5.徳川300年を支えた流通構造

1.近世藩域経済圏の成立へ

(1)兵農分離

 豊臣秀吉の兵農分離で、消費者と生産者が明確に分けられたことにより、消費者(武士)は城下町に集まり、大名より給与をもらい消費財を手に入れます。
 一方で生産者(農民)は農村で生産するとともに生産物の売買先として城下町を第一に考えるようになりました。
 しかし、現実には様々な要因から、未だ城下町を中心とした藩域経済圏の確立とまではいっていなかったのです。

(2)関ヶ原の戦い

 教科書では、豊臣恩顧の大名は所領を削減され、家康の軍事的優位が明白となり、征夷大将軍の就任につながったとしか教科書には書かれていません。

 経済的に見た場合、これは全国の3分の1に当たる600万石を自由にできたと言うことで、藩経済を人工的に作るには絶好のチャンスであったといえます。

 もちろん、主眼は譜代大名を東海道筋等に配置し、外様大名を地方へ配置するなどの政策ですが、それとともに要地は抜け目なく天領とし、直轄にしています。

 さらに家臣団ごと移住させることにより、地縁関係の強い家臣を領地から切り離すとともに、逆に地縁を重視した家臣は帰農することとなり、兵農分離を促進する大きな事件となりました。

(3)一国一城令

 一国一城令自体はよく言われているように大名が居城以外のほとんどの城を破壊することで、軍事的拠点を破壊し、大名の反抗力を弱める政策といえます。
 これを西国に特に強く指導している面からも軍事目的であることは間違いありません。

 一方でこの当時、関ヶ原で東軍に味方した大名のうち東北などでは大名と家臣の関係は主従関係というより盟主という考え方が未だ残っていました。
 実際万石以上の領土と城を持つ重臣も存在していたのです。

 こうした場合、経済的には大名と重臣は独立しているといえます。
 その重臣は自身で城下町を抱え、一つの経済圏を築いているというわけです。

 しかし、一国一城令により、軍事的拠点が消された以上、重臣をその地に置いておく意味はありません。
 また、大名は城下町において、家臣の城下町集住のための屋敷地授与や身分による居住地域の整理等をすすめる一方で、城下町に住む商人には地子銭(土地代)を免除するなど、藩の中心としての城下町のまちづくりを行いました。
 その結果、やがて重臣の旧城下町は一つの小市場と化し、経済圏は大名城下町に集約されていくこととなりました。

 こうして藩内は最大市場「城下町」を中心とした経済圏へと進展していくことになるのです。
※小藩については、その城下町そのものが小市場にとどまるものももちろん存在しました。

(4)改易、転封政策

 いわゆる武断政治の代表例として、家光期までは改易、転封がよく行われていました。
 特に豊臣恩顧の大名を中心に、様々な理由で改易が行われました。このあたりは幕府の権力強化のための策として考えられています。

 一方経済的影響を見てみますと、やはり地縁から切り離し、人工経済圏の作成が促進されるという効果をみることができます。
 関ヶ原時の改易・転封が主に西国の大名が対象だったのに対し、ここでは東軍に味方した大大名や譜代大名も対象になったからです。

 こうして大名の居城を中心とした城下町の整備も進み、やがては中世的都市とは異なる新たな藩域経済圏が全国的に形作られたのでした。
 

2.経済力削減政策

 大名が軍事的に屈服したとしても十分な経済力を有する場合は中央勢力に対し独立が可能になります。軍事力により優位を築いたとしても、室町幕府や豊臣政権の例を見るまでもなく、その政権の安定性は低いわけです。
 よって幕府は大名の経済力を奪うことにも力を注ぎました。

(1)金銀山直轄

 大名が金銀山を有している場合、金銀が貨幣である以上、貨幣を自由に入手できるということであり、中央の経済圏に頼らずとも自給自足が可能になります。
 またその分中央政府の財政基盤は相対的に弱いということでもあります。

 豊臣秀吉はそのことを当然承知しており、全国の主立った金銀山を直轄としました。
 家康も関ヶ原の勝利という千載一遇のチャンスを生かし、金銀山を直轄とするとともに、大久保長安を登用し、さらなる生産量の向上を図りました。

 金銀山直轄は領内に金銀山を有する大名の経済的自立を阻止するとともに、幕府の財政基盤を確立するために大きな役割を果たしたのです。

 大名は領内で生産できない物資を入手するためには貨幣を使用するしかありません。ですから採掘により直接貨幣が入手できない以上、自らの領内で生産したものを「領外」で販売することが必要になるのです。
  もっとも、生活物資をそれほど藩の外から入手する必要性が少なければ、それほど大きな市場を領外に求める必要はありませんでした。

(2)夫役

 夫役とは、大名に対し労働力とその費用を出させて、土木工事などを行わせるものです。

 あまり知られていませんが、江戸の町づくりや川の付け替え工事と言った大土木工事は大名たちの手によってなされました。
※ちなみに、昔は日比谷は海で、溜池はその名の通り池でした。

 さらに彦根城をはじめとする幕権維持のために必要な様々な城郭の新築・改築も夫役によって行われていました。

 関ヶ原の直後だけに、徳川家への忠誠を示すという観点、他大名の手前見栄を張らなければならないなどから必要以上に費用を必要としたため、大名たちは経済的に大きなダメージを受けることになります。

 これは豊臣氏も例外ではなく、豊臣氏の財力を恐れた家康は寺社の復興などの名目で蓄財していた秀吉の遺産を使用させ、経済力を削り取っていったのです。

(3)鎖国(貿易独占)

 鎖国については、宗教的要因で語られることがほとんどです。曰く「キリシタンの進入防止のため」。

 しかし、経済的に見た場合、鎖国は貿易による貨幣の入手を原則として禁止するという意味を持っていました。
 貿易というのは非常にうまみを持っており、金銀の入手はおろか国内で多額で取り引きされる珍品の入手も可能にします。

 幕府としては”無用な”貿易を大名に行わせないことにより、大名の貿易による収入を途絶するという意味を持っていましたのです。

 これにより、大名は貨幣を入手するためには自らの領内で生産したものを「国内」で販売することが必要になるのです。
※ちなみに現実的には30年代から老中奉書を要するなど、鎖国完成以前から経済的には事実上の鎖国状態でした
 

3.消費経済へ

(1)初期流通体制

 生活物資を入手するには次の要件が必要となります。一つは生活物資を入手するために年貢(主に米)を売ることができること、もう一つは生活物資が売っているところにおいて貨幣により購入することです。

 当初はそれは京を舞台としていました。京には輸送手段(船など)、倉庫(蔵)を有し、通信手段未発達の段階で情報面でも優位に立っていた豪商(いわゆる初期豪商)がいたからです。彼らは京の最先端の技術を背景にした高級品・工芸品販売など貿易(海外・国内)により高い利益を上げていましたのです。

 そのため、西国は大阪経由、日本海側は琵琶湖経由で物資の流通ルートが形作られていました。

※もちろん東北の太平洋側の各藩は江戸を拠点にもしていました。

(2)流通体制の整備(海上)

 流通体制の整備は経済発展においては必須です。

 早くは角倉了以の高瀬川の開削が代表例で、彼ら初期豪商は京を舞台に海運をメインとした物資輸送路の開拓には積極的でした。

 一方、江戸−大坂間の流通という点では1620年頃から菱垣廻船が活発化し、1627年には大坂に菱垣廻船問屋が成立しました。

 また、1620年頃までに奥州各藩により東廻り航路が、1630年頃金沢藩を中心に日本海側の航路が開かれましたが、おおむねこのころいわゆる三都を中心とした経済圏、すなわち幕藩体制的流通機構が形作られ始めたと考えられます。

 その過程で、貿易統制や大坂商人の台頭により優位が失われ、また大名貸しの不良債権化等もあって、初期豪商は没落していきます。
 京の高い工芸技術を必要としない商品の流通が増加するにつれて京を経由する必要性がなくなっているのです。やがて経済の拠点はその水運の便が抜群によい大阪に移っていくのでした。

<このころからの流通イメージ>
○各国から原料を大坂へ→畿内各地で加工→完成品を大坂へ(大坂から江戸等へ)
※西回り航路開拓までは日本海側は琵琶湖経由京都というのがメインでした。
○畿内各地の商品作物→大坂でとりまとめ→江戸等へ

(3)流通体制の整備(陸上)

 一方街道についても幕府は整備を進めています。
 あまり知られていませんが、街道整備を最初に行ったのはやはり豊臣秀吉でした。徳川幕府は、それを利用しつつ、関ヶ原の翌年から伝馬制度を東海道に設け、順次全国へと広げていっています(1640年頃にはほぼ確立)。
 
 街道の整備により、宿場には規定の人馬が置かれることとなり、人荷の輸送に当たりました。

 このことは宿場町という新たな小市場を出現させ、経済の発展も影響を与えました。

 ちなみに、参覲交代による交通需要増大後は、宿場町付近の農民に助郷という夫役を課し、人馬を補充させるほど荷物の流通量も増大したのです。

(4)参覲交代

 参覲(江戸に出て将軍に挨拶すること。「覲」はお目見えの意味)自体は、関ヶ原直後からでしたが、実は発想自体はこれも豊臣秀吉が最初で、諸大名に上洛を促し、妻子を人質として在坂させていました。

 当初(1620年頃まで)は幕府は参覲を促進するために、参覲した大名には在府料や邸宅の授与、夫役の半分を免除するなど特典を与えたりしました。大名が江戸にいるということはすなわち反乱を起こせないということでもあるわけですから。

 一方で豊臣氏滅亡以降も大名統制の一環として改易・転封政策が進められたこともあり、大名としても幕閣の情報入手と参覲によるご機嫌伺いは重要なことと認識され、結局寛永12(1635)年の武家諸法度で原則1年おきの江戸滞在が義務づけられました。
 教科書ではこれにより大名統制を強化したとされています。

 しかし、この政策の最大の効果はやはり経済的なものでしょう。

 参覲交代は1年領国、1年在府ということですから、旅費もさることながら大量の生活物資を江戸において必要とするとともに、江戸と国元に組織を二つ維持しなければならないなど、様々な経済的出費を強いるものです。

 基本的に旅費及び江戸の生活においては基本的に貨幣を使用するしかありません。

 その結果、幕府の公認貨幣の入手が必要となり、自給自足は不可能となり、藩域経済圏は幕府の経済体制に下に従属するしかなくなるのです。
 

(5)幕藩体制的流通機構の成立

 さらに、参覲交代制度化以降、江戸の生活物資の必要量が増大したため、江戸大坂間では1645年頃酒の輸送を中心にその他雑貨の輸送も兼ねた樽廻船が寛文年間には活発化し、1671年、1672年には幕府の命により河村瑞賢が東廻り航路、西廻り航路を改良しました。

 これらにより日本の物資輸送経路が確立され、結果として三都を中心とした幕藩体制的流通機構は確立したと考えられます。

 教科書ではあまり語られていませんが、この河村瑞賢という人物の功績は江戸時代の経済発展に大きな影響をもたらしました。明暦の大火で巨万の富を得、幕命を受けたとはいえ、公共の利益のために私財を投じたこの人物、伊能忠敬がもてはやされるのなら、もっと名が知られても良いと思いますが・・。
 

4.まとめ

 豊臣秀吉の遺産を継承し、さらに拡充することにより、江戸幕府は「旗本八万騎」を背景に軍事的・経済的両面で大名統制を進めていきました。

 しかし、大名が完全に身動きがとれなくなるのやはり経済的に押さえつけられてからです。
 軍事力は経済力ですから。

 この点は、様々な要因はあるにせよ幕末に参覲交代が事実上消滅し、対外貿易が行われたとたんにたちまち幕府が崩壊へ向かったことが物語っています。

 いずれにせよ幕府を中心とした幕藩体制的流通機構を確立したことで、その後200年の平和な時代が訪れたということになるのです。

 教科書や小説では武力が重視されますが、近世を形作った豊臣秀吉、徳川家康、さらには徳川幕閣の経済的有能さはもっと高く評価されるべきだと思います。

 


 
 

 

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