「地域から平和を考える−県内港湾の非核化運動を中心に−」

                                             木村 朗(鹿児島大学法文学部)

1.新ガイドラインと鹿児島ー霧島演習場での日米共同軍事訓練の狙いー

 今日の日米安保体制は、冷戦期の対ソ抑止(「日本有事」、「国土防衛型」)から地域紛争対処型(「周辺有事」、「海外出動型」)へと大きく変わりつつある。この背景には、「(米国)東アジア戦略報告」(1995年2月)から「(日本)新防衛計画大綱」(同年11月)、さらに「日米安保共同宣言」(1997年4月)へと続く安保「再定義」のプロセスがあり、その具体化が昨年9月の新ガイドライン(「日米防衛協力のための指針」)であった。 また、新ガイドライン策定以来、米軍機・米艦船による民間空港・港湾の頻繁な利用や日米共同軍事訓練のあいつぐ実施という、新たな事態が全国各地で生じている。そして、昨年11月に霧島(姶良郡吉松町、えびの市)演習場で初めて実施された日米共同軍事訓練はこうした動きに連動したものであり、今(第145回通常)国会で審議の中心課題となっている「周辺事態法」を先取りする動きであったと考えられる。 昨年11月5日から15日にわたって霧島演習場で行われた日米共同訓練には、陸上自衛隊第八師団(司令部・熊本)約820人と米海兵隊第三海兵遠征軍(沖縄)約600人の総勢約1,420人が参加し、大型ヘリ・最新式戦車の使用や夜間訓練も含むかなり大規模の実戦的な軍事訓練であった(また、同時平行的に実施された熊本県矢部町の大矢野原演習場では実弾射撃訓練も行われた)。今回行われた日米共同軍事訓練の性格とその問題点を考えるならば、以下の諸点が指摘できよう。まず第一に、強襲上陸作戦を主任務とした「殴り込み部隊」とも言われる米海兵隊と陸上自衛隊との実戦訓練は、単なる「後方支援」を越えた「共同戦闘行為」であり、憲法の禁止する集団的自衛権の行使につながるものである。第二に、「今なぜ霧島なのか」という点では、ポスト冷戦期の日米安保体制下で軍事拠点の重点は東日本から西日本(特に九州・沖縄)へと移行しつつあり、そうした中で、南九州は、沖縄、佐世保、岩国の在日米軍基地を結ぶ新たな軍事拠点(「事実上の米軍基地」)になりつつある、ということである。鹿児島は、すでに米軍機・米艦船による民間空港・港湾(奄美・鹿児島空港や鹿児島港など)の利用回数で全国有数(ここ10年間で第3番目)となっている。また宮崎は、昨年12月に日向灘で行った日米共同掃海訓練によって、すでに九州で陸海空の日米共同訓練を経験した唯一の県となっている。第三に、新ガイドライン関連法案と自治体との関係である。「周辺事態法」では、米軍が民間施設を利用する際に自治体や民間企業が「協力」することを事実上の「義務」とする条文がすでに盛り込まれている。今回の霧島での共同訓練でも、鹿児島空港や高速道路などが米兵や物資(武器・弾薬を含む)の輸送に頻繁に利用された。しかし、地方自治に対する国の優越や民間企業に対する従事命令を主な内容とする「周辺事態法」は、本来住民の安全や人権を守るはずの地方自治法および日本国憲法に明らかに抵触するものである。 以上のことから、今回の霧島演習場での日米共同訓練の目的(結局、最後まで明らかにされなかったものの)が、「周辺有事」、すなわち朝鮮半島での有事への日米共同対処を念頭においたものであったことは明らかであろう。  

2.「非核神戸方式」と鹿児島ー意見広告への取り組みを中心にー

 昨年8月末の北朝鮮による「テポドン」発射事件(軍事ミサイルではなく、人工衛星だと後に判明)を契機に、自前の軍事衛星の保有から米国主導のTMD(戦域ミサイル防衛構想)への参加、そして新ガイドラインの一層の促進と「周辺事態法」の早期制定など軍事力強化を求める動きが急速に強まることとなった。霧島での日米共同訓練は、こうした中で新ガイドライン策定後の最初の日米共同訓練として行われたのであった。 わたしたちは、このような新ガイドライン関連法案の先取りとその既成事実化につながる日米共同軍事訓練による自治体・民間のなし崩し的な軍事的「活用」に対して、いかに対応することができるのであろうか。 霧島・大矢野原両演習場での日米共同訓練の実施に対しては、鹿児島・宮崎・熊本3県などの平和・市民団体が、えびの市で大規模な反対集会・デモ(平和委員会主催の8/23集会には約600人、平和運動センター主催の11/1集会には約7,000人が参加)を行ったり、反対住民を中心に「監視ネットワーク」を結成したりするなどの活発な反対活動が展開された。こうした複数の県にまたがる反対運動のネットワーク化の動きは、それ自体あたらしい平和・市民運動の芽生えとして注目に値するものである。 が、ここでは、そうした反対運動と時を同じくして行われた(自分自身も事務局担当として深く関わった)、鹿児島県内における港湾の非核化運動に関連した意見広告の取り組みを紹介・検討することによって、地域から平和を考えることとしたい。 鹿児島県では、すでに1997年までに県を除く96市町村のすべてが非核・平和自治体宣言や議会決議、陳情・請願採択などを行い、何らかの形で非核・平和の意思を表して いる。またその一方で、すでに述べたように新ガイドライン策定(「日米防衛協力のための指針」、1997年9月)以来、鹿児島県内の民間空港・港湾への米軍機・米艦船の寄港回数も全国的に見ても有数(ここ10年間でみると、いずれも全国で第3番目)となっている。そこで、こうした状況に危機感を抱いていた鹿児島県内の研究者・弁護士・医者など16名が呼びかけ人となって、昨年7月に「錦江湾・鹿児島の海の非核化をめざす意見広告の会」が結成された。  その後、この会が中心となって、個人1口1,000円(団体1口、10,000円)以上のカンパを個人および団体に呼びかけて約4ヶ月間、県内港湾の非核化をめざした活動が行われた。こうした活動のなかには、約10回の呼びかけ人会議や10月23日の非核シンポジウム(講師;西郷衛・元鹿児島市議会副議長、続博治・姶良地区平和センター事務局長)の開催、呼びかけのチラシ(<資料1>参照)やはがきの作成・郵送、呼びかけ人による個人および県内の各平和・市民団体(平和運動センター、原水協・平和委員会、非核の政府をつくる会、日本科学者会議鹿児島支部、コープかごしま、民医連、子供劇場、まちづくり県民会議など)や労組(自治労、県教組・高教組、鹿児島大学教職組、生協病院労組、南日本新聞労組など)への協力要請、新聞社・広告会社・印刷会社との交渉などが含まれている。こうした取り組み・活動の結果、約2,000人の個人および諸団体の協力で総額約285万円の募金を最終的に集めることができ、南日本新聞(1998年12月1日朝刊)および朝日新聞(1999年1月15日朝刊)の計2回にわたって「非核・平和利用を求める県民宣言」を中心とする意見広告(<資料2>参照)を掲載した。ここで、その全文を紹介しておこう。  

「鹿児島県の港湾における非核・平和利用の徹底を求める県民宣言」

  この運動の途中で、1998年9月に霧島演習場で初めての日米共同軍事訓練が実施されたことや、この運動と趣旨を同じくする1998年10月に「鹿児島港における非核平和利用に関する決議」(<資料3>参照)が鹿児島市議会で採択されたこと、1998年11月末に日向灘での日米共同掃海訓練に参加する海上自衛隊艦艇(掃海母艦、掃海艦、掃海艇合わせて22隻など)が志布志港に寄港したこと、1998年12月のアメリカによるイラク爆撃に鹿児島にも1997年に寄港したことがある米強襲揚陸鑑ベローウッドが参加したこと、さらに現在開催されている第145通常国会で新ガイドライン関連法案の審議がなされることなどを考えれば、この意見広告は結果的に(なぜなら、掲載時期が募金集約の関係、あるいは最初の意見広告をめぐる新聞社とのトラブルなどで大幅にズレることになったため)絶妙なタイミングで出されたと評価できる。 その後、「意見広告の会」は、意見広告のポスター300枚の作成・配布を行うとともに、鹿児島県知事および県議会議長への要望書(<資料4>参照)を今年1月21日に提出してその主な活動を終えた。  

  3.地域から平和を考えるー「非核神戸方式」の意義をめぐってー 最後に、「非核神戸方式」の意義を論じることによって、地域から平和を考えることにつなげたい。 周知のごとく、この神戸方式は、寄港を希望する外国艦船に「非核証明書」の提出を義務づけることによって核積載可能艦船の入港を拒否するものであり、1975年に市議会決議(<資料5>)が出されてから今日まで米艦船の神戸港への入港を一度も認めていない、という画期的な成果をもたらしている。いうまでもなく、この「非核神戸方式」が可能となったのは、神戸市が神戸港の港湾管理権を保有しており、またアメリカ政府が「核抑止」論の立場から自国の軍用機および軍艦に核を積んでいるか否かを明らかにしないという政策を一貫してとっているからである。この「非核神戸方式」が、「核の傘」と「非核三原則」の矛盾という日米安保体制のもっとも脆弱な部分を突く性格をもっているだけに、新ガイドライン策定以後、この神戸方式への関心は、賛成・反対双方の側でさらに強まっているのは当然といえよう。 高知県で橋本知事がイニシアティブをとって県議会決議(<資料6>参照)に加えて「条例化」という形でこの方式を導入しようとしているのに対して外務省がクレームをつけたり、昨年5月に政府・外務省からの圧力もあって神戸港へカナダ軍艦が入港した事件(これはあくまでも非核国カナダの軍艦で、寄港地も海上自衛隊基地であったので、「非核神戸方式」が直ちに放棄されたとは思われない)が生じているのも、そうした関心の高まりを示している。 いずれにしても、国是である「非核三原則」と日米安保体制の下でのアメリカにより「核の傘」の提供とは根本的に矛盾しており両立することはできないということ、国家中心の軍事的安全保障よりも人権(すなわち、市民・国民の生命と安全)を最優先する「人間の安全保障」を重視する必要があるということは、最後にここで強調しておきたい。 そのためにも、地域から平和を考え、市民・国民みずからが「自分たちの安全は自分たちで守る」という立場で行動することが重要となってくるであろう。 そして、鹿児島県内港湾の非核・平和利用のための意見広告の取り組み・運動は、もちろん内部に様々な弱点や問題点(例えば、全面広告・名簿掲載ができなかったり意見広告の掲載時期が遅れたことの他に、個人中心の運動をめざしながら団体・組織への依存から脱しきれなかったこと、今最も元気のある女性たちの主体的参加・協力を十分得ることができなかったことなど)を抱えながらも、そうした考え方・行動の一環であったと評価できると思われる。

                           (『自治研かごしま』1999年春季号に掲載)