横田 寧子
1997年10月21日
目次 |
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序 |
一.『エターナル』に関する問題提起 |
二.バッドエンディング提示説 |
三.三作品の比較と『エターナル』の新たな位置づけ |
四.本編に関する問題提起と三作品のテーマ |
五.なぜ作品は分かれているか―本編の終わり方について思うこと― |
結 |
拙論は、栗本薫氏の小説『終わりのないラブソング』シリーズ(角川ルビー文庫)が、 『終わりのないラブソング 第一部』(以下、これを本編と呼ぶ)、『エターナル−永遠に−』 (以下、『エターナル』と略す)、『Tomorrow』の三パートで構成されていることに着目し、 それぞれのパートの位置づけを通じて『終わりのないラブソング』全体について考察したものである。 なお、本論はメーリングリストnut-brown上での議論の成果であり、nut-brownの皆様、特に、 共に熱心に議論してくださった八巻大樹氏に深い感謝を捧げる。
『エターナル』という作品は、第一部の最終巻である『終わりのないラブソング(8)』所収だが、 本編とは異なる小品の体裁をとった独立した物語である。 その中に登場するのは本編の主人公村瀬二葉とその恋人の三浦竜一であり、 基本的に『エターナル』には本編と何ら世界的に異なることもなく、また、時間的にも、 本編のラストから一年以内の時間が流れただけということを感じさせる設定になっている。
しかし、本編から何気なく読みすすめた場合、『エターナル』はかなり異色さを感じさせる小品となっている。 その最大の原因は、トーンの差である。試みに本編のラストの一部と、『エターナル』の冒頭部を比較してみよう。
<本編のラスト、第41話 旅立ち の最後部分を引用>
竜一はまだあのヤクザの事務所のソファの上で毛布をかぶって眠っているだろうか。
竜一と一緒に暮らすのは何をぼくにもたらすだろう。
それがどのような旅へまたぼくをいざなうにしたところで、ぼくはそれでいいのだと思えるだろう。 そうぼくは思った。奇妙な灰色の朝――ゆくさきの望みもなく、金もなく、 ただ頼みがたい愛だけを頼りに友達のもとから飛び立ってゆこうとしている。二十歳のぼくは、 不安におびえ、愛におびえ、そしてなんだか奇妙なくらい幸福だった。
<『エターナル』の冒頭部より引用>
永遠なんて信じない。永遠の愛なんて存在しやしないと思う。時は流れてゆく――すべては、 うつろってゆく。1年前には、(この人がいなくては生きてはゆけない)と思っていた。 その1年前にはその人がこの世に存在していることすら知ってはいなかった。 そして1年後にどうなっているかなんてだれにもわからない。 あんなに(この人に捨てられたらぼくはきっと死んでしまうだろう)と思った、その人の名前さえ、 10年ののちには忘れてしまっているかもしれない。だったらぼくのあのときの思いはいったいどこへいってしまうんだろう。
ひとことで言えば、本編のラストは明るめのトーンであるが、『エターナル』の出だしは暗く沈んでいる。 また、むろんトーンだけでなく、両作品の間には様々な意味で隔たりがある。これについては後で詳しく述べるが、 この、本編と『エターナル』の間の温度差が、読者にかなりの違和感を与える性質のものであったことが、 問題提起の発端となる。
加えて、『エターナル』がいわゆる「夢オチ」の作品であることも、読者にある疑問を抱かせる非常に重大な要因である。 その疑問とは、「なぜこのように極端に悲観的な、しかも最後は単に二葉が悪い夢をみただけというような、 ある意味で読者を裏切るような内容の作品を、わざわざ読者に提示する必要があったのか?」というものにほかならない。
次に、『Tomorrow』まで含めて考えてみる。『Tomorrow』は、 現時点では『終わりのないラブソング』シリーズの一応の完結編とみなせる作品であり、 量的には一冊の単行本である。こちらは、『エターナル』からは一転してかなり明るいトーンの作品であり、 本編から自然に接続しているように感じられる。ハッピーエンドであり、執筆された順番が最後であることなどから、 本編の順当な結末はこちらであると考えられる。
すると、『エターナル』の異色さが一層際立ってくる。
一体、『エターナル』は本当に必要だったのであろうか。なぜ、本編と『Tomorrow』だけではいけなかったのか。 これが、『エターナル』に関する問題の中核として浮上する。
『エターナル』のあらすじは、二葉の信じていた竜一が、 ヤクザの兄貴分である松岡に二葉を抱かせることをやむなく承知してしまい、二葉が松岡に犯され、 その後で二葉と竜一が心中を決意する、というものである。従って、夢オチであることを除けば、 『エターナル』は同性愛の物語にはありがちな、ある悲劇的結末の提示であるかのように見える。
そこで、前述の疑問は、次のように解決することもできる。
「『エターナル』は、『終わりのないラブソング』の悲劇的結末である。それが夢オチなのは、 ハッピーエンドを書く用意があったから、二葉たちが本当に死んでしまって物語が終わってしまっては困るからである。 つまり、『エターナル』の意味は、バッドエンディングを提示すること自体である」
そして、重点を『Tomorrow』に移せば、次のような評価も生まれる。
「『エターナル』は、『Tomorrow』で提示される明るい未来をより効果的にするための仮想的な悲劇的結末である。 その価値は、ひたすら『Tomorrow』との対比のみにある。」
この説は確かにもっともである。私自身、初めてこのシリーズを読破したときには、二つのエンディングとして解釈した。 また、時が止まればと願う『エターナル』と明日へ歩き出す『Tomorrow』はタイトルからも確かにその対称性がうかがえる。 しかし、私には、どうもそれだけでは納得できないものがあった。そこで、この三作品を、 本編+二つのエンディングという視点で見るのをとりあえずやめて、小説の体裁通りに、先入観なしに、 本編、『エターナル』、『Tomorrow』と順に並べて考えてみた。すると、果たせるかな、 必ずしもバッドエンディング提示が第一義的な目的ではなかったと思える別の発想が浮かんできたのである。
私がまず着目したのは、二葉の目からみた竜一像の変化であり、二人の関係の遷移である。
本編において、二人の間に恋愛が成立してからは、二葉にとって竜一は終始、いわば「神様」的存在である。 なぜ「神様」かといえば、二葉が竜一をあらゆる意味において特別視しているからだ。具体的には、 二葉にとって竜一は概ねスーパーマンであり、二葉を愛してくれ、二葉を幸福にしてくれて、二葉が絶対的に信じ、 愛している人物である。本編での二葉は、竜一といさえすれば何も悪いことは起こらないし、 たとえ何があっても悪いとは感じないのだ、というような状態にある。二葉は実に無防備に竜一を愛し、信頼している。 この関係は、赤ん坊と親の関係に良く似ているといえよう。そしてまた、この愛によって二葉が癒されたという事実において、 二葉と竜一の関係は、一般的な恋愛とは異なる特別な価値を持つ。これも非常に重要な点である。二人は、 とにかく特別であり、ゆえに、二人でいさえいれば絶対に幸福になれる。これが、本編における基本的な二人の関係である。 ここで基本的と書いたのは、後半にかけて関係の特別性が揺らぎ出しているからだ。最も顕著な例は、第40話である。 女装してニューハーフと仲良くしている二葉を目撃した竜一が怒って立ち去ってしまう事件がある。 このとき二葉は竜一を愛するようになってから初めて、彼にはっきりとした反抗心を抱く。
<第40話 夢のつづき より引用>
ぼくの考えは絶望と妙に喜劇的でさえある自嘲、 それに竜一が本当にぼくの人生から去っていってしまったら……というしんと身のこおるような恐怖と、 こんなことで本当に去っていってしまうような愛だったらそれはそこまでのものなんだからしかたないじゃないか、 という反抗的なひらきなおり、なんとかしてとにかく竜一に連絡をとらなくちゃ、という狂気じみた衝動、 それらのなかをめっちゃくちゃに入れ乱れて、いっときもやすまるひまもなかった。
この、「反抗的なひらきなおり」は、それまでの二葉にはなかった種類の気持ちである。 これがそれまでになかった状況であることは、第40話中の描写からよく伝わってくる。 以前の二葉なら、竜一が怒って彼のもとを去るということが世界の終わりであるだけだったはずなのだ。 この第40話でも、確かに二葉は激しいショックを受け、混乱はしているが、 竜一を怒らせたから何としても誤解を解こうと思う一方で、なぜ怒るのか、という不満を感じている。 「ひきさかれている苦しみのなかにも何かしらロマンチックなものはあった」以前とは違って、 「ロマンチックなものなんか本当に何もない」苦しみ、今までなかったほど白々とした現実の風景に直面したのである。
だがしかし、本編はこの苦しみや反抗心を突き詰めることはなかったように見える。 本編の出した答えは、二葉に、能動的なアクションをとらせることにとどまっていた。 意を決した二葉が竜一に会いにいくと、竜一は怒ってはおらず、冷静に二葉の将来について語り出す。 そしてそういう竜一に対して、二葉は「そんなことを云い出すのは――もうぼくなんか嫌いになったからなの?」と聞き、 「ぼくがどうして竜一のすることにそんなふうに気を悪くしたりすると思う?」と言う。芽生えた反抗心は、 ここでは二葉自身によって打ち消されており、竜一は二葉にとってあくまでも「神様」のままである。 竜一の「そんな可愛想なこというな。――お前だってちゃんと俺が間違ったことしたら怒ればいいんだ。 俺はすごく横暴だしやきもちやきだし、それに独占欲強いんだから」という台詞には、 そうやって自分を絶対視する二葉への悲しみが混じっている。そして、二葉が自分から竜一のその言葉に答えることは、 まだない。
このように、本編においては、竜一が絶対的な存在ではないということを語りかけるのは、 あくまでも二葉以外の人間でなくてはならなかった。清正、麗子ママ、そして竜一。 これは、本編の重要な特徴だ。「一緒に暮らさないか? 二葉」という竜一の言葉によって、 第40話での危機が回復され、奇妙に幸福な旅立ちを迎える二葉は、結局、 竜一を完全に「神様」でなくすることは出来なかったのである。
一方、『エターナル』において、二人の関係は、本編の基本的な形、すなわち絶対的な存在である竜一と、 無条件に竜一を愛している二葉、という構図からはかなり離れている。
「永遠の愛なんて存在しやしないと思う。」と言い切る『エターナル』冒頭部の二葉は、もはや、 絶対的に竜一を愛していた以前の二葉ではない。 第41話において「竜一がぼくをいらなくなったならそれはもうしかたがないけれども、 ぼくが竜一をいらなくなることは決してないだろう。それはぼくがはじめて自分の外側に見いだした《もうひとりの自分》 ――ずっと一緒にいたい、と思ったはじめてのもうひとつの別の存在だったのだから。」 と無邪気に言い切っていた二葉ではないのだ。
この違いは何なのだろうか。なぜ、二葉は変わったのか。そしてその変化とは、何なのか。
『エターナル』の中心エピソードは、いうまでもなく、二葉のみる悪夢である。夢の中で、二葉は、 松岡に犯されて一旦は完全に壊れてしまう。
<『エターナル』より引用>
(ぼくは――壊れてしまった……)
本当に、壊れてしまったのだ。
松岡がいったことが本当かどうか知らない。本当でもそうでなくてもそれはどうでいいような気持ちさえした。 でもただ、確かなことは――ぼくにわかるのは、ぼくにはもう、何ひとつ元どおりにはできないのだ、ということばかりだ。 たとえ松岡のいったことがそのとおりでも、 そうでなくて松岡がぼくをだましたのであっても――竜一は――いまはその名前について考えることさえもぼくはイヤだった。 その名前が頭のなかにのぼってくることさえ耐えられない気がした。
(もうおしまいだ……おしまいなんだ)
こんなにはっきりとした《別れ》を感じたことはあっただろうか。
特に注目すべきは、「そうでなくて松岡がぼくをだましたのであっても」という部分である。 つまり二葉は、竜一が二葉をほかの男に犯させることを許した、ということを信じて犯されたときに、 壊れてしまっているのである。つまり最も重要なのは、事実ではなく、二葉自身の喪失感である。 竜一への愛情、竜一への信頼を喪うことである。
私はこれが、二葉の変化の本質であると思う。本編での二葉が『エターナル』の二葉になるためには、 二葉は「神様」としての竜一を喪わなくてはならなかったのだ。相手に頼り切った無邪気な愛情、 無防備な信頼をいちど手ひどく打ち砕かれ、もういちど自分ひとりの孤独な世界を体験しなければならなかったのである。 そうして改めて対面する竜一は、二葉にとっては初めてみる他人にも等しい。 何を言ったらいいのかわからないでいる二葉に竜一は「俺のことが嫌いになったのか?」と問う。 深刻さは違うものの、本編第40話で二葉が事件の後はじめて竜一に会うシーンとこれとは、 ともに竜一に距離感を感じている点でよく似ている。しかし決定的に違うのは、 二葉がもはや竜一を「神様」に戻せないことである。竜一はスーパーマンではなく、 二葉と同じように無力な人間でしかない。
『エターナル』は喪失の物語である。世界が壊れてしまった衝撃のなかで、二葉はついに竜一に、 その喪失について自ら語ることはなく、竜一の「二人で、死ぬか」という言葉に身を任せることを選ぶ。 つまり、この物語のなかには喪失だけがあり、その克服はない。
さて、最後に、『エターナル』の続編として『Tomorrow』における、二葉と竜一の関係を考えてみよう。 『Tomorrow』の出だしは、『エターナル』の一年後から始まる。冒頭部のトーンは決して陰鬱ではなく、 どちらかといえば本編のラストに近いように見える。しかし、二葉にとっての竜一は、やはり「神様」ではもうない。 二葉にとって竜一は大切な恋人だが、心理的に、二葉と竜一の距離はかなり開いていて、そこには独特のけだるさが漂う。 竜一は「神様」ではないけれど、それでも竜一は好きで、 そこから先へ思考が進まない二葉が『Tomorrow』の開始地点である。だとすれば、 これはまさに、『エターナル』の続きである。
<『エターナル』のラストより引用>
受話器のなかからきこえてくる、かなり酔った竜一の声。これがぼくの男だ、ぼくのいちばん愛する、 この世でただひとり愛している、一緒に死んでもいいと思うたったひとりの男。
ぼくは暗闇のなかでひとりでかすかに、複雑な微笑をうかべて、そして受話器に耳にあてた。 このまま時がもう止まってしまえばいい――永遠に。どこにも存在しない永遠を探して――永遠に。
そしてぼくは、ゆっくりと竜一の声にこたえて喋りはじめた。
つまり、本編ラストの二葉が『Tomorrow』開始時の二葉になるためには、その間の二年間の中に、 『エターナル』という一シーンを抜けていかなくてはならなかったと考えられる。二葉は旧世界と「神様」としての竜一、 無防備な信頼と愛情を完全に喪失し、二人の男、他人同士としての恋愛と真剣に向かい合わなくてはならなかったのだ。 そういう視点で見るならば、この三作品は、二葉の成長段階に応じた三つの年代順の物語として十分に説得力を持ちうる。 そして『エターナル』自体の本質的な意味も、悲劇的結末そのものにではなく、 二葉の成長過程における通過点としての喪失の描写にあると考えることが可能になる。
繰り返すが、『エターナル』は、対比あるいは作者の興味のためだけに描かれた単なる悲劇的結末ではない。 それは、二葉が真のハッピーエンドに辿り着くために必然的に通らねばならなかった喪失という通過点である。 夢オチという手法の評価は別にして、そのモチーフ自体は、シリーズにとって避けて通れない、 絶対に必要なものであったといえる。以上が、『エターナル』に関する問題提起に対する一つの結論である。
さて、このように、『終わりのないラブソング』シリーズは三つの作品によって構成され、 しかもその三つは時間的に順序よく並べられる性質のものであることが確認された。 しかし、そうでありながら、本編第一部は第41話で終わっており、『エターナル』は第42話でなく、 『Tomorrow』も第43話以降の体裁をとってはいない。その理由として一つには、本編と『エターナル』、 『エターナル』と『Tomorrow』の間にそれぞれ1年ほどの空白があることが考えられる。 しかし、本編でも少年院を出た直後など、時間が大幅に流れることはあったので、時間だけが問題だったとは考えにくい。 やはり、『エターナル』と『Tomorrow』には、本編から区別して書かれたほうがよい理由が別にあったのだと私は思う。
この理由を探すため、それぞれの作品のテーマについて改めて考察してみよう。
本編は、いうまでもなく、親に愛されなかった子供、いわば「生まれなかった子供」である村瀬二葉が、 同じように孤独な魂を持つ三浦竜一と出会い、癒され、救われる物語である。 その中核的なテーマは「癒し」であり「この世に生まれ直すこと」にほかならない。それまでの不幸を不幸であると認め、 望まれて生まれてくる赤ん坊のように、この世に生まれ直すことこそが核心部分である。だからこそ前述のように、 竜一はつねに二葉にとっては絶対的な存在でなくてはならなかったし、二人の関係は他人同士の恋愛というよりは、 同じ魂をもったもの同士の、あまりにも特別な結びつきでなくてはならなかった。その特別性だけが、 親に愛されなかった不幸を覆し、直接的に二葉を癒す力を持ち得るからである。
他方、『エターナル』は、前述のように、そのせっかく手に入れた特別な絆の喪失の物 語である。テーマは、「旧世界の喪失」と言い表すことが出来る。
であれば、『Tomorrow』のテーマは「新しい世界の構築」だとも考えられる。それは「新しい絆の獲得」であり、 「愛することのできる能動的な人間への変化」である。 『エターナル』の喪失の後では何ら言葉を発せないまま心中へと流れていくしかなかった二葉が、 『Tomorrow』では、自分から大野の部屋に入り、麗子ママに電話をかける。飯沼との戦いぶりも象徴的である。 生きる力の獲得、自我の確立と言い換えることも出来よう。いわば「自立」である。『Tomorrow』の二葉は、 自立した大人として、他人との関わりのなかに幸福を模索してゆく。
以上、三作品のテーマがそれぞれかなり明確に異なることは既に指摘した。最後に、ではなぜ、 これらがすべて『終わりのないラブソング』本編として書かれなかったかについてさらなる考察を加えたい。
もし、『終わりのないラブソング』が当初から、二葉を自立した大人の像へ送り出すことを目的にしていたならば、 『エターナル』は第42話であってもよかったし、たとえ『エターナル』が描かれなかったとしても、 『Tomorrow』は充分に本編として描かれることが可能だった筈である。 実際にそれが三作品に区別されたのは、『終わりのないラブソング』本編が、 「自立」よりも「生まれ直し」を作品のテーマとして優先させた結果ではなかったかと私は推測する。 「癒し」のパワーを最重要視した、と言ってもよい。前述したように、生まれ直した二葉が、 自立した幸福な大人になるためには、『エターナル』のような、激しい喪失を必ず通らなくてはならない。 しかし、この喪失は、「癒し」自体とはあまり関係がなく、むしろ、 「癒し」の証である特別な絆が壊れてしまうという意味においては、「癒し」のパワーを損なう性質のものである。 これは、『終わりのないラブソング』の読者層の問題と密接に関わる問題だと思う。読者の中には、 『終わりのないラブソング』を読むことで癒されたい人が多数存在する。癒されたい人にとって重要なのは、 二葉がこの世に生まれ直して、特別に幸福になることである。自立した幸福な大人になることではない。 竜一が二葉を盲目的に愛してくれていて、二葉が無防備に竜一を信じ、幸福ならそれで良い。逆に、二葉が、 いつか自分も心変わりするかもしれないなどと思っていては決定的にまずい。
従って、本編の最後のほうでニューハーフの泉の件で二葉と竜一の間に溝が生じ、 第40章では反抗心を抱くようになりながらも、 そのすぐ次の第41章では一緒に暮らし始めることで一応幸福なエンディングとなる本編の終わり方は、 これ以上本編で続けていられなくなったがゆえの急な終わり方であった可能性がある。実際、 それまである程度の量を割いて二人の間に生まれ始めた溝を描き出していたにしては、 第41章での終わり方はかなり唐突なものだったし、これならもっと以前、 竜一と再会した頃から一気にエンディングになっても同じだったのではないかという印象をも与えるものだった。 これをすべて、本編の限界ゆえと捉えれば非常に納得が行く。 この世に生まれ直すことに成功した赤ん坊の二葉が、やがて自然のなりゆきとして「自立」に向かいはじめ、 せっかく手に入れた満ち足りた幸福な旧世界を喪失しなくてはいけない時期にさしかかったからこそ、 本編はやや中途半端な形で幕をおろさなければならなかったのではなかろうか。
同じハッピーエンドでも『Tomorrow』まで描かなかったのは、 二人の関係の特別性が明白に過去のものとなってしまうのを避けた結果であるとともに、次のような理由も考えられる。 すなわち、「生まれ直し」とは愛されることであり、基本的には受動的に満たされることであるから、 読者が追体験という形で癒されることが可能なのに比べて、 「自立」は能動的なため追体験はしにくいという性質的な違いがあったのではないか。 もし意識的な読者が、生まれ直すだけでなく自立も追体験したいと思っても、 本当に自立するためには読者自身がそれに取り組まなくてはならない。読むだけで癒される小説は存在し得るが、 読むだけで自立できる小説は存在しない。これもまた、本編と『Tomorrow』が分かれたひとつの背景といえるだろう。
繰り返すが、本編は、意図的に二葉を「奇妙なくらい幸福」なままにとどめたのである。 これは、『終わりのないラブソング』が単なる成長ものではなく、 あくまでも読者を癒すことを念頭に置いて描かれた小説であったからなのだ。 成長ものとしてのこの小説の真のエンディングが第41話ではなく『Tomorrow』であることは、いうまでもない。 『Tomorrow』というタイトルは、従って、これまた象徴的である。時よ止まれと願った二葉が、 明日から歩き始めようと思えるようになるだけではない。愛され、癒され、生まれ出ることができた今日。 そして、自立した幸福な大人になるための明日。 『Tomorrow』は『終わりのないラブソング』というジャンルにとっての「明日」でもある。
『エターナル−永遠に−』の評価について、 バッドエンディング提示以外の可能性を求めて『終わりのないラブソング』本編および『Tomorrow』と比較したところ、 二葉の成長過程の通過点としての意義をあらためて『エターナル』に見出し、 この作品がシリーズ全体にとって重要な意味を担うことを確認できた。
また、この意義づけを前提として、「生まれ直す」本編、「旧世界の喪失」を描いた『エターナル』、 「自立した幸福な大人」へ向かうための『Tomorrow』という捉え方をしたとき、 本編が「生まれ直す」のにとどまる必要があった可能性を指摘した。すなわち、 読者を癒すことを目的としていたがために一旦筆を置いたのが第41話の終わり方であり、 『終わりのないラブソング』シリーズのこの作品構成は各パートのテーマ・目的の違い、 突き詰めればジャンルの違いから生まれた必然である、との結論を導くことが出来た。