7.荻原重秀の貨幣政策

(1)元禄時代前の状況
 元禄期にさしかかる前、幕府は「儀式」のための費用や「明暦の大火」などで財政難に陥っていました。例えば、江戸城の天守閣は明暦の大火で燃えてしまったのですが、それ以後再建されることはありませんでした。だから皇居には今も天守閣がないのです。これは、江戸時代の代表的名老中会津藩主保科正之をはじめとする幕閣の意向で「天守閣より民衆救済が優先」とされ、江戸復興のために資金を回したためです。 

 ですから、江戸幕府は、戊辰戦争で敗れたために、あたかも民衆は虐げられ、幕府がその上にあぐらをかいていたかのようなことが言われていますが、実際は多くの時代はそうではなかったということです。

 さて、財政難は元禄期になると更に深刻になります。何故そのようになってしまったのでしょうか。次で見てみましょう。

(2)元禄期の状況
 この時期の幕府収入としては、年貢貿易収入金銀鉱山収入が挙げられます。

 まず金銀鉱山収入です。これははっきり言って、もはや枯渇といった状況でした。よって、大幅な増収どころか、収入が激減の状況でした。
 さらに貿易も日本から「売る」ばかりではなかったので、お金がないと買えません。その結果縮小されます。
 そして年貢。生産高の増加に伴い、年貢は増加しましたが、問題は米の値段が上がらないのです。これは、経済学的には、「デフレ」になっていたのです。なぜなら、通貨の市場流通量が少ないわけですから、米の方が価値が低いのです。
 よって米をいくら作っても通貨量が増えない限り「実際の」収入は増えないのです。
例)簡単に言いますと、米1が1円で買えるとします。米が2で通貨の量がそのままですとになると、米2=1円ですから、米の価値は0.5円になってしまいます。

 しかも、明暦の大火、天災などの臨時支出により、家康が残していた金銀(貯金)を全て使ってしまっていたのです。

 このような状況に更に拍車をかけた要因が2つありました。それは将軍綱吉の浪費と流通機構の整備です。
 綱吉の浪費は、例えば綱吉晩年では幕府収入80万両に対し支出は140万両という恐ろしい数字が残っています。これについては分析も何もないですね・・。

 次に流通機構の整備についてです。元禄期は日本の流通機構が整備された頃です。つまり、貨幣経済が確立された時期というわけです。戦国期の苦しい時代から、民衆も生活水準が向上し、生活必需品以外を購入する余裕ができ、流通が盛んになったため、その取引のため貨幣が必要になったのです。

 以上、幕府は収入を増加させる策をほとんど失い、しかも支出は増える。一方全国経済的には物資は流通し始めた中、貨幣が足りず、結果としてデフレ経済であった、これが元禄期前の状況だったわけです。

(3)荻原重秀とは?
 話は大きく変わりますが、元禄期には、幕府の領地である「天領」について、見直し(検地)が行われ、「世襲」であった徴税人、つまり「代官」も見直しが図られています

 なぜこの時期に検地なのでしょうか?それは、江戸初期と比べ単位当たりの収穫量が増えたのに年貢は江戸初期の収穫高を基準にして設定しているため、それを改正するということです(徴税強化、という意見もありますが、徴税強化というのは税率を上げること、つまり重税を課すことでそれとは異なります。これは収穫量の再申告、いわば「確定申告」する事です)。
 ここで能力を発揮したのが荻原重秀だったのです。
 彼は勘定方のただの役人から能力だけでたたき上げで勘定吟味役(いわば財務省の局長か事務次官)まで昇進しました。身分制度により出世が限られていた中、これだけでも相当の才人であった事が分かります。現代ですらノンキャリアで財務省の局長はありえませんから。 

 彼の目からすれば今の幕府の財政を再建するためには、米の増徴が限界にきている以上、別な手段しかありません。それが、日本初の貨幣政策、出目収入による幕府収入の増加と貨幣流通量の増加によるインフレ経済、すなわち物価の上昇による収入の増加です。 

 この「出目」という聞き慣れない言葉、一見難しいのですが、原理は簡単です。
 前章でご説明したように、江戸時代の金貨・銀貨が金と銀の合金である「エレクトラム」であることがこのポイントなのです。
  つまり、「出目」とは、この「金」と「銀」の含有率をいじる、もっとはっきり言えば、金の量を減らし、銀の量を増やせば、金と銀の価格差によりそれだけ幕府が儲かる、というものなのです。

 この話は実は以前からありました。実際、4代将軍家綱時代も老中土屋数直の反対によって潰れているのです。「邪(よこしま)なるわざなり」としてです。 

 これは小判を貨幣ではなくあくまでも貴金属としてみているところから生じます。つまり、金という貴金属と商品を交換すると考えているからです。貨幣の価値を下げる、つまり金含有率を減らしたら(例えば金8割と言っていたのが金6割しかなかったら)、詐欺、つまり「邪」というわけです。
 
 そうしてみると、江戸時代はこの時期は貨幣というより、貴金属としての価値に焦点が置かれていたということになります。この点は実は近代、19世紀まで世界においても同じです。

 しかし重秀はちがいました。「幕府が出す貨幣であれば瓦であっても紙よりはマシだ」という貨幣=政府の信用に基づく交換品という貨幣の本質を一部k理解していたため、これを断行したのです。
※紙は消耗品であり、手形や藩札のようなものならともかく、流通過程において摩耗等するため物々交換の対象にはならないと考えていたのでしょう。


 そして行われたのが元禄改鋳です。
 簡単に言うと、従来金8割銀2割だったものを金6割にして、従来の2両分を3両としたのです。つまり、1.5倍幕府の収入を増やしたというわけです。

 これを「詐欺」というのは簡単です。しかし、当時は経済の進展に伴う貨幣不足により、デフレであったことを見逃すわけにはいきません。

 前述のように、生産が増大し、モノは増えていたのですが、貨幣が足りません。つまりおおざっぱに言うとモノを作っても、作れば作るほど価格が下がっていったのです。
 これではやっていけません。
 この貨幣ニーズに応える意味もあったのです
※なお、荻原自身がそこまで考えていたかは定かではありません。「たまたま」時代のニーズに合ったとも評価できます。しかし、その後相当悪質な貨幣改鋳を渋っているところを考えると、そのことに全く無知であったとは考えにくいのです。

(4)結果
 元禄改鋳はある程度成功しました。これは幕府権力などだけではなく、実際貨幣ニーズがあったために、元禄改鋳の当初はスムーズに市場に受け入れられたというわけです。一方で出目収入などにより幕府財政の破綻も防ぐことができました。 

 また、副産物として経済成長が(一時期)うまくいったために「元禄バブル」とも言うべき華やかな元禄文化が花開いたわけです。
※芸術はデフレ経済のもとではなかなか発展しません。なぜなら生活必需品ではないからです。生活に余裕が出てきたからこそ芸術に投資する余裕が出てくるのです(バブル経済がそうですね)。ですから、元禄期以前では芸術は徳川家に公認された文化集団「鷹が峰文化村」か、父親の身代を潰して芸術に走った尾形兄弟(乾山、光琳)のような余裕があるところにしか出てこなかったのです。

 しかし、天災や綱吉の浪費を原因とする収入減のため、その後度重なる貨幣改鋳をせざるを得なくなりました。そのため結果として貨幣流通量が必要以上に増加したため貨幣価値が下がり、過度のインフレとなり、物価が高騰し、庶民の生活を苦しめます。

 そして、重秀自身も不正蓄財疑惑があり、失脚後はわずか1年もたたずに変死しています。

 このため、次の新井白石などに極悪人として扱われ、彼の著書「折焚く柴の記」の記述がそのまま教科書などに載り、評価が正当ではなくなるのです。

(5)評価
 荻原重秀が「貨幣」というものの本質をすべて理解していたかは疑問です。しかし、貴金属との物々交換という中世の考え方から、公権力の「信用」という観点を理解していたことは、近代へむけての先駆的な考え方といえます。
 更に、市場の力についても、(経験的なものかもしれませんが)理解していたようです。

 いずれにせよ、「年貢増徴」しか打つ手がなかった幕府に対し、貨幣政策という観点から政策を動かしたことは明らかに彼の功績であり、高く評価できます。

 そしてはっきり言えることは、綱吉という大浪費家の将軍が現れた以上、もし彼がいなかった場合、せっかく保科正之らの尽力で安定したかに見えた日本は政府の「倒産」による社会混乱に陥り、国家として衰退し列強の植民地になるか、戦国時代に逆戻りするか、いずれにせよ良い結果を生んでいたかっただろうということです。     


おもしろ狂歌・落首その4

天が下 二つの宝尽き果てぬ
 佐渡の金山 水戸の黄門

 元禄時代といえば水戸黄門というくらい有名です。
 水戸藩主時代は名君として誉れ高く、また天下の副将軍として、過度の「生類憐れみの令」を諫めるため綱吉に毛皮を献上するなど、硬骨で鳴らすとともに、「大日本史」の編纂開始という日本文化史上の功績をも残しています。

 一方、佐渡金山もこの時期枯渇していました。そのためどんどん深くまで掘ることになり、事故も増えておりました。

 こうした将軍を補佐し、時には直言も辞さない名君の死と、経済面での江戸幕府の柱であった佐渡金山の枯渇を惜しんだ落首です。
 うまいなー、と思いますし、当時の町人はよく知っているな、とも思います。

<コラム:デフレとインフレ>
 デフレとインフレはどちらも限度が過ぎるとよくありません。バブル期がインフレ、今がデフレと考えると、物価があがらない今が本当に良いのか、収入が増えるけど物価も上がり、収入が増えたことを錯覚して浪費する事が良かったのか、どちらもNOであることはいうまでもないことでしょう。
 経済は政府などの干渉ではなかなか止まらないので、消費者一人一人がその動きを気を付ける必要があると思います。

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