8.経済を理解できなかった新井白石
(1)大浪費家綱吉 綱吉の晩年は綱吉の大浪費により、幕府財政は破綻寸前でした。 宝永5年(1708)の綱吉死去の前年の幕府の歳入は60万〜70万両で、歳出は140万両という莫大な額。これが経済政策などであるならともかく、単なる「浪費」ですから正気の沙汰とは思えません。 その内容は、広大な神社造営、「御成」(臣下の屋敷訪問)の際の土産代、「お犬様」への支出、気前の良い加増、学問関係の催し物など、金銭感覚ゼロの将軍綱吉に起因するものでした。 勘定奉行荻原重秀は、前節のように貨幣改鋳により対応してきましたが、度重なる改悪により、貨幣としての信用も失い、また市場の必要以上に貨幣が流通しているため猛烈なインフレとなります。まさに八方ふさがり。そのような状況で将軍に就任したのが徳川家宣であり、その右腕が新井白石でした。 新井白石は、家宣(1709〜1712)、家継(1713〜1716)の二代に仕えますが、彼が主導となって行った政策を「正徳の治」といいます。 (2)新井白石と荻原重秀 新井白石のやったことは、まず徹底的な倹約です。これは綱吉の「見栄っ張り」のせいで出費が異様に増えていたので当然といえましょう。
次に貨幣関係の改革をするため、荻原重秀をあの手この手で罷免を画策しました。しかし、これは「余人に変わる者なし」ということで、将軍家宣が反対し、なかなかうまくいきませんでした。結局不正蓄財を理由に正徳2年(1712年)ようやく排斥に成功します。
さて、白石は失われた貨幣への信用を回復すべく、金銀の比率を「慶長小判」、つまり幕府創設当初に戻しました。 このように、白石は荻原の政策と正反対の政策を採ったといえます。さて、その結果はどうなったのでしょう? (3)経済停滞 貨幣改鋳は、失われた貨幣に対する信用を取り戻すためのものでしたが、実際は、その分の貴金属の「金」が必要となります。例えば6の金で作っていた貨幣を8の金で、作ろうとした場合、金の量がよけいに2必要になります。よってその分金が必要となるのです。 しかし、金がばんばん産出された江戸時代初期と異なり、当時は、前章のコラムの佐渡金山の枯渇に代表されるように産出量も激減しています。ですから発行できる貨幣が減り、貨幣流通量は減少することになります。
また、貿易制限は、貨幣の流出を止めることにはなりますが、そもそも必要であるから貿易を行っているわけで、必要物資が入ってこないということにもなります。貿易制限の経済的悪影響はいうまでもありません。
幸い、数年で新井白石は政治の中心から外れますので、大きなボロが出ませんでしたが、この考え方をおおむね踏襲した吉宗の時代に入り、その問題点が露呈することとなるのです。 |
おもしろ狂歌・落首その4 「万代の亀の甲府が世になりてほうえい(宝永)ことよ民の喜び」 甲府の大名であった家宣と亀のこうらをひっかけ、新しい元号「宝永」と「ほう良い」とひっかけた落首です。 いかに綱吉の時代が民衆を苦しめたか、ということになるのですが、この対象は江戸の落首なので「生類憐れみの令」を指します。思いこみの強い「歴史家」「小説家」ですと、これをもって綱吉時代は最悪だ、ということになるのですが、日本全国で見るとどうでしょうか。 そう言った観点からすると、この落首だけでそのように断言はできないと思います |