「原爆神話からの解放(下)−『正義の戦争』とは何か」

日本への原爆投下は、ソ連に対する威嚇を最大の目的としていた。そのために米国は、原爆投下のチャンスが来るまで日本が降伏することを引き延ばし、原爆が使用可能になると明確な事前警告を与えることもなく性急に原爆を日本に投下した。原爆投下を正当化する「米国の論理」(早期終戦・人命救済説)は説得力を欠いており、また多くの米兵の命を守るためであっても、戦闘員の犠牲を避けるための民間人殺戮は明らかな国際法違反である。とりわけ、2回目の長崎への原爆投下は、広島への原爆投下の悲惨な結果を確認したうえで、ソ連参戦の影響を最小限にし、日本の降伏はあくまで原爆投下のためであったとする目的で行ったものである。この長崎への原爆投下は、広島に投下されたウラン型とは異なるプルトニウム型の威力を試すという人体実験の性格が濃厚で、「米国の論理」をもってしても到底正当化することはできない。また、米軍が原爆の効果・威力を正確に知るために、通常爆撃をされていない都市をわざわざ選んで投下したのは「非人道的行為」そのものであり、「戦争犯罪」・「人道に対する罪」である。

もちろん、米国による日本への原爆投下がいかなる理由によっても正当性をもちえないとしても、それによって侵略戦争を引き起こした日本側の戦争責任が無くなるわけではない。また、「国体護持(天皇制の維持)」のためには国民の生命をも省みようとしなかった日本側の「狂気」も戦争継続の大きな要因であったことを忘れてはならない(その意味で天皇による「聖断」はあまりにも遅すぎた)。そして、日本軍による重慶への無差別爆撃や南京大虐殺などの残虐行為が、ファシズム対民主主義という形で「正義」を掲げる連合国(特に米国)側が行った東京大空襲や2回の都市への原爆投下という明らかな「戦争犯罪」・「人道に対する罪」を正当化させる結果をまねいたという事実こそが重要なのである。

最後に、米国による日本への原爆投下とNATO軍によるユーゴ空爆の共通性について、若干触れておきたい。その共通性は、降伏条件の厳しさと無差別空爆というだけでなく、両者とも「人道的目的」を掲げた「非人道的行為」であった、という点である。二つのケースとも「人道(正義)のための戦争」と言われながら、その実態は、侵略者の残虐行為とも重なる「非人道的行為」を含んでおり、本来ならば「戦争犯罪」「人道に対する罪」として糾弾されるべき性格のものであった。双方の戦争犠牲者数の差が「一方的な殺戮」であったことを如実に示している。

原爆(核兵器)の威力を政治的発言権の拡大に利用する、米国による「原爆外交」(米・アルペロビッツ教授)は、21世紀を目前にした現在でも世界的覇権を維持するための道具として生き続けている。今もなお、核抑止論に固執し続けるすべての核保有国や「非核3原則」を掲げながら日米安保体制下での「核の傘」の呪縛から逃れられない日本政府に対して、その根本的転換をうながすだけの力をつけることが今こそわたしたちに求められている。

2000年8月9日 戦後55回目の長崎原爆の記念日に

                                    木村 朗

※ なお、この「原爆神話からの解放 上・中・下」は、『南日本新聞』に一部修正のうえ「原爆神話

    の虚構」と題してそれぞれ8月8日,9日,10日に掲載されました。

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