラには分が悪い。ゴミ捨てや洗濯、水周りの掃除などは大抵ちゅまがすることになる。

 弁解がましいが、私は単にやりたくないからやらないと言う訳ではないのだ。ちゅまがそろそろ掃除しなくては、というレベルは、私にとっては「まだまだキレイ」なレベルなのである。だから、ちゅまが掃除を始めると、「えーっ、まだキレイなのに…」と思ってしまう。もちろん口では言えない。恐妻家の私はつい心でそう叫んでしまうのだ。
 ところが世の中よくしたもので(?)、キレイか否かの臨界点はちゅまの方が低いが、ちらかっているか否かの臨界点は私の方が低い。ちゅまは使いっぱなし、脱ぎっぱなしがOKの人で、コンポやPCラックなど、平らなところであればどんな狭い所でもモノを置きっぱなしにする。食事前にテーブルくらい片付けてと言われるものの、チラシ・メガネ・郵送物・ペン・ハサミ等々、ほとんどちゅまの使ったものだ。

 まあ、強いて順序をあげるなら、私は片付けただけで満足してしまい、ちゅまはそこから掃除をしたがるということか。

 こんなことをHPで公表するのはかなり勇気のいることである。バレた際にはどんな恐ろしい目にあうか想像も付かないが、少なくともちゅまは私の顔には手を出さない。傷だらけの顔で保育園に行けば、みんなに訝しがられるからだ。

 「顔はやめときな。ボディボディ…」(by三原順子・再婚オメデトウ)。であるからして、一見なんともなさそうでも、私が歩くのも辛そうな様子の時は気付いて欲しい。「ああ、バレんだな…」と。


(執筆風景)


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