滑川(なめりがわ)中流

支流の二階堂川と合流し、市内の繁華街へと流れていきます。
橋もそれぞれ趣をもってきますので、見逃さないように確実に探していってください。

廣瀬橋
鎌倉市浄明寺2丁目
浄明寺郵便局の前
古そうな橋だが、関連事項不明
犬懸橋
鎌倉市浄明寺2丁目
この橋の下で、滑川は大きく左に曲がっている。しばらくの間、川は金沢街道から大きく離れて流れていく。
この近辺には大きな鯉が泳いでいる。
この左手、金沢街道沿いに「杉本寺」がある。
この近辺を、犬懸が谷(いぬかけがやつ)といい、昔、狩りのときに犬が駆け上がったり、駆け下りたりしたのでこの名が起こったといわれている。
大御堂橋
鎌倉市雪ノ下4丁目
この先で川は左に曲がり、若宮大路とほぼ平行に流れていく。
この近辺を大御堂が谷という。
源頼朝が鎌倉幕府を開いてから鶴岡八幡宮の次に建てた「勝長寿院」(大御堂)がこの写真の手前側になり、父義朝への報恩のために建てたといわれている。しかし現在は住宅が立て込んでおり、往時をしのぶものは全くない。
宝戒寺橋
鎌倉市小町3丁目
宝戒寺の裏手に架かる橋。紅葉山やぐらへ通うずる。
宝戒寺は、9月ころ咲く美しい白い萩の花でも有名です。ここは、北条義時を初め、代々の執権が住んでいた屋敷跡だといわれています。この屋敷は、元弘3年(1322年)新田義貞が攻め入ったときにすべて焼けてしまい、その後建武2年(1335年)足利尊氏が北条一族の霊をなぐさめるために、寺を建て、宝戒寺と名づけた。
宝戒寺まえの通り小町大路(若宮大路と平行に大町方面に通ずる通り)は、鎌倉時代、この近辺の武家屋敷と大町近辺の商業地区を結ぶ賑やかな通りだったようだ。日蓮上人の辻説法跡もこの通り沿いにある。
東勝寺橋
鎌倉市小町3丁目
珍しくアーチ型の橋で、橋の端から川へ降りることができる。
北条高時腹切りやぐら、祇園山ハイキングコースへ通ずる。
五代執権北条時頼に仕えた青砥藤綱が幕府に出仕する途中、この橋で火打ち袋にいれていた十文の銭を滑川に落としてしまった。わずか十文だから見過ごすのが普通だが藤綱は人を雇い、しかも夜になってしまったので五十文出して松明を求め川底を探させた。この話を後で聞いた連中は、十文損しないために五十文損した勘定知らずと笑った。藤綱はこれを伝え聞いて「おまえたちは世の中の損というものを考えたことはないのか、人々に恵むという心を持っていないのか。もし銭十文をすぐ探さなかったら、銭十文は永久に滑川の底に沈んでしまったであろう。だが私の買った松明代の五十文は、商人の手から手へ伝わって長くなくなることはないであろう」とその不心得さをさとした。

琴弾橋

鎌倉市小町2丁目(橋の向こう側)と大町1丁目の境目にある
この橋の東にある小高い丘を小御所ケ丘といい、二代将軍頼家の妻「若狭局」がその子一幡(いちまん)と住んでいた。
この丘の上に昔、琴弾き松があったといわれる。この松の枝の風に鳴る音が丁度琴を弾くように美しかったので、だれいうとなく琴弾きの松と呼ぶようになった。
夷堂橋
鎌倉市小町1丁目(橋の向こう側)と大町1丁目の境目にある。
この夷堂というのは、鎌倉幕府の裏鬼門という悪い方角に当たるところなので、頼朝が夷神をまつり幕府の守神としたものである。
手前の奥の谷戸を「比企ガ谷」と呼ばれ、比企一族の館があったところ。
政子が頼家(二代将軍)を出産したのもこの館である。
初代の執権北条時政(政子の父)は、頼家に近い比企一族の勢力拡大を恐れ、一族を抹殺してしまう。その菩提を弔う日蓮宗妙本寺が手前の奥にある。