木村朗国際関係論研究室
コラム・バックナンバー

Last Update :02/22/04

 

 

No.43

 

TITLE:「何のための有事法制か 
−"備えあれば憂いなし"は"攻撃は最大の防御"の裏返し−」
DATE:04.22. 2002 

      

「今なぜ有事法制か」という問い(前回のコラムを参照)は、「何のための有事法制か」という問題に直結する。小泉政権は、次の二つの論理(「軍事(あるいは「国家」、「権力」)優先の論理」「力による平和(「安全」というよりも「支配」、あるいは「覇権」という「秩序」)の論理」)によって有事法制を正当化しようとしているが、はたしてそれは説得力を持ち得るのだろうか。「全面的に否」というのがわたしの結論である。

 

先ず最初は、「備えあれば憂いなし」という言葉によって示される一つの論理である。小泉首相は、「平時から最悪の事態に備えて国民の生命と安全を守るのが国家指導者の責任である」という脈絡でこの言葉を使って現時点で有事法制を整備する意義を強調している。しかし、この言葉は本当であろうか。本来、この「備えあれば憂いなし」という言葉は、大震災や大噴火など人間にとって未然に防ぐことの出来ない自然によって起こされる緊急事態に対して使うものであり、人間の主体的な意思と行動で未然に防ぐことが可能でかつ必要な「有事」・「危機」に対して用いるのは明かな論理のすり替えと責任の回避である。

 

いうまでもなく、国家指導者の最大の責務は、平時から「有事」や「危機」を招かないように軍事力ではなく外交によって平和的な国際環境の維持・創造に積極的に努めることである。それとは逆に、平時から不測の事態に備えるという口実で軍事力を増強し準戦時体制・臨戦体制へ移行する準備をすることは、周辺諸国に不信・敵意と警戒心を生じさせ却って緊張関係を激化させることにつながる。日本の準戦時体制・臨戦体制への移行は、相手国にとっては「宣戦布告」とも受け取られかねず、それこそ最悪の場合は本物の「戦争」を招きよせることになりかねないといえよう。

 

小泉首相の真意は、「備えあれば憂いなし」という言葉を「攻撃は最大の防御である」(シャロン・イスラエル首相)という言葉と置き換えれば非常にわかりやすい。つまり、前回のコラムでも述べたように、現時点での有事法制の整備、すなわち「戦時体制」あるいは「国家総動員体制」作りの真の狙いは先制攻撃戦略をとる米軍の軍事行動(=「米国の戦争」)に日本が同盟国として「自動的かつ全面的に参戦」することを最大の目的としており、「平時と有事のグレーゾーン」をさらに曖昧にし有事の拡大と平時の有事化を進めることを意味している。

 

もう一つの有事法制正当化論は、「超法規的行動を防ぐため」という論理である。推進論者の「日本が侵略された場合に、自衛隊が遵法精神に従えば何もできない。逆に、有事法制が欠如したままで、自衛隊がその国土防衛のための行動をとれば違法活動とみなされる。」という主張は、一見したところ説得力がありそうである。だが、こうした主張には意図的な論理のすり替え・飛躍と明かな誤魔化しがあり、到底首肯できるものではない。なぜならば、第一に、「超法規的な存在」である「自衛隊」と「安保条約」を前提にして、日本国憲法が予期していない「国家緊急権」を発動させ、これも同じく憲法が「放棄」したところの「戦争」ができる体制を作ろうとしている点である。

 

この論理の最大の弱点でかつ最も危険なところは、「軍隊」でない自衛隊を「軍隊」として扱い、現時点での政府解釈でもできないところの「集団的自衛権の行使」をなし崩し的に行おうとしている点である。このことは、昨年の9・11対米テロおよび武装不審船事件以降に顕著となった、「警察力」と「軍事力」の同一視、あるいは「集団的安全保障」と「集団的自衛権」の意図的混同という流れのなかで密かに既成事実化しつつある。具体的には、自衛隊の武器使用基準のなし崩し的「緩和」(というよりも「拡大」であり、ROE=交戦規則の制定はその総仕上げ)や制服組の発言権増大とシビリアン・コントロールの形骸化(川邊克朗「忘れられたシビリアン・コントロール」『世界』2002年4月号、参照)、日米軍事同盟のさらなる段階での軍事協力(「防衛協力」とは限らない、「集団的自衛権」を前提とする「真の軍事同盟」)への急速な傾斜に端的に表れている。いうまでもなく、有事体制とは「戦争」ができる体制のことであり、「有事」(すなわち「戦時」)における自衛隊(および「米軍」!)の自由な軍事活動を可能とするためにあらゆる手段で国民や自治体を「動員」し強制的に「協力」させることを意味している(今回の法案で見送られた「民間防衛」は、「国民の避難・誘導」などではなく、まさに「国民動員・住民統制」そのものを指していると思われる)。

 

今回の法案で、「国民の保護」を規定する法案が欠如しているのは、有事法制がそもそも「軍事最優先の法体系」であり、「国民の保護」を目的とするのではなく「私権制限」を可能にすることを最大の眼目としていることを考えれば驚くに値しない。また、今回の法案で、テロ・ゲリラや不審船対策が「有事」「武力攻撃事態」に含まれるとの小泉首相などの当初の強い主張・意向にもかかわらずそれが結局見送られたこと(しかし、すぐにそれらを含めたより包括的な「緊急事態法」に変える準備もすすめられているという)、民間人に対する「罰則」が物資管理命令に拒否した場合のみに限定されたこと、地方自治体への「指示権」があいまいなこと(「代執行」を拒否した場合の「罰則」の有無など)、NHKへの「指示権」だけが盛られただけで民法・新聞・雑誌などにまだ「言論統制」が及んでいないこと(すでに「盗聴法」ばかりでなく、「防衛機密」に関する条項が厳しい「罰則」とともに自衛隊法に規定されており、メディア規制3法案も現在審議中)、で安心するのはまだ早すぎる。

 

現在の状況はまさに「新しい戦前」であり「戦争前夜」となる日はもうそこまで来ていると言わざるを得ない。このような状況のなかで、国民からの強い反発と抗議の声があまり聞こえてこないのはなぜであろうか(特に、マスコミの「沈黙」は異常である!)。わたしだけの杞憂であることを切に望みたい。すでに、マスコミへの権力の統制が始まっていると思われる今こそ、「戦争反対!」、「教え子を再び戦場に送るな!」と声を大にして叫ばなければならない時であると思われる。

 

2002年4月22日

(小泉首相が再び靖国神社公式参拝を行った日に、それを強く批判しつつ)

                          木村 朗

                     

                                 

 

インデックス(平和コラム・バックナンバー)へ木村朗国際関係論研究室平和問題ゼミナール

CopyRight(C)1999, Akira Kimura. All rights reserved.
Composed by Katsuyoshi Kawano ( heiwa@ops.dti.ne.jp )