木村朗国際関係論研究室
コラム・バックナンバー

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No.12 TITLE:「NATO空爆とコソボ難民問題を考える市民の集い」(6月13日、福岡・河合塾)での報告 DATE:25 Jun 1999 10:04:43

最初の報告は石川ゼミのOB、現鹿児島大学法文学部、国際関係論・平和研究専攻でユーゴの研究をなさっている木村 朗さんでした。先生はユーゴに3度ほど行かれているらしく、ボスニア紛争などもお詳しいようです。
さて本題のコソボ問題について。先生は研究の対象であるユーゴについて全般的な解説をしてくれました。

<コソボ紛争の背景と対立の構図>
まず、バルカン半島の地理的要因。ユーゴを含むバルカン半島はヨーロッパとアジア・中東を結ぶ東西の十字路で、様々な民族・宗教による「支配−被支配」関係が存在し、歴史上支配者が150回以上代わっているとのこと。これがこの地域に多くの民族・宗教・言語そして対立を生み出す要因となったのでした。つまり東と西の緩衝地帯ゆえの問題とも言えます。ユーゴといえばパブロフの犬のように反応して出てくる言葉はチトーですが、チトー時代には諸民族が一応平和的共存できていたようです。そして、よく言われている「民族・宗教対立」ですが、これはそもそもユーゴが抱えている社会・経済・国際的な「複合的危機」が「民族・宗教対立」へと転換されているとのことです。
社会システムの問題を分かり易く感情に訴える形に転換するということは実はどこの社会でも行われていることです(最近の日本ではプラス思考が有名ですね)。
そして隣の地図で赤丸で囲んだ部分、ここが問題のコソボ自治州です。ここは見てもおわかりの通りセルビア共和国の中の自治州の一つです。そして隣の国にはアルバニアが存在します。僕の勝手な考えですがこの地はセルビアとアルバニアの緩衝地帯、ゆえに自治州となったのではないでしょうか?完全なセルビア統治でなく自治地域として。そしてそれゆえの問題、まずセルビアという国の中では「アルバニア人」は少数者です。が、しかしコソボという「辺境(セルビアにとって)」ではアルバニア人の多数・セルビア人の少数という逆転現象がおきます。たがいに被支配・少数者という感覚が生まれるのです。そしてもう一度強調しておかなくてはいけないのは、たがいの民族対立は他の問題がうまくいっている限りでは顕在化・激化はしないということです。まさに「辺境」という地域は「中央」に比べれば疎外されるというのは「国民国家」という観点からは自明の理です。そしてボスニア・クロアチアの独立という国民国家という観点からすれば危機的な状況にあるなかミロシェビッチは支配強化のためコソボの自治権を剥奪しました。問題の起源はここといってもいいでしょう。もちろん、アルバニア人の中からはセルビアに対する「上からの扇動」と「下からの突き上げ」の統合による民族主義の高揚というものが起こります。民族主義者の第一の攻撃目標は他民族ではなく自民族の中の他民族との融和が可能と思っている人々だそうです。これには権力によるメディア支配と教育支配がうまく利用されるようです。そして、民族主義が激化していけば行動の目的は「自治権の獲得」から「独立の実現」へ、また平和交渉か武力闘争かということも問題となります。コソボ解放軍のテロではセルビア人だけが標的ではなく親セルビアのアルバニア人も攻撃目標となるようです。これに対してよくいわれるところのセルビアの「民族浄化」つまり自民族以外を排除する行動がとられます。これはボスニア紛争の時もセルビア人によって行われ、それに対抗するクロアチア・ムスリム勢力もその土地にいたセルビア人に対しても行ったそうです。「民族浄化」とは端的に言えば @大量虐殺(抹消)A国外追放B奴隷化です。他の問題からの転化が単純な形で激情となり狂気の行為を生み出すのです。
こんな事言っていいのか分かりませんが、報告が終わった後、観衆の質問・意見があったのですがその時数名の方々の(御年配の方が多かったと思いますが)意見の中で「戦争は絶対悪だ」「この会場に来ている人に若い人が多くて頼もしい(=いいことだ)」ってのがあったのですが、おっしゃることはごもっともなのですが僕は聞いていて正直むかっ腹が立ちました。向かう対象が平和・戦争という対称性があるだけで根本的な思考方法は同根だからです。われわれが学ぶべきは問題が錯綜している中いかに最悪の状態(戦争)を回避することを考えるかってことであって、正論を吐いて安心していることではないのです。この手の活動に参加している人って単純な正義を信じ込んでいる人が多い気がするんですけどね。まっ、どうでもいいですけどね。

<国際社会の対応とその特徴および問題点>
前述の問題は国際社会で放置されるはずもなくNATOが(なぜNATOが?)介入。平和的交渉がまず開始されます。が、しかしまずは双方がこの提案を拒否。後にアルバニア側は受け入れ(NATOの肩入れがあったとも)、セルビア側は国民国家として他国の軍隊駐留は認められなかった。最初の条件はなんとコソボ地域のみでなくセルビア共和国にも軍隊の駐留が求められていたのこと。これはセルビアにとってはNATOの強圧的要求ととっても無理はないでしょう。平和的交渉は決裂します。ではなぜNATOは空爆に踏み切ったのか?表面的な回答には道徳上・人道上介入したというのが挙げられます。しかしそれあくまで表面的なこと、他に考えられる理由としてNATOの存在意義確立のため−冷戦後の国際社会でNATO域外の紛争解決が存在意義となってきたということです。自地域に攻撃してくる敵は(ソ連)存在せず、ワルシャワ条約機構が解体した今その対抗として生まれたNATOは新たな存在意義が必要なのでした。NATO存続がなぜ必要なのかは更に考えるべき問題ですが・・・。そして、国連決議なしの軍事介入は違法ではないのか?ということが問題となってくるのです。また現在の国際社会の潮流として、国家の「主権」と普遍的な(?)「人権」が衝突した場合どちらを優先するのかという問題で強国と言われる立場の国が「人権」を使って介入するという現象が起こっています(これは大国のエゴという一方的に悪いことだけではなく、いい場合もあるといえることも注意)。しかし、では国家の主権とは何なのか?国連という全世界的ゆえに即断即決できず、まとまりがなく、利害関係が錯綜した組織以外で、介入の是非を決めることは出来るのか?介入するならば、それは恣意的に適用されていないか?つまり、 NATO内のトルコによるクルド人弾圧をどう見るのか?なぜ放置するのか?セルビアとの違いを論理的に説明できるのか?強国・中国とチベットの問題は?北アイルランド問題は?ゆえに、介入の正統性に疑問を突き付けることは出来ます。たとえそれが正義を実現していたとしても。コソボにおける問題はほかに、目的と効果の不対応というものがあります。早期解決するはずというNATOの誤算は、莫大な戦費と共にアルバニア系難民の大量流出、セルビア側の徹底抗戦+ミロシェヴィッチ政権の政治基盤の強化(他国から攻撃されればいかに他国が正義でも関係ないよね。自分の国を応援します。)という意図せざる結果を生み出したのでした。また、戦争はいかに飾っても狂気の沙汰ですから目的と手段のエスカレート現象を起こします。当初の目的は「アルバニア系住民の保護・救出」でしたがそのうち「ミロシェヴィッチ政権の打倒」へと変化していきました。そして近代総力戦においては銃後も戦争継続施設と当然みなされますから誤爆も当然起こります。無辜の市民の犠牲を非難するのもいいのですがそれ以上に空爆する結果として、その後の処置、つまり環境破壊、復興費用の莫大さなども非難可能だと思います。

<コソボ問題の今後の展望>
NATOの完全な勝利もセルビアの民族浄化の完成も不可能!ゆえに「勝者無き戦争」は政治交渉による解決が唯一の残された選択肢なのです。実際問題は空爆前よりも難化しています。残ったものは殺戮・破壊・憎しみのみで、国際的管理しか残された道はないのです。また国際社会における国連の意義の再定義・軍事介入の正当性以上の有効性の問題など国際社会における問題は増大した感があるとのことです。

  僕の言葉と木村先生の報告を織り交ぜて語ってしまい区別がつきにくくなってしまいましたが、これが木村先生の報告の概要でした。
(なお、この報告は、九大石川ゼミのHP管理者であるカワキタさんが作っていただいたもので、ご本人の承諾を得て転載させていただいています。カワキタさん、どうも有り難うございました。石川HPのアドレスは、http://www.geocities.co.jp/Berkeley/7067/)

 1999年6月25日
                                  木村 朗
 

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Composed by Katsuyoshi Kawano ( heiwa@ops.dti.ne.jp )