♪セントルイス・ブルース♪

NHK「世紀を刻んだ歌2より

先日、NHKの「世紀を刻んだ歌2」という番組で『セントルイス・ブルース』を取り上げていました。

この番組のコンセプトは「誰もが知っている20世紀の名曲、その知られざるドラマや時代との深い関わりを描くドキュメンタリーシリーズ。真に優れた楽曲のみが持つ力を浮き彫りにし、人間と音楽との深い関係を描く。」というものです。

NHKならではの綿密な取材を元に、名曲『セントルイス・ブルース』がどのように世界中の人々に広まっていったかという観点で作成されており、とても興味深いものでした。

『セントルイス・ブルース』をより深く知るために、番組内容について抜粋してご紹介をしたいと思います。


NHK-BS
  BSスペシャル 世紀を刻んだ歌2

「セント・ルイス・ブルース」 −奏でられた5つの憂鬱(うつ)−

【出演】ピーター・バラカン,谷啓

2002年4月9日 BS2にて放送


主な番組内容

曲の誕生から約1世紀に渡り、国境や民族を超えて世界中のミュージシャンに演奏されている『セント・ルイス・ブルース』。
2002年1月現在、その録音回数は1500を超えている。
なぜこの曲がそれほどまでに人々の心を捕えたのか?
数多くの録音の中から、5枚の『セント・ルイス・ブルース』に焦点を当ててその秘密を解き明かす。


1枚目 W.C.ハンディ 『セント・ルイス・ブルース』 (アメリカ)
<黒人の悲しみ、そして誕生 −W.C.ハンディ盤−>
  • ハンディは、アメリカ南部アラバマ州フローレンスで生まれる。
  • 牧師だった父は彼を教師にしようと文字を教え、教会の手伝いとして賛美歌を演奏させるために楽譜の読み書きを教えた。
  • しかし毎日のようにオルガンを演奏したハンディは、音楽への想いが強くなる。
  • 父の反対を受け、家を出たハンディは、友人とブラスバンドを組み、仕事を探しながら放浪生活をするが、当時は黒人差別が強く、なかなか仕事をもらえなかった。
  • 放浪中、各地で耳にした黒人たちの歌を楽譜に書き写した。
  • セントルイスに着いたときに、ついに無一文になったハンディは、黒人たちに施しを受けながら生活をした。
  • その後、セントルイスを離れ、小さな楽団の指揮者になり、その時に『セント・ルイス・ブルース』を作る。
  • 『セント・ルイス・ブルース』を世界に広めたのは戦争だった。
  • 1917年第1次世界大戦に参戦したアメリカ軍に黒人だけで編成された部隊があった。
  • 米国陸軍第369歩兵連隊で「ハーレム・ヘル・ファイターズ」と呼ばれていた。
  • 激戦地に送られたこの部隊は特別に楽団を作ることを許され、彼らが好んで演奏したのが『セント・ルイス・ブルース』だった。
2枚目 チャーリー・オーケストラ 『セント・ルイス・ブルース(停電ブルース)』 (ドイツ)
<国民受信機と停電ブルース −チャーリー・オーケストラ盤−>
  • 1937年、グレン・ミラーの『セント・ルイス・ブルース・マーチ』がアメリカ軍の正式な行進曲として採用。それと同時に敵国ドイツでは黒人が作り、アメリカ文化の象徴となるジャズを徹底的に弾圧する。
  • しかし、ナチスが国民を情報操作するための道具として開発し普及した小型ラジオ(国民受信機)の角度や周波数を変えると、アメリカやイギリスの放送を聞くことができ、ジャズを愛する人は隠れて聴いていた。
  • その国民受信機から流れた『セント・ルイス・ブルース・マーチ』に衝撃を受けたジャズマンの一人エミール・マンゲルスドフは地下に隠れて演奏し、限られた聴衆に向けて『聖ルートヴィッヒ・セレナーデ』と曲名を変えて演奏した。
  • クラシックばかり聴いていたナチスの秘密警察の検閲官はジャズがどういう音楽か知らなかったため、英語の曲名さえ変えればジャズと気づかれなかった。
  • 同じようにナチスの占領下にあったヨーロッパ各国で『セント・ルイス・ブルース』は、『青いルートヴィッヒ(ドイツ)』『ザワークラフト(オーストリア)』『聖ルイの悲しみ(フランス)』と名前を変えて演奏された。
  • 別のジャズマン、フランツ・テディ・クラインディンはナチスの宣伝のためにジャズを演奏することを命じられた。
  • ドイツ軍に徴集されナチスの軍楽隊にいたフランツは、『セント・ルイス・ブルース』の人気を逆手に取り、歌詞を敵国イギリスをからかう内容に変え、ジャズファンを愚弄する目的で『停電ブルース』と呼ばれたその曲を演奏させられた。(バンド名はボーカルの名前チャーリーをとって、「チャーリー・オーケストラ」となった)
3枚目 ココ・シューマン 『セント・ルイス・ブルース』 (ドイツ)
<ユダヤ人強制収容所でのジャズ −ココ・シューマン盤−>
  • ジャズを弾圧していたナチス政権下にあって、ナチスに許されてジャズを演奏できる不思議な状況にいたジャズマンがココ・シューマンである。
  • 母がユダヤ人、父がドイツ人のココは、ナチスのユダヤ人迫害によって逮捕された。
  • ココが送られたテレジン(ユダヤ人強制収容所)は特殊な役割を与えられた収容所だった。
  • ナチスがユダヤ人虐殺の事実を隠すためにモデル収容所とされたところで、ユダヤ人にこんな快適な暮らしをさせていると世間に伝えるために楽しげな労働・スポーツ・ジャズバンドなどを許可し、それを報道した。
  • そこでココは『セント・ルイス・ブルース』を演奏し、大人気だった。
  • 大事なパンを交換してでもその入場券を欲しがったのは、アウシュビッツ行きを知らされている人々だった。
  • 1944年ソ連軍によって解放されるまで、テレジン強制収容所に送られたユダヤ人は13万9654人。その中で生きて収容所を出られたのはココを含め、たった1万6832人であった。
4枚目 エディ・ロズナー 『セント・ルイス・ブルース』 (ロシア)
<冷戦中の肋骨レコード −エディ・ロズナー盤−>
  • 第2次世界大戦前、「東欧のパリ」と謳われたワルシャワは、西ヨーロッパの流行がいち早く伝わり、特にジャズは熱狂的に受け入れられていた。
  • そのワルシャワに、1929年アメリカのジャズ大会で1位のルイ・アームストロングに続き2位をとったジャズマン、エディ・ロズナーがいた。
  • エディ・ロズナーはドイツのポーランド侵攻から逃れソ連に来たポーランド人で、「白いアームストロング」と呼ばれた。
  • ソ連で熱狂的に迎えられ、ソ連中を演奏して回っていた。
  • ある日、軍部から呼び出しがあり、誰もいない真っ暗な劇場で『セント・ルイス・ブルース』を演奏。すると、どこからともなく拍手が聞こえ、後にそれがスターリンであったことがわかる。
  • その後正式に要請があり、ソ連中の軍隊の前で慰問コンサートを行うようになり、特別な待遇を受ける。
  • しかし、第2次大戦後、冷戦の始まりとともに、米ソ関係が悪化し、ジャズを指示していた共産党は180度の転換をする。
  • 身の危険を感じたロズナーはポーランドへ脱出をはかるが国境付近で逮捕。シベリアに送られ9年間強制労働に従事する。
  • その間、ジャズのレコードは徹底的に破棄されるが、ジャズを愛する人々はレントゲン写真で「肋骨レコード」と呼ばれたレコードを作り出す。
  • 持っているのが見つかれば即逮捕なのだが、このレコードは200万枚も作られた。
  • ロズナーは、スターリンの死後1955年にシベリアから開放。18年後71歳の時アメリカへ亡命するが、一度も演奏することなく4年後に生涯を閉じた。
5枚目 川田義雄 『浪曲セント・ルイス・ブルース』 (日本)
<孤島に響く、禁じられた歌 −川田義雄盤−>
  • 70歳の時に事故で失明したハンディの元に、生涯の宝物となるレコードが届けられる。
  • それは、日本の硫黄島の洞窟で発見されたレコードで、日本兵が持っていた日本語のセントルイス・ブルースだった。
  • 太平洋戦争末期、アメリカの総攻撃を受けた硫黄島は、激戦の後アメリカ軍に占領された。壕内には遺体と遺品だけが残っていた。その中にこの一枚があった。
  • 誰が持っていたか不明だが、敵国の音楽として禁止されていた音楽だった。
  • ハンディは、このレコードを聴くのが大好きだった。
  • 今でも孫たちによって大切に保管されているこの曲を、ハンディは生涯大事にし、子供たちにこう言い遺した。「これは、敵も味方もなく同じ歌が聴かれたことを物語るかけがえのない一枚なのだ。」と。
最後に
  • 1956年(ハンディ最後の映像) ニューヨークの劇場で、ジャズのルイ・アームストロングとクラシックのレナード・バーンスタインが同じ舞台にたって、『セントルイス・ブルース』を演奏している。その歴史的な演奏を前に、観客席に座って涙を拭くハンディが映し出されている。


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