「原爆神話からの解放(上)−早期終戦・人命救済説の虚構性」

今年もまた原爆の季節がやってきた。戦後55回目でかつ20世紀最後の「原爆の日」(8月6日広島、同9日長崎)である。被爆者の高齢化や核拡散の動きなど、今日の世界における核をめぐる状況は依然として厳しい。また、昨年のコソボ紛争でのNATO空爆の正当性をめぐる議論との関わりで、日本への原爆投下の意味と背景を改めて問い直す動きが生まれている。

原爆投下こそが日本の降伏と戦争の早期終結をもたらしたのであり、その結果、本土決戦の場合に出たであろう米兵の犠牲者(50万人から百万人)ばかりでなく何百万人の日本人の生命をも同時に救うことになった、という論理で原爆投下を正当化する早期終戦・人命救済説が米国ばかりか日本においてもこれまで有力であった。しかし、こうしたいわゆる「原爆神話」が必ずしも事実に基づいたものではなく、戦後権力(占領軍・日本政府など)によって意図的に作り出されたものであることが次第に明らかになりつつある。

まず最初に確認しておく必要があるのは、「原爆(投下)が戦争を早期終結させたのではなく、原爆(投下)があったために戦争終結が遅れたのだ」という基本的事実である。

米国は、英国とのハイドパーク協定(1944年9月)で原爆投下の対象を当初のドイツから日本に変えることをほぼ決定していた。また、1945年春以降の日本側のソ連を仲介とする終戦工作を暗号解読などでつかんでおり、ポツダム宣言で当初入れられていたように天皇制存続の容認など降伏条件を緩めることも可能であったのに、日本側の拒否を見通した上で「無条件降伏」を敢えて突きつけた。さらに、トルーマン大統領は、原爆実験の成功を見届けるためにポッダム会談開催を延期させるとともに、宣言発表前に日本へ原爆を投下する事実上の決定を行っていた。そして、原爆の威力を知らしめるために、例えば東京湾などに事前に投下して警告を与えるという選択肢(原爆開発に協力した科学者達からの提案)をトルーマン大統領は無視した。

以上の事実から、米国がポツダム会談直前に開発に成功した原爆を何としても投下できる環境・条件を作ろうとしていたこと、またそのために意図的に戦争の終結が引き延ばされたことが理解できよう。

また、人命救済説に関しては、トルーマン大統領などが戦後に原爆投下を正当化するために持ち出した50万から百万という想定戦死者数は、九州上陸作戦にともなう当時の実際の米側推定死傷者数が「2万人以内」(1945年6月18日の会議用資料)や「6万3千人」(1995年に開催予定であったスミソニアン原爆展の展示案)であったことと比較しても、かなりの「誇張」を含んでいた。また、日本側の犠牲にも「配慮」したとの理由は、2ヵ所の原爆投下で1年以内に約20万人(広島約13万人、長崎約7万人)、今年で約35万人にもなる原爆犠牲者のことを思えばこれが見当違いもはなはだしい議論であることは明らかであろう。

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