10.ようやく理解した吉宗と、理解していた大岡越前

1.なぜ吉宗は方向転換を行ったか?

 倹約と農業生産促進という伝統的なやりかたで、幕府財政の回復を図ってきた徳川吉宗。その結果幕府の財政事情は好転しました。

 しかし、その犠牲となったのは武士、そして農民でした。

 なぜならば、貨幣流通量が増えないにもかかわらず、米が増産されれば、当然貨幣に対する米の価値は下がり、「米を売って貨幣を手に入れなければならない」農民と武士、特に武士の収入が減るからです。

 農民は米を10作って10の貨幣が得られたものが、米の価値の低下により10作って9の貨幣しか得られなくなれば実質収入一割減です。

 武士はもっと深刻です。農民は失われた分の1割分生産すれば厳しいながらも何とかリカバーすることもできるかもしれません(とはいえそれがまた米の価値低下に拍車をかけるというジレンマ・・)。
 しかし武士は、給料は○石(○俵△人扶持)と給料は決まっています。その米を売って消費財を入手しているわけですから、米の価値低下はすなわち単なる収入の減少→貧乏一直線となるのです。
 よく武士が傘はりなどをやっている時代劇がありますが、あれはこの頃からなのです。
   「もろともにあはれと思え質屋どの 御身よりほかに知る人もなし」
などは、百人一首をご存じの方ならにやりの落首です。

 さらにこの時期は農業技術の発達や都市化など、文明の発達とともに、さまざまなものを購入するための貨幣の必要性が高まってきていました。
 ですから江戸時代初期より、問題は深刻になっているわけです。

 そのため、吉宗は米の値段を引き上げるため、米の増産に応じた貨幣の流通量の調整(増加)を図らざるを得なくなるのです。

 ここに、享保の改革の大転換が行われます。教科書では「享保の改革」でひとくくりですが、経済的にはおおよそ1730年頃から政策が大きく転換するのです(とはいえ「米中心」の軸足は同じですが)

 ちなみに、新井白石以来の政策である「貨幣の金の含有率の向上により、貨幣の信用を回復しようとする」政策は、その結果の「享保金」が良い貨幣であったがために、全鋳造量の1割近くが海外に流出し、「貨幣不足」に拍車をかけたたけです。
 ですから吉宗自身の理想的(復古的)政策が失敗したこことがはっきりしたという皮肉な背景もあります。

2.貨幣流通量の増加政策

 貨幣流通量を増加させるには、当然貨幣を多く発行すれば良いわけですが、現在の紙と違い、生産量に限度がある貴金属はそうそう増やすことは出来ません。しかも吉宗は、新井白石同様に、金貨の中の金と銀の比率を引き下げて貨幣流通量を増やす策には反対でした。

 そこで、まずは1730年、藩札禁止令を解除し、藩札という形の貨幣代替物による流通量増加を図りました。
 しかしあくまでも、いわば「サービス券」のようなもので藩内のみ有効でした。ということは、その取引が藩の中で収まる城下町での商売にはそれなりに有効ですが、藩外での取引が必要なケースさらに大阪や江戸といった都市部の武士(旗本・御家人)にはほとんど影響はありません。

 しかも、藩の財政が「黒字」であれば、藩札を発行した余剰の貨幣が大阪や江戸の市場に回ってくるでしょうが、現実には藩札は「赤字補填」で発行されたため、肝心の都市部には回ってこないのです。

 よって流通が全国規模となっている享保期ではあまり効果がありませんでした。

 なお、藩札は求められれば金にして返す必要があります。当面返さなくても良い「信用創造」を考えるのであれば、大名家を取りつぶすことや転封も容易にできません(発行者が突然になくなると言うことになるのでこれはあり得ないから)。

 ですから100年後、天保の改革での上知令反対は、藩札の紙屑化をおそれた農民が一大勢力であったのです。幕府の大名統制の一つであった転封改易の権限を「藩札」という観点から幕府が自ら縛ってしまったと言えます。

 余談ですが、忠臣蔵で「赤穂藩お取りつぶしで城下町が大騒ぎ」というのは、要は藩札が紙屑となり兼ねない、という理由も多分にあったのです。
 時代劇だと「殿様が・・」なんて感情的な面ばかり強調されますが、実はそういう経済的な面と直結していたからですね(ちなみに赤穂藩は塩の販売でそれなりに儲かっていたので、藩札はある程度の額で換金されました。大石内蔵助の実力は本来こういうところで見ることができます)。

 話はそれましたが次は貨幣政策です。

 吉宗は次に、比率は同じでもサイズが小さいという事で評判が悪く、1719年に通用停止になっていた宝永金の使用も1730年から認めるようにしました。これは金と銀の「比率」を慶長金の比率から崩したくない、しかし少しでも貨幣の流通量を増やしたいという理由ですが焼け石に水でした。

 そこでついに1736年、大岡忠相、荻生徂徠(おぎゅうそらい)の建議により、貨幣における金銀の含有率を減らした、元禄時代並の貨幣改鋳を行います。すなわち、「元文金銀」の発行です。
 吉宗自身が否定し続けていた貨幣価値の引き下げ(金銀比率の引き下げ)についに踏み切ったのです。

 このことは、「理想」は大切ですが、政治家は状況に応じ、その旗を降ろし、対応していかなければならないこと、そしてそれを実行した吉宗はやはり大政治家であったことを示しています。吉宗と白石の違いはそこにあるわけです。

 この「元文金銀」の改鋳については、元文金165両と享保金(正徳金)100両を、元文銀15貫と享保銀(正徳銀)10貫(銀は秤量貨幣=重さで取引する貨幣なので、「貫」という「重さ」(質量)の単位です。念のため)を交換するという方法を取りました。
 要は、交換するだけで1万円が約1万5千円になると言うわけです。プレミアを約1.5倍付けてまで良貨である正徳金銀、享保金銀の回収を図ったのです(回収した金銀をもとにさらに貨幣を発行する)。

 これは、元禄時代の交換方法でお決まりの「出目収入」(品位が落ちた金貨と品位が良い金貨を「等価」で交換することによってその差額を幕府の収入にする)は考えていなかったということで、純然たる通貨量増加の政策、すなわち多くの金銀を回収してその品位を落として再発行し、その分の通貨量を増やすという政策なのです。
 (だから清廉な吉宗も納得したのでしょう)

 もちろん、幕府はそこは抜け目がなく、1:1.65で、品位を3割(1:1.3)に落とすと当然損しますので、その分「大きさ」(重さ)を小さくして、プレミア分の損をしないようにしていました。
 
 プレミアを付けたため、この交換はわりと順調に進み、貨幣量を増やすという政策目標は達成し、また物価上昇という目標も達成しました。

 しかし、これは、急激なインフレーション(物価上昇)となって市民の生活を直撃したのでした。


3.年貢増徴

 享保の改革前半の中で出てきましたが、吉宗は「米を市場に出さない政策」は引き続き続けます。
 1730年以降も、1731年の大名に対する買米奨励、1735年の米価低落防止のため「米の最低価格」の設定、関東8カ国に対する白米の江戸輸送の禁止などです。

 このように米価を上げることに腐心した理由は、吉宗は結局年貢増収以外に収入増の道はないと考えていたからです。

 ここで、一人の人物に登場していただきます。
 その人の名前は知らない人がほとんどでもその人が言ったセリフは誰もが聞いたことのある人物。勘定奉行神尾春央(かんおはるひで)です。

 そしてセリフ「百姓とゴマの油は絞れば絞るほど出るものなり」 

 「名君」は、「江戸時代=農民を抑圧していた時代」を象徴すると教科書などで言われていたセリフを言う人物を登用していたわけです。

 彼は1737年以降勘定奉行として年貢増徴の指揮を執りました。

 具体的な年貢増徴策としては、まず「有毛検見法」の導入です(これまでの「検見法」といわれるものは「畝引検見法」といわれるものです)。
 実はこれが最強最悪の年貢徴収法で、教科書でよく「最悪」といわれる定免法などとも比較になりません(実はこれを知っているか否かで日本史教師のレベルもわかります)。

 内容をご説明する前に、ここで年貢の取り方の違いについて、もう一度整理してみます。

 江戸時代の徴税法は根取検見法です。これは、検地によってその田の標準収穫量を公定し、これを課税対象の基準としたものです(これを石盛と言います)。
 そして、この石盛に年貢率(その年の実り具合をチェックして決定、これを「検見」と言います)を乗じ、年貢を決定します(根取)。
 これが基本的な年貢米徴収の考え方です。
 簡単に言いますと、年貢=課税標準×実り具合、というわけです。

 そして、不作時には不作の畝に応じ、割引(畝引)をするという畝引検見取法が一般的でした。

 しかし、生産量が上昇すると、元々の評価額が低い(課税標準が生産力の低い時代に決めたものである)ため、生産力を上げればあげるほどその分農家の収入となり、現実とあわなくなってきました。
 また、農業技術の発展により、早稲、晩稲などが生まれてくると、検見の時期まで待っていられない(米の収穫時期を逸したり、そもそもまだできていなかったり)という問題もありました。

 そのため、過去数年の平均を取る定免法が生まれました。もちろん、凶作時には減免措置がありました。
 凶作時は苦しいですが、役人のチェックを受ける手間が省ける上、豊作時は臨時収入、となるわけです。
 そのため、わりとすんなり受け入れられ、もめるときは「農民に便利にしてやるんだからついでに年貢率アップ・・」と領主側が考えたくらいでした。

 しかし、享保期に導入された有毛検見法は、上記の石盛(課税標準)を無視し、毎年の出来に比例してその分持っていくというやりかたです。
 これでは農民に「余裕」は生まれません。農民が「今年は出来が良いから 楽な暮らしが・・」と思っていてもその分もって行かれるわけです。

 いかにこの徴税方式が農民にとって悪夢だったかおわかりいただけると思います。

 しかも、これまで年貢付加の対象でなかった河川敷や山林まで「新田」とみなして年貢対象としました。これらは本来入会地(共用地)であり、現在で言う固定資産税の対象であるはずがないのですが、それをも共用資産として課税したと言うことです。

 神尾は1744年には東海道、畿内を巡視し、年貢増徴の陣頭指揮を執りました。しかし、河内・摂津では検地阻止のため2万人が集結、中止させたなど、大きな争乱を引き起こしました。

「東からかんの若狭が飛んできて野をも山をも堀え荒らしろ」

 神尾若狭守春央が部下の堀江荒四郎(ほりえあらしろう)とともに年貢徴収を強化したせいで山村が荒廃した感じをよく表した落首です。

 このように、強烈な年貢増徴策の結果、その1744年の年貢は江戸時代を通じて最大の収入をもたらしました(180万2855石)。
 ちなみに、その前後も含め二度と180万石代は達成していないので、この年は異常であったということがよくわかります。
 しかし、享保12年、14年を除き、140万台から130万石台であった収入が神尾の勘定奉行就任の1737年いきなり167万石に、以後も150万台〜160万台をコンスタントに記録していることから、彼のセリフは全く嘘ではないことがよくわかります。

 そしてなにより、この強烈な政策が前章で述べた元文改鋳(1736)と歩調を合わせていることも見逃せません。

 そうです。米価がインフレで上がるのを見越して米の収入を増やすということです(好意的に見ればインフレの緩和でしょうが、タイムラグを考えるとそうは思えません)。

 これまでは、米は作れば作るほど価格が下がっていました。
 しかし、これからは、貨幣流通量を増やすことで、米の価格を相対的に上げ、上がった価格を狙って米の収奪を強化し、幕府収入を上げる、ということです。

 いわば、農民を犠牲にして幕府の収入を増やしたと言うことです。

 そしてこのような強烈な収奪の結果、農村は余裕を失い、緊急時に対応できなくなります。
 具体的には、ひとたび凶作になると、耐えきれずに土地を捨てたり、富裕な農民層に吸収され、小作人とならざるを得ず、農民二極分化が進むということです。
 あるいは、農村を捨て、都市に流れ込むと言うことになります。

 このあたりを考えると、享保の改革の後半はあまりにその場限りの短期的視野しか入れていない政策であることがわかります。

 しかし、神尾は1753年に没するまで、ただ加増されているだけでした。このような強烈な収奪を吉宗を筆頭に幕府の方針として認めていたということです。「百姓を絞れれれしぼるべき」と吉宗も考えていたと言うことです。

 そして、享保の改革は「幕府の財政再建」が主眼であり、小石川養生所などに代表される「国民のための仁君吉宗の改革」だけではなかった事が明らかになります。


4.結果

 享保の改革。この時代のみを見る限りでは成功したと言えます。幕府の財政は再建されました。

 そう考えると一面的には確かに成功した希有な改革であり、吉宗の政治家としての手腕は疑う余地はありません。しかし特に後半は「長期的展望にたった改革」では全くありません。

 すなわち、その代償として、農村は荒廃し、豪農と貧農の格差が開き、一揆も頻発し始めたのです。
 それまでの農民一揆は基本的に異常な藩主の異常な政策によるものであり、問題を解決(改易)すれば終わるという一時的なものでした。

 しかし、これ以後は構造的な問題となり、幕藩体制そのものに多大な悪影響を及ぼすことになります。

 そしてどんな理想論者にも貨幣流通量調整等の金融政策はもはや不可欠であることを示しました。

 米経済のみではもはややっていけないことを示したのです。

 にもかかわらず、吉宗が、金融政策があくまでも米中心の経済政策の補完的なものであるとしか理解できなかったため「米将軍」の名の通り、限界を自ら示したのです。
 しかし、その限界を示す代償が、幕府の根本たる米の生産体制すなわち石高制の崩壊につながるものであったとは皮肉なことです。
 そしてその短絡的な成功を狙った享保の改革のツケが、今後幕府重くのしかかるのです。

 幕末に向けた幕府崩壊、その根本は実は享保の改革だったったのです。
  
 全国経済を掌握することで支配権を確立した江戸幕府。しかし経済担当者が「米経済」しか理解できず、新しい経済体制を理解し、構築できない限り、崩壊は確実であったのです・・。

コラム:おもしろ狂歌

 「米高間 一升二合で粥に炊き 大岡(=多く)食はぬたった越前(=一膳)」

 江戸で初めて起こった幕府御用商人高間伝兵衛への打ちこわしに対する狂歌です。
 「米が高くて、銭100文で1升2合しか買えずに粥にしたが、多くは食うことができない、たった一膳だ」と。
 まあ、現実問題としては、1升2合あれば2,3日は持つので、「一膳」というのはオーバーですが、要は大岡越前が米価操作をしていたのを庶民が知っていたということです。

 この打ちこわしはイナゴによる享保の大飢饉がきっかけでおきたので、あくまでも一時的なものでしたが、この狂歌を見ても、大岡越前が町奉行という立場以上に吉宗のブレーンであったことがわかります。

 

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