木村朗国際関係論研究室
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Last Update :01:35 99/01/18

旧ユ−ゴ紛争の背景を考える

 

 ボスニア北西部のビハチをめぐる戦闘を契機に新たな情勢の展開がみられる旧ユ−ゴ紛争であるが、今秋の旧ユ−ゴ訪問の印象も合わせて、その背景について考えてみたい。

 <七年ぶりに見たユ−ゴ>

 今回訪問したのは、スロヴェニア、クロアチア、新ユ−ゴの各首都(リュヴリアナ、ザグレヴ、ベオグラ−ド)であるが、改めて突きつけられたのは、「多民族統一国家であったユ−ゴスラヴィアはすでに崩壊して今や存在していない」という単純な事実であった。最初に訪れたスロヴェニアは、短期間の戦闘で独立を達成したこともあって、戦争のことなどはまるで嘘のように平和で専らEU(ヨ−ロッパ連合)加盟問題に関心が集まっていた。次のクロアチアは、新興独立国家としてのナショナリズムが顕著で、疲弊した経済の建て直しとセルビア人勢力に「占領」されている失地(クライナ地域)回復に余念がないようであった。最後に訪問した新ユ−ゴは、経済的破産状態にもかかわらず治安は予想したほど悪くはなかったが、国際的な経済制裁の全面的解除の実現とボスニアやクライナの民族的同胞への支援の継続というジレンマに苦しんでいるようにみえた。

 <旧ユ−ゴ紛争の最大の原因は何か>

 旧ユ−ゴ紛争が発生してから私の念頭を離れなかったのは、「なぜ民族は殺し合わなければならないのか」という疑問であった。そして、今回の現地での見聞を通じて得た結論は、「内戦の本質は政治的対立であり、民族的対立は後から人為的に作り出される」というものであった。それは、内戦を展開している各「民族」勢力やそれを支援する各「民族」共和国内部で行なわれている激しい権力闘争(例えば、クロアチアにおけるトウジマンとパラガ、新ユ−ゴにおけるミロシェビッチとシェシェリ、ボスニアにおけるイゼトベ−ゴビッチとアブディッチ、という「民族主義」者どうしの対立)やそのための政治的手段となって民族的憎悪の拡大に大きな役割を果たしているマス・メディアの姿に如実に示めされている。また現地の人々が、現在の内戦のことを「汚い戦争」あるいは「メディア戦争」と呼んでいるのは、このような紛争の性格を物語っているものといえよう。

 <今こそ紛争解決のチャンス>

 旧ユ−ゴ紛争のもう一つのポイントは、この問題に対する国際社会の対応であろう。これまでの国際社会の対応は、ある特定の紛争当事者(セルビア人)=悪者という考え方を前提としており、時期尚早の国家承認や一方的な経済制裁、さらに武器密輸の黙認など非常に問題の多いものであった。そして、そのような対応の背景には、スロヴェニアとオ−ストリア、クロアチアとドイツ、新ユ−ゴ(セルビア)とロシア、ボスニア政府とアメリカ、といった特殊な関係があったことは否定しがたい。しかし、最近の米、露、英、仏、独などの「連絡調整グル−プ」による和平案修正の模索やカ−タ−元米大統領の仲介による停戦合意の動きなど国際社会の対応に一定の変化が生まれつつあるのは注目に値する。また、今回の訪問中にザグレヴの国連保護軍(UNPROFOR)本部で明石康国連事務総長特別代表と面会する貴重な機会を得たが、その中で特に印象に残ったのは、「国連はあくまでも中立性を堅持すべきであり、平和執行活動には慎重でなければならない」という発言であった。明石代表が、紛争への対応をめぐって、これまでボスニア政府やアメリカなどからから集中的批判を浴びてきたことを考えれば、この発言の重みがわかるであろう。いずれにしても、今最も必要なことは、三度目の冬を迎えたボスニア内戦でようやく芽生えつつある紛争解決のチャンスを国際社会は今度こそ見逃してはならない、ということである。

木村 朗(鹿児島大学法文学部助教授)

『南日本新聞』(1994年12月30日付)


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