0224   2003.2.26
▼少し前から『パパ・トールド・ミー』がテレビ化するという話は聞いていたのだけれど、その『パパ・トールド・ミー』と私の(知っている)『パパ・トールド・ミー』とが同じものだという確信が持てなかった。だって舞台が大阪だっていうし。
 『パパ・トールド・ミー』、大阪でやったら雰囲気ブチコワシにならないか? どうしても関西でやりたいなら神戸あたりじゃないのか、とか。
 そして、この記事には「心温まるホームドラマ」と書かれているが、そもそもこの話はそんな話ではない(と私は思うが)。ドラマを作っているやつらはすでに作ろうと思った時点でナニカカンチガイしているに違いない。

 私はこのテレビを見るんだろうか?

▼いろいろなことが目の前をただ通りすぎていく。ほとんどすべての事物は書き記されることもない。
 書き記されることがなかった行為、事柄はなかったことになってしまうのだろうか? のちのちかえりみられない(かえりみることができない)物事は無意味なことなのだろうか? この過ぎ去って行く事物に対するこの惜愛(or哀惜)の感情は、どこからわきあがってくるのか?
 物事を書き記すことで、もう安心しきって物事に対する責任を果たした気になり、その物事の本来的意味を考えなくなる(例えば、生き物の名前を知っただけで、そのすべてを知った気になる哀れな老人のように……)のであれば、日記など書かないほうがいいのだ。
 物事を記述するという意味(それは現象を名づけるということだ)をもう一段、深く考えないといけない時期にきている。

▼このサイトは日記サイトではありません。

▼こんなことを考えてサイト更新を怠っているわけではありません。

▼村上かつら『サユリ1号(4)』