♪セントルイス・ブルース♪

『St. Louis Blues』とは?

ブルースの父”と呼ばれているW.C.ハンディ - William Christopher Handy -が1914年(40歳)に作った曲です。(作詞もハンディ)

サッチモことルイ・アームスロングをはじめ、多くの人に多様なアレンジで演奏され、世に出てから1世紀になろうとする現在も世界中の人々に愛されている音楽です。

またこの曲は、いろいろな作曲家にも影響を与え、Kumikoの大好きな、ジョージ・ガーシュインの『ラプソティ・イン・ブルー』はこの曲をヒントに作られたそうです。


主な演奏家

ルイ・アームストロング:『セントルイス・ブルース』と言えば、この人!

グレン・ミラー:映画『グレン・ミラー物語』にこの曲にまつわる感動的なエピソードが出てきます

ハービー・ハンコック&スティービー・ワンダー:1998年グラミー賞受賞!

林屋木久蔵:落語家の木久蔵さん、『いやん、ばかん、ウフン、・・・』で有名です???


曲の生まれた背景


この曲は、長い放浪生活の中で、さまざまな黒人労働歌や黒人霊歌を耳にし、楽譜に書き写してきたハンディが「人生で一番つらかった」というセントルイスでの生活と、その時に施しを受けていた黒人娼婦の呟きから生まれた歌だそうです。

詳しくはNHK『世紀を刻んだ歌2 』よりをご覧下さい。

W.C.ハンディとは?

ウィリアム・クリストファー・ハンディ - William Christopher Handy -

<ソングライター、バンドリーダー、ピアノ奏者>

名曲『セントルイス・ブルース』の作者として知られるハンディは、初めてブルースを楽譜にして出版したりレコーディングを行いました。
そして、ブルースを世界中に広めた功労者として、“ブルースの父”と呼ばれています。


代表作: "St. Louis Blues" "Beale Street Blues" "Ole Miss" "Yellow Dog Blues" など


豆知識

メンフィスには、彼の名にちなんで名を付けられた公園があリ、そこには彼の像が立っています。
ブルースのアーティストにとって、最も栄誉ある賞は、彼の名前が付けられたThe W.C. Handy Awardです。
ハンディは、デューク・エリントン(Duke Ellington)とともに、アメリカ合衆国の郵便切手になっています。

ハンディ年表
AMG All Music Guideを元として、様々なサイトを参考に、ハンディの年表を作成してみました

1873年11月16日
南部のアラバマ州フローレンス生まれ(同州 Muscle Shoals生まれ説あり←"AMG All Music Guide"より)
  • 牧師だった父は彼を教師にしようと文字を教え、教会の手伝いとして賛美歌を演奏させるために楽譜の読み書きを教えた。しかし毎日のようにオルガンを演奏したハンディは、音楽への想いが強くなる。ハンディが大きくなってからは、音楽で生計を立てることを嫌い、意見が対立。ハンディはトランペットを持って家を出る。←NHK「世紀を刻んだ歌2」より
1896年(23歳)
Mahara's Minstrelsのディレクターになり、ラグやポピュラーダンス・ナンバーなどを演奏する。
  • 黒人ミンストレル・ショーに参加して以来、プロの音楽家となり、じきに大編成のパレードバンドの指揮者にもなった。阪口忠義:「How "Jazz" was originated」より
  • ミンストラル・ショーとは⇒黒人に扮した白人の司会者と芸人たちが演じる、おどけた対話と歌曲、舞踏からなるミュージカル演芸(19世紀にアメリカで広まった)
1800年代後半〜1900年代前半
南部を演奏して回る。
  • 友人とブラスバンドを結成し、放浪生活をする。その間に、各地で出会った、労働歌(注1)や黒人霊歌を楽譜に書き写していた。(後に、これらがブルースの元となる)←NHK「世紀を刻んだ歌2」より
  • セントルイスにたどり着いたときに、遂に一文無しになっていた。人生で一番辛い時期で、橋の下で野宿をしながらいろいろな人に施しを受けていた。その頃お世話になった黒人娼婦の呟きと、各地で黒人達が歌っていた歌が『セントルイス・ブルース』の元となる。←NHK「世紀を刻んだ歌2」より
1903年(30歳)
W.C.ハンディがミシシッピ州タトワイラーの駅で、黒人の男がポケット・ナイフを使ったスライド・ギターを弾きながら唄う“今まで聴いたなかで最も風変わりな音楽”を耳にする〜ブルーズに関する最も古い記録のひとつ

五十嵐 正:「日本におけるブルースの受容/聞かれ方」より

1912年(39歳)
世界で初めて、ブルースの楽譜を出版(Menphis Blues)
1914年(41歳)
St.Luis Bluesを作曲、出版(後々まで米国歌なみに大ヒット)
  • 『セントルイス・ブルース』が世界に広がっていった背景には、戦争がある。黒人の部隊の楽団が好んでこの曲を演奏した。←NHK「世紀を刻んだ歌2」より
  • そして40歳の時に書いた『セントルイス・ブルース』は彼の名声と富を確実にした作品である。この曲はストラヴィンスキーやオネガーといった近代音楽の作曲家にも影響を与えた。ジョージ・ガーシュインはこの曲にヒントを得て『ラプソディ・イン・ブルー』や『ポーギーとベス』のようなシンフォニーを作ったと語っている。=ゥ阪口忠義:「How "Jazz" was originated」より
1917年(44歳)
ニューヨークで彼のMemphis Orchestraとレコーディングをする


1922年〜1923年(49〜50歳)
1922年に、彼自身のレコード会社the Handy Record Companyを創設(後に倒産)し、1923年までに彼自身のバンドとレコーディングを行う

1920年代後期〜30年代
ハンディは眼のトラブルで多くの仕事は出来なかったが、たくさんのオーケストラと演奏を行う
  • 1937年 グレン・ミラー『セントルイス・ブルース・マーチ』を作曲。第2次世界大戦中、アメリカ軍の正式な行進曲として採用←NHK「世紀を刻んだ歌2」より
1938年(65歳)
自叙伝"Father of the Blues"を書く&カーネギーホール(Carnegie Hall)で、トリビュートコンサート(tribute concert)が開かれる

1942年(70歳)
事故で失明
  • その頃、ハンディにとって生涯の宝物となるレコードを手に入れる。それは、日本の硫黄島の洞窟で発見された日本兵が持っていた日本語のセントルイス・ブルースだった。ハンディは、このレコードは、人種や国境を超えて『セントルイス・ブルース』が愛された証拠として大事にしていた。←NHK「世紀を刻んだ歌2」より
1956年(83歳)
ジャズのルイ・アームストロングとクラシックのレナード・バーンスタインが同じ舞台にたって、『セントルイス・ブルース』を演奏。前の席に座って涙を拭くハンディが映し出される。(ハンディ最後の映像)
NHK「世紀を刻んだ歌2」より

1958年3月28日
NYで死去。享年84歳。
  • 1958年 映画"St. Louis Blues"が公開。ナット・キング・コール主演

注1
何処の国にも仕事の歌というのは存在する。それは仕事の能率を良くする為に、或いは労働の苦しさを紛らわせる為に唄われる。奴隷として苦役に耐えた、アメリカの黒人達も独特の「ワークソング」を持っている。ミシシッピー河で黒人奴隷は綿の包みを船に積み込みながら歌を唄った。また、西へ伸びてゆく鉄道の建設に従事した労働者は窄岩の歌を唄った。
阪口忠義:「How "Jazz" was originated」より

参考サイト


AMG All Music Guide

阪口忠義:「How "Jazz" was originated」
「第一章 ラグタイムの周辺 第四節 ラグタイムの素材」より
早稲田大学ニューオリンズジャズクラブOB&古くて新しいジャズのホームページ

五十嵐 正:「日本におけるブルースの受容/聞かれ方」
特別企画講義:「ポピュラー音楽と日本人」:1999年第9回より


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