6.貨幣制度

 つぎはいよいよ悪名高き荻原重秀の登場ですが、その前にこれを理解する上で極めて重要な江戸時代の貨幣制度について少し書きたいと思います。
 江戸時代は「大判」「小判」「一部銀」「銭」など様々なものがあります。
 このあたり、誤解が多いので簡単に解説させていただきたいと思います。

(1)米について
 米というのは通貨ではありませんが、実際には貨幣的な役割も果たしていました。
 例えば、税である年貢は、基本的には米で納めていました。また、武士階級の家臣の給料は米でした(例えば○俵○人扶持などの言い方ですね)。

 しかし、参覲交代などで大名は貨幣を必要としますので必ず大坂や江戸などの米の大消費地に「蔵」をもうけ、ここで米(や特産物など)を保管し、換金していました。
 いずれにしても外国で「君の年俸は麦○キロだ」とか「税は麦○キロ」という言われ方はないわけですから、貨幣的な役割を一穀物が果たすというのは驚くべき事です。
 もちろん充分な貨幣が不足していたという背景があったわけですが・・。
 
(2)三貨制度
 それはさておき、江戸時代の通貨制度は一国のものとは思えないほど複雑なものでした。
 よく「大坂の銀遣い、江戸の金遣い」と言われるように主として貨幣が西と東で異なっていたのです。
 これは、西では石見銀山などにみられるようにがよく取れ、逆に東では金がよく取れたことが原因です。
 それはさておき、そこで疑問をもたれると思います。

・金(小判)1枚と銀貨(一部銀)4枚で交換できるのではないの?時代劇ではよくやって いるよ。
・銭(寛永通宝など)はどうなるの?庶民は銭で生活してたんでしょ?
・大判と小判はどこが違うの?

 これについてはかなりの部分誤解があります。実は、少なくとも江戸時代の大半は、「銀貨」という遣われ方をしていなかったのです。
 詳しくは「銀」の項に譲りますが、銀は「重さ」で図る秤量貨幣として使われていたのです。
 そして、金と銀は変動相場制だったのです。
 つまり、「円/ドル」の相場のようなものが実は江戸時代、大坂と江戸で存在していたのです。

 これはあくまで貴金属の品位という観点でものの取引をしていたという背景からです。
 一方銭は単純に1000枚で小判1枚でした。
 こうしてみると江戸時代は金を基本に下に銭を置き、独立的な立場として銀が存在したということになります。

 ちなみに銀も江戸時代後半〜末期は金を補完する貨幣になりますが、これは田沼意次(川井久敬)の登場を待たねばなりません。というわけで、一分銀を仕事料として持っていく「必殺仕事人」は幕末の話なんです(^^)。

(3)金
 金は2種類あります。大判と小判です。
 まず大判ですが、大判はいわば「贈答用」であり、実際に市中に流通し、使われるということはあまりありませんでした。ですから、基本は小判です。

 小判は、いわゆる「エレクトラム」でした。つまり、金と銀の化合物です。
 江戸時代は文明が遅れていたので、純金が作れなかったという人もいますが、際はそうではなく、1000分の1の範囲で品位を調整し、小判として扱っていたのです。
 
 余談ですが、「試金石」と言うのがありますが、これは、その「試金石」に金などをすりつけて、金の品位を測定するための石を指します。ですから、よくスポーツなどで強豪と対決するとき、「この試合が試金石になる」と言いますが、これはでは「強豪」が石で、対戦する自分たちが金かどうか確かめる、と言うところからきています。

 話は戻りますが、小判は金と銀の化合率によって評価されました。当然金が多い方が品位が高いわけでコストがかかります。一方、金の比率を減らすとそれだけコスト削減となり、幕府としては収入が増えます。これを「出目」と言います。
 金の比率が少ないほど価値は下がるわけですから、その貨幣の評価自体も下がります。ですから、同じ一両でも、価値が違うものが生じるのですね(牛肉の多いビーフカレーと、豚肉の多いビーフカレーで同じ値段だったと考えていただくとわかりやすいでしょうか?)。

 ともあれ、金と銀を混合させる技術は当時の日本の冶金術の高さを示すとともに、政府の貴金属に対する正しい認識を示していたとも言え、世界最高水準だったのです。
 更に言えば、現代経済学のケンブリッジ学派の祖マーシャルは1860年代、「金銀合金による」貨幣を提唱していましたが、そのようなものは古代を除いて存在しないとされています。
 しかし、実は江戸時代の日本に存在していたのです。この点、なぜ日本の学者がこれを語らず、「存在しなかったこと」にしてしまっているのか理解に苦しむところです。日本をことさら賛美するつもりはないですが、事実をきちんと述べないのは学者として間違っていると言えましょう。

 いずれにせよ、この発行時期そして、「金:銀」含有率が「慶長金」「元禄金」など金貨の種類を示すことになります。
  
(4)銀貨
 銀は、4枚で小判1枚と誤解している方が多いのですが、実は秤量貨幣、つまり「重さ」でその価値を計るものです。つまり、銀貨というより銀塊です。
 これは、関西圏で「貴金属としての価値」をより重視して扱ったからに他なりません。この時点では、貨幣は現代でいうところの貨幣というよりむしろ貴金属で、いわば商品の一つだったのです。ですから、単位は重さを示す「匁」なのです。

 さて、この銀は「丁銀」「豆板銀」と呼ばれるものでした。つまり、ある程度大きいモノは丁銀、その調整は豆板銀という小さいもので行うというかたちです。

 ちなみに、「職人芸」の一つとして、「試金石」では偽物が防げない銀は銀貨を作る銀座の「職人」が見た目で銀の外見、折れ目で品位を判断したと言います。そしてそれは大蔵省が明治に科学的に調査した結果と大差なかったそうです・・。恐るべし職人。

 ここで、銀の固まりならなんでもいいの?ということをいわれますが、違います。
 なんと、銀も含有率が1/1000の率で決まっていたのです。例えば慶長銀なら金2、銀792、銅206といった具合です。以前は未熟だったから・・などと歴史家としてはけしからん推測で言われていましたが。もちろんこれも当時の世界最高峰の技術でした。

 このように、銀は重さで量ります。ですから「天秤座」など「しっかりと量る」ための機関、つまり、計量の信頼性を維持するための機関もあったわけです。

 さて関西と関東で、主要貨幣が違うわけですから、それぞれの経済圏で取引を行う場合、「相場」が存在します。大坂が「天下の台所」として経済の中心地であればなおさらです。
 ですから、大坂の銀と江戸の金の交換で「相場」が生じ、時期によってその相場が移りゆく変動相場制が生じたのです。これは、大坂の経済力あってのことです。ですから、大坂がその経済の中心地としての地位を失っていき、そして金による貨幣制度統一を目指した江戸後期では銀は金の下に従属し、重さではなく枚数で金と交換されるということになります。

(5)銭
 銭は庶民のお金です。単位は文(もん)で、基本的には、庶民はこのお金で暮らしていたわけです。
 江戸初期に幕府は質の低い銭に「撰銭令」を出し、質の悪い銭を遣わないように、としていましたが、一般の人は、同じ価値なら質の低いものしか使いません。
 市場での評価が同じならいい物は手元に置き、悪いものを手元から出します。いわゆる「悪貨が良貨を駆逐する」(グレシャムの法則)という奴です。

「きかぬもの たばこ法度に 銭法度 玉のみこえに けんたくのいしゃ(権高の医者)」
 (効(聞)かぬものはたばこ禁止令、撰銭令、天皇の声、威張ってる医者)

 という落首にこれが象徴されています。これが解決されるのは良質の銭貨である「寛永通宝」を幕府が発行してからです。これを幕府は銭貨として発行し続けます。ですから、「寛永通宝」が銅貨の代表例として扱われるのです。

 ちなみに、海外でもこの寛永通宝の評価は高く、ベトナムの通貨「ドン」の起源は「銅」であり、これは寛永通宝の良質を念頭に、自国でそのような良質の貨幣を製造できたため採用した、という説もあります。また、東インド諸島では第二次世界大戦直前くらいまで寛永通宝が使われていました。

 江戸時代の貨幣制度はこれで大まかにご理解いただけたのではないかと思います。米、そして変動相場を含む複雑な三貨制度。これを理解するのは容易ではありません。しかし、危機に瀕した綱吉政権にそれを充分に理解する人物が登場するのです。


 
 
<コラム:それ以外の貨幣的なもの>

 これら以外では「藩札」というものがあります。これはその藩のみで通用するいわば「地方債」でした。こういうのが存在しているところを考えると、それなり地方分権がなされていたのが分かります。


 ただし、注意すべきは、それは時代劇で言うような「○○藩」という土地の藩札ではないと言うことです。
 そもそも「藩」という言い方は江戸時代はなく、「○○様の領土」という扱いです。ですから、○○様が国替えになると、藩札は紙屑になるのです。

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