木村朗国際関係論研究室
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Last Update :01:35 99/01/18

「紛争後の旧ユーゴ諸国を見る」

 

今年3月下旬から4月上旬にかけての約3週間、紛争後の旧ユーゴ諸国(訪問順に、新ユーゴ、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴビナ、スロヴェニア、マケドニアの5カ国。新ユーゴは、セルビアとモンテネグロの2共和国、および自治州であったコソヴォを含む)を3年半振りに訪れる機会を得た。今回の訪問の主な目的は、内戦終結後のボスニアとコソヴォ問題で揺れる新ユーゴの実情を自分の目で見て確かめることであった。そこで、以下、上・下2回に分けて、現地の実情を紹介するとともに、民族対立の背景と民族共存の可能性について考えてみたいと思う。

<ボスニア復興の光と影−「戦争」と「平和」の奇妙な共存>

ボスニアでは、ムスリム人、クロアチア人、セルビア人それぞれが支配する3つの地域(サラエヴォ、ゴラジュデ、モスタル東部地区がムスリム人、モスタル西部地区がクロアチア人、パーレ、ルカビッツァがセルビア人)を見て回った。“「戦争」(内戦の傷跡)と「平和」(復興の営み)の奇妙な共存”というのが、全体的な印象であった。

サラエヴォでの最初の印象は、今は砲撃も止んで市電・バスも運行しており(鉄道は一部のみが開通)、思ったよりも治安は悪くなく生活物資も豊富で、ようやく平和がもどって戦災からの復興が徐々にではあるが進みつつあるな、というものであった。しかし間もなくして、こうした印象がかなり表面的であったことに気がつかされた。というのは、大規模な国際的援助を通じたサラエヴォ復興の影で、内戦中に破壊された家屋・建物の多くがいまだに残されており、オリンピック・スタジアム周辺の共同墓地には内戦中の犠牲者の真新しいお墓が数え切れないほど並んでいるという、もう一つの現実があったからである。内戦の傷跡は、こうした破壊された建物や巨大な墓地ばかりでなく、3民族間の相互不信と憎しみ・恐怖といった対立感情として根強く残っていた。また、サラエヴォ以外の地域を見て回って改めて感じたことは、デイトン合意(1995年12月)でボスニア連邦(ムスリム人とクロアチア人)とセルビア人共和国からなる統一国家として出発したはずのボスニアがいまだ統一国家としての機能を果たすに至っていない、ということであった。このことは、3民族が支配する地域間の自由な行き来がまだできないために難民の帰還が大幅に遅れていることや、本来統一通貨であるはずのボスニア・ディナールがムスリム人地区しか通用せずセルビア人・クロアチア人地区ではそれぞれの本国の通貨が使われている(外貨であるドイツ・マルクのみがどこでも通用した)という現実がよく物語っていた。そして、現在かろうじてボスニアが平和と統一を保っているのは、いうまでもなくNATO軍主体のSFOR(平和安定化部隊)の存在であり、もし現時点でSFORが完全撤退したならば、確実に内戦が再発するであろう。ただ、その場合、力関係の大きな変化を反映して、セルビア人共和国の敗北(最悪の場合は「消滅」)となる可能性がかなり大であることだけは指摘できる。

 

<コソヴォ問題に揺れる新ユーゴ−国際社会と経済制裁>

ベオグラードでは、内戦中に課された経済制裁(一部は今日まで続く)による打撃が今なお大きく、不安定な経済・社会状況の中で、深刻化するコソヴォ問題を理由とした新たな経済制裁の実施が大きな話題となっていた。

コソヴォ問題とは、かって自治州であったコソヴォ地域での多数派のアルバニア人と少数派のセルビア人との対立に端を発する問題である。最近では、アルバニア人側が80年代後半からの長期にわたる抑圧に反発する形で、その要求を自治権の復活から完全独立の達成へと強めていた。そして、平和路線をとるアルバニア人指導部(ルゴバ大統領)とは別に、武装路線をとる「コソヴォ解放軍」がその活動を去年から今年にかけて活発化させたことで、セルビア人側治安部隊との武力衝突が頻繁に生じるにいたったのである。特に今年3月上旬のセルビア治安部隊の「掃討」作戦の実施によってアルバニア人側に婦女子を含む多くの犠牲者(80名とも言われる)が出たために、一挙に両者の間の緊張が高まり内戦勃発の可能性が取り沙汰されるようになった。その後、国際社会の圧力もあって教育問題では一定の合意が得られたが、それに満足しないセルビア・アルバニア双方の民衆による抗議行動が行われ、また武力衝突も止まずに今日まで繰り返されている。

ベオグラード滞在中にコソヴォ問題をめぐるセルビア人の集会を「見学」する機会があった。学生を中心に一般市民も含めて数百人が参加する大規模なもので、反アルバニアの民族感情丸出しの異様な雰囲気であった。また、その2日後にコソヴォの旧州都であるプリシュティナを訪れた。セルビア人側の警察や軍隊の存在が多少目に付いたものの、予想に反して街の雰囲気は落ち着いていた。アルバニア人の指導者たちもやって来るというレストランに行ってみた。そこで印象的であったのは、彼らが、“今となっては独立の実現のみがコソヴォ問題の解決策である”、という点ではほぼ一致していたものの、それを達成する手段・方法(武力か平和か)については意見が明らかに分かれていたことであった。

<民族共存の可能性と国際社会の対応を考える>

これまで見てきたように、旧ユーゴ諸国では、内戦の傷跡が今なお多く残っているばかりでなく、新たな民族対立の種がさまざまな形で生じていた。特にコソヴォ問題は、当初から“ユーゴ紛争は、コソヴォに始まりコソヴォで終わる”と言われていたように、新ユーゴばかりでなく旧ユーゴ地域全体、あるいはバルカン地域全体に関わる大問題となっている。すなわち、コソヴォをめぐるセルビア人とアルバニア人との対立は、最近自立志向を強めているモンテネグロや多数のアルバニア系住民を抱える隣国マケドニアばかりでなく、アルバニア本国やギリシャ、トルコ、ブルガリア等を巻き込みかねない性格を持っている。ここで、先の内戦の愚を再び繰り返さないために、次の二点に絞って指摘しておきたい。まず第一は、“初めに民族対立ありきではない”ことを自覚して一部の過激な民族主義者の扇動に惑わされないことが肝心であり、またそのためには民族対立の原因となる経済的社会的危機の克服に全力を注ぐ必要があるということである。もう一つは、国際社会が紛争を未然に防ぐために本当に必要な「介入」のみを行う体制を早期に作り出すことが求められていることである。より具体的には、セルビア悪玉論を前提とした一方的経済制裁や武力行使では問題解決は困難であり、国際社会はより公平・中立な立場からこの問題にアプローチしなければならないということである。そして、現在検討されているようなNATO主導の武力制裁が正当化されるのは、こうした原則に基づいた場合のみであるといえよう。

『南日本新聞』(1998年7月24日、25日付)


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