木村朗国際関係論研究室
コラム・バックナンバー

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No.15 TITLE:再び「なぜ原爆は日本に投下されたのか?」を問う! DATE:10 Aug 1999 17:08:49

前回のコラムで時間の余裕がなくて論じきれなかった問題について触れてみたい。前回は、「原爆(投下)による戦争の早期終結」論が幻想であり、また「原爆の非人道性と日本軍の残虐行為との相殺」論が誤りについて指摘した。今回のコラムでは、「日本への原爆投下の真の理由」と「コソボ紛争でのNATO空爆との類似性」について考えてみたい。

アメリカが、降伏直前の日本(米側は当時の戦況分析で、原爆がなくても日本は1945年11月までには降伏するであろう、と推定していた)に敢えて原爆を投下した理由としては、以下の諸点が考えられる。
@ 日本の「卑怯な」真珠湾攻撃に対する「復讐」・「報復」とその背景にある人種差別観
 原爆投下に執着した理由として、アメリカ側は対日戦ですでに多くの犠牲者を出しており、戦局不利のため条件付で降伏しようとしていた日本を最後に「懲らしめる」必要があった。また、当時の日本軍壊滅作戦を「ねずみ叩き」にたとえるような人種差別観の存在を見過ごすことはできない。
A ソ連に対する示威・威嚇−いわゆる「原爆外交」
「(日本への原爆投下は、)第二次大戦最後の軍事行動であるよりは、むしろ戦後の米ソ冷戦の最初の大作戦の一つであった」(ブラケット教授)。アメリカは、ソ連の対日参戦を防ぐためというよりも、ソ連参戦の影響力を最小限にとどめ、戦後の日本占領政策へのソ連の発言権を封じ込めることを最大の狙いとしていた。
B 新型兵器の実験
周知のように、広島に投下された原爆「リトル・ボーイ」と長崎に投下された「ファット・マン」は、それぞれ異なるタイプの原爆(広島−ウラン型、長崎−プルトニュウム型)であった。そのため、どうしても2発目の原爆を長崎に投下する必要があった。「米側の論理」によっても、この長崎への2発目の原爆投下を正当化することはとうていできない。
C 巨大な開発費用の「回収!」−議会・国民からの強い圧力の存在
1944年からの「マンハッタン計画」には、約20億ドルという莫大な予算が投じられた。トルーマン政権は、もし原爆が開発されていたのに日本に使用しなかった場合、議会や一般国民から「壮大な無駄」「国民への裏切り」という批判が強く出されることを恐れていた。
D 米軍将兵の命の救済
原爆投下を正当化する「米側の論理」で真っ先に出される理由であるが、これは確かに米側の本音でもある。ただし、原爆投下のチャンスが来るまで日本が降伏することを引き延ばした事実(もちろん、「国体の護持(天皇制の維持)」のためには国民の生命をも省みようとしない日本側の「狂気」も戦争継続の大きな要因であった)を忘れてはならない。また、いかに多くの米兵の命を守るためでも、戦闘員の犠牲を避けるための民間人殺戮は明らかな国際法違反である。また、都市への無差別爆撃は、ニュルンベルク裁判・東京両裁判で確認されたように、「戦争犯罪」および「人道に対する罪」を構成する。したがって、独軍によるゲルニカ爆撃や日本軍による重慶爆撃ばかりでなく連合軍によるドレスデン爆撃や米軍による東京爆撃なども当然含まれる。この点、米軍が原爆の効果・威力を正確に知るために、通常爆撃をされていない都市(「市街地」)をわざわざ選んで投下したのは「違法」かつ「非人道的行為」そのものであり、「戦争犯罪」および「人道に対する罪」に当然当たると指摘できる。
 以上、日本への原爆投下の背後に複数の政治的軍事的理由があったこと、原爆投下を正当化しようとする「米側の論理」が必ずしも説得力をもつものでないことを指摘した。
しかし、わたしの真意は、米国による日本への原爆投下の不当性を明らかにすることによって、侵略戦争を引き起こし数々の非人道的な残虐行為を行った日本側の戦争責任に目を閉ざそうというのではない。むしろ、その逆で、日本軍が犯した重慶への無差別爆撃や南京虐殺などの「戦争犯罪」・「人道に対する罪」が「正義」を掲げる連合国(とくにアメリカ)側にも東京大空襲や凄惨な沖縄戦、そして2回の原爆投下という勝つためには手段を選ばないような戦争のやり方を強いたということを理解することが大切だと思ったからである。旧日本軍の蛮行に由来するこうした反日感情は、今なお米国民ばかりでなくアジア諸国の民衆のなかにも根強く、原爆投下を正当視することにもつながっているという事実に注意しなければならない。

ここで、米国による日本への原爆投下とNATO軍によるユーゴ空爆の類似性について、 若干触れておきたい。
まず第一にあげられるのは、降伏条件の厳しさである。ランブイエ協定は、明らかに「セルビア人にはムチをアルバニア人にはアメを!」との方針に基づいて作られており、セルビア側が拒否せざるを得なくなるような内容を含んでいた。このように降伏条件を高く厳しく設定するやり方は、ポッダム宣言にも共通していた。その背後に、これは「制裁」である。侵略者には「甘い果実」は決して渡さない、という堅い決意(「憎悪」!)があったことは言ううまでもない。
また第二に指摘できるのは、両者とも「人道的目的」を掲げた「非人道的行為」であった、という点である。NATO軍は「アルバニア人住民の保護・救済」を目的とし「セルビア国民を敵としない」と言明したものの、必然的に生じた「誤爆」などでセルビア民間人ばかりかアルバニア系難民のなかからも多数の犠牲者を出した。2カ所の原爆投下で1年以内に約20万人(広島約13万人、長崎約7万人)、今年で33万人を上回る原爆犠牲者を実際に出しながら、今なお「原爆投下は日本人の生命をも救うことになった」と強弁する「米側の論理」との類似性はこの点でも明らかであろう。 
要するに、原爆投下とNATO空爆の類似性は、二つのケースとも最終決定権をアメリカが握っており、「アメリカ流の正義」を前提に、米軍あるいはNATO軍の生命を保護・救済することを目的として行われた「人道(正義)のための戦争」であった。しかし、その実態は、侵略者の残虐行為とも重なる「違法」かつ「非人道的行為」を含んでおり、本来ならば「主権国家に対する侵略行為」「戦争犯罪」として「糾弾」されるべき性格のものであったということである。

最後に、自分は北九州市小倉生まれであり、小倉に投下されるはずであった2発目の原爆が天候不順その他の理由で長崎に急遽変更になったという歴史的事実を重く受けとめている。
今なお、核抑止論に固執し核の先制不使用さえ認めようとしないすべての核保有国に対して、また「平和憲法」をもち「非核3原則」を掲げながら日米安保体制下での「核の傘」の呪縛から逃れられない日本政府に対して、今こそ核廃絶の実現へ向けて具体的な一歩を踏み出すことを強く求めたい。
1999年8月10日
(54回目の長崎「原爆の日」および「国旗・国歌法」成立の翌日に)
                                木村 朗
 

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Composed by Katsuyoshi Kawano ( heiwa@ops.dti.ne.jp )