木村朗国際関係論研究室
コラム・バックナンバー

Last Update :01/10/02

 

No.36

 

TITLE:「対日講和50年と失われたもう一つの選択−”押しつけられた”安保・再軍備からの脱却を求めて−」 DATE:02.10. 2001 

       

 今から50年前(1951年9月8日)に日本は、サンフランシスコ講和条約を調印して「国際社会」に復帰して「独立」を回復した。そのときに日本は、対日講和条約と同時に結んだ日米安保条約によって、米国の軍事力に基本的に自国の安全保障をゆだねて、その代わりに戦後復興と経済発展に専念する道を選択した。この「軽武装・経済優先主義」という「吉田路線」の選択によって、その後の日本は、短期間に敗戦の痛手から立ち直ったばかりでなく、「奇跡」ともいわれた高度経済成長を達成して世界有数の「経済大国」になるにいたった。

この意味で、戦後の日米関係を「世界で最も成功し、最も重要な二国間関係」(マンスフィ−ルド元駐日米国大使)とし、「半世紀前の吉田の判断は賢明であった」(『日本経済新聞』9月5日付の社説「50年の日米成功物語の続編を書こう」)という「総括」が一般的に行われているのも理由のないことではないであろう。東西ドイツや南北朝鮮のような「分断国家」の悲哀を受けることもなかった、戦後日本の歩みを「幸運」に感じ、「寛大な占領」および「寛大な講和」を行った米国に「(多くの)国民」(特に保守的指導層)が素朴に「感謝」の意を表しているのは事実であるからである。

しかし、このような「サンフランシスコ体制」の光の部分だけに焦点を当てるのとは別の見方がもう一方にある。それは、対日講和条約で失われた「もう一つの選択」を重視し、「サンフランシスコ体制」の影の部分にも目を向けようとするものである。

当時の日本は、冷戦の本格化を背景にした米国による占領政策の転換を受けて、戦犯追放の解除や財閥解体の中止などの「逆コ−ス」といわれた道を歩みつつあった。また、講和条約締結の問題が浮上したのは、前年(1950年)6月に勃発した朝鮮戦争の直後のことであった。それは、日本の早期独立と引き替えに、日本の再軍備(すでに、米軍指令によって50年7月には警察予備隊が創設されていた)を促進するとともに、新たな同盟条約締結によって米軍駐留の権利を認めさせようとするものであった。つまり米国は、世界的規模での東西対立の激化のなかで、日本を「自由主義陣営」に取り込んでアジアにおける「反共の砦」にするという明確な戦略的利益に基づいて、安保条約とワンセットになった形での講和条約の締結を提案したのである。

これに対して当時の吉田首相は、国内における「全面講和」を求める多くの国民の声を無視して、米国を盟主とする「(西側)自由主義陣営」の一員となるという選択を、「片面講和」と「日米安保条約」の同時調印という形で行ったのである。しかし、吉田がこのときに行った決断と選択がはたして「賢明」かつ「妥当」であったのであろうか。今日の時点で、そのことを改めて考えてみる必要があるであろう。

「吉田路線」の「負の遺産」は、「対米従属」と「アジア(沖縄を含む)の忘却」という二つの点に集約される。「片面講和」と「日米安保条約」の同時調印によって、日本はいやおうなく米国の世界戦略のなかに深く組み込まれることになった。それは、世界的冷戦のなかで米国を盟主とする「(西側)自由主義陣営」の一員となり、ソ連を盟主とする「(東側)社会主義陣営」に対決していくことを意味した。すなわち、「東洋のスイス」(マッカ−サ−の言葉)からアジアにおける「反共の砦」としての日本への転換であり、「独立」と引き替えの「自立性の喪失」であった。そのことを象徴的に表すものが、「占領軍」からそのまま「駐留軍」となり、他の同盟国(たとえば、同じ敗戦国ドイツ)においても考えられないほどの「特権」を享受できることになった「米軍」の存在であり、また朝鮮戦争の最中に米国の強い圧力によって生まれ、その後、米軍の強い「監視」下でアジア有数の「軍事力」を持つまでに育てられた「自衛隊」(その前身としての「警察予備隊」および「保安隊」)であった。そして、日本外交の不在(「戦略的思考の停止」)と経済面での過大な対米依存、米軍の補完勢力で今なお「憲法違反の存在」である自衛隊の姿といった形で講和50年となった現在でも続いている。

もう一つの負の遺産である「アジアの忘却」は、いうまでもなく、戦争責任および戦後責任の放棄である。日本は、上述した米国の政策転換によって、戦前の最高指導者であった昭和天皇や岸信介元首相などの一部のA級戦犯が「免責」されたばかりでなく、(講和会議に臨んだ米国の強い意思で)当然行うべきはずであった賠償責任さえも負わずにすむという「幸運」に恵まれた(朝鮮戦争やベトナム戦争での「特需景気」も加えることができる)。しかし、この結果、戦後の日本は、「侵略戦争」や「植民地支配」への真摯な反省・謝罪と被害国・被害者に対する国家および個人レベルでの適切な賠償・補償という最も大切な「けじめ」をつけることなく、今日にいたるまで重大な禍根を残すことになった。いまだにアジアの多くの国々やその地域の人々から「不信」と「警戒」の目でみられ、本当に信頼され尊敬を受ける国になることができない根本原因が実はそこにある(ここでは東京裁判で、米国が行った「原爆投下」や「東京大空襲」などとともに、日本軍が行った「細菌戦」・「人体実験」や「従軍慰安婦(戦時性奴隷)」などといった重大な戦争犯罪が「断罪」されなかった事実には触れない)。また、講和条約によって日本が「独立」したあとも米軍の過酷な「占領」下におかれ続けたばかりでなく、72年の「本土復帰」(「核密約」付!)後も、過重な基地負担に苦しむ「沖縄(琉球)」の人々の声に真摯に耳を傾けようとしない日本政府(および米国政府)の原点もがここにあることはいうまでもない。

 冷戦後の日本は、これまでの「負の遺産」を克服するチャンスを与えられたにもかかわらず、その選択は、新ガイドライン・周辺事態関連法による日米同盟の強化による、北朝鮮および中国の敵視・封じ込めという、きわめて危険なものになりつつある。21世紀にまで「負の遺産」を残すことになるこうした選択ではなく、今こそわたしたちは、これに代わる、“押しつけられた”安保・再軍備からの脱却というもうひとつの新たな選択を考えるときではないだろうか。それは、失われた選択、すなわち平和憲法に基づく「東洋のスイス」たらんとする道であり、「アジア(および沖縄)との共生」を実現する道であろう。

2001年10月2日

                             木村 朗

※ お久しぶりの平和コラムです。今回のコラムは、実は、もっと早い段階でアップする準備をすすめていましたが、9月11日の「米国同時多発テロ」事件の発生でかなり遅れてしまいました。次回は、あまり遠くない時期に「米国同時多発テロ」事件をテ−マにコラムを書く予定です。

   

 

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Composed by Katsuyoshi Kawano ( heiwa@ops.dti.ne.jp )