9.最初は理解できなかった徳川吉宗
1.徳川吉宗 徳川吉宗というとみなさんはどういう想像をするでしょうか。目安箱や大岡越前でしょうか。やはり中学校で習った享保の改革でしょうか。日本史に詳しい方なら米将軍や上米の制、足高の制(これは「たしだかのせい」と読みます。たし算の「足し」です。決して「あしだか」ではありません・・)、といったところでしょうか。
※全くの余談ですが、昔模試の採点のバイトをしていたとき、「吉宗の別名を何将軍といったか」(もちろん答えは「米将軍」)、という問いである学校では「暴れん坊将軍」が一番多かったという・・。テレビの力は偉大です。 こういった吉宗の「享保の改革」のうち教科書に載っているような目立った政策の多くは、実は就任当初に採られた政策なのです。その上、経済的には吉宗の政策には1730年代を境に前後で全く正反対と行っても良いほど変わります。
吉宗の政治にはいろいろお話ししたいこともありますが、ここは経済についてのコーナーなので、経済に特化することとし、「享保の改革」のうち、まずは吉宗政権の前半についてお話しします。 2.吉宗前半期の経済政策 吉宗の前半期の経済政策は、上米の制、定免法、新田開発など、伝統的な農業を中心とした政策です。つまり新井白石の路線を踏襲したものといえましょう。
(1)上米の制 しかし、経済的には、江戸における最大の消費者(大名とその家臣)が消費を減少させるわけですから、江戸の経済的にはマイナスです(他方大名の城下町では逆になりますが、経済的影響という点では江戸の方が遙かに大きいわけです)。
もちろん、米を換金する幕府は、多少の価値が減少しても米収入が増えればトータルで「収入増」になるわけですが、米が給料である旗本御家人はたまりません。給料は増えずに、米の価値は減少する。ということは収入減につながり、旗本ご家人の生活は困窮するのです。 (2) 定免法 それに対し、定免法とは、過去数年の収穫高を元に豊作凶作に関係なく一定額を年貢とするというものです。
こうしてみると良さそうなのですが・・ここまでお読みいただいた方にはご理解いただけるのではないかと思います。そうです。これは米の収入が安定するだけで、財源が安定するわけではないのです。
なお、この定免法、一定量を年貢とされることから、「公権力による農民いじめ」「飢饉の時どうする」などと教わった方もいるでしょう。
(3)新田開発 3.政策の転換 吉宗は、米価がどんどん下がっていくことで、さすがに米生産量増加が単純に収入増にならないことに気づました。 1730年、諸大名に米を買わせる「買米令」を出すのです。
さらにこれまでの「酒造制限令」を解禁し、むしろ酒造を製造し、「米を使わせる」努力をしたのです。
こうして、米を単に生産するだけでは単純に収入にはならないことに気付いた吉宗は、米を市場に出さない(あるいは引き上げる)ことで米価を引き上げる政策に転換していくのです。 もちろん、これらの政策は採りうるべき有効な策の一つです。そして、米価低落は米の過剰供給に原因があるとした点で、これまでの政策と考え方を変えています。 そのような中、享保15年(1730年)、改革を推進してきた老中水野忠之が罷免されます。ここに享保の改革は大きな転換点を迎えるのです。 これまでの政策は、それぞれジレンマを抱えつつも、当初は幕府収入を増加させました。これが享保の改革が成功した、と言われる点なのですが、既に米経済の矛盾を理解していた水野は後任たる松平乗邑が失敗したときには手痛い失敗となることを予言してもいたのです。
米の増徴による幕府収入増と、倹約による経費削減で幕府の収入を増やそうとしたという伝統的な手法が享保の改革の経済的な面です。 享保の改革全体の評価は次章に譲りますが、前半時点での評価は、年貢増徴により収入も安定したため財政上は一時的には良かったといえます。 なお、新井白石時代に様々な儀式については簡素化し、費用を削減したのですが、それを元に戻し、出費増につながるという「幕府の権威」重視の吉宗ならではの経済的には少し矛盾した面もあったことを付け加えておきます。
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コラム:日本暗黒史観は良くない−教えられない「世界初」
戦後は、日本の歴史を悪く言うことで評価される面がかなり強いです。教科書で、事実すら確認されていないことを平気で載せたりします。
今回のコラムでは経済的に「消された」業績を書きたいと思います。 世界史の教科書では、「先物取引は1800年代初頭にシカゴで行われた」と書いてあるはずです。これが大きな間違いです。
そのほか、変動相場制やエレクトラム貨幣など、経済的には江戸時代は世界の最先端を走っていたといえます。 「歴史の事実を歪める」ことのないよう、否定的な面だけを世界に訴えるのではなく、こういう肯定的な面も世界に訴えて欲しいものです。そうでない主張はやはり偏っている歴史観なのだといえます。 |