4.教師の力量がもろに出る教科

 思想教育をする教師が多い場合は学科の教え方にも特徴が出ます。
 それを端的に表しているのが歴史という科目でしょう。

 歴史という教科は「経済から見た江戸時代」でもあるように、実はいろいろな要因が混じり合って、その結果として起きているものです。
 ですから、完全に良い政策や事件など無くて、良い面もあれば悪い面もあるその結果、その事実を比べ判断する人(この場合は生徒)がどう評価するか、というものです。
 そしてそのいろいろな評価のうち、大半の人が評価しているのが「定説」になります。
 逆にそのとき分かっている事実で評価しているわけですから、新事実が見つかればひっくり返る場合もあります

 しかし、教科書においてはそういった新事実がないにもかかわらず、時代時代に評価が逆転したりひっくり返ったりしています。
 これはいかに日本の歴史教育が未熟か、ということでしょう。

 そして、未熟な教師は評価の部分まで含め「事実」として伝えます。

 更に確信犯の教師になると、偏った情報しか与えず、それを「事実」として配布し、偏った思想の方向へ誘導します。
 これは歴史学としては完全な誤りです。

 ましてや、自分の思想以外の部分を「歴史のわい曲」とするのは論外です。歴史のわい曲とは、事実でないことを事実とすることであり、そういった意味では南京虐殺の人数などは未だ明らかになっておらず、南京で殺害があったことを記載することは事実として問題ありませんが、30万人など、未だ確定していないことを記載することは不適当となります。

 例えば、天下統一一歩手前まで行った織田信長を「旧来のものを壊した」と高く評価している生徒がいたとしましょう。彼が信長の一向一揆に対する大量虐殺など陰の部分を知って評価しているのであれば問題ありません。
 具体的には越前一向一揆では2万人以上を惨殺し、長島願証寺では降伏を許さず信徒を焼き殺しています。しかし、多くの教師はこれを教えていないわけです。

 私的には、確かに評価すべきだとは思いますが、その過程で不必要に人を殺していました。その結果が天寿を全うできなかったのだと考えています。

 しかし、教師が信長の「輝ける」部分しか教えず、誤った知識を植え付けられたとしたら・・。

 この象徴が楠木正成という人物です。戦前は皇室に尽くした忠義の男として神様扱い、戦後はほとんど教科書にも出ません

 しかし、その業績を冷静に見ると、「悪党」(この時代までは「悪」=「強い」の意味で、今で言う「悪い」という意味ではありません・・こういうことすら教えていない教師もいるみたいですが・・)として、崩壊しつつあった鎌倉幕府にとどめをさしたいわゆる千早・赤阪城の戦いは特筆に値します。少なくとも新田義貞よりは立派だったでしょう。

 さらに、足利尊氏に対し、勇戦したこと自体はいわゆる「武将」としては立派な部類でしょう。その最後もまさに「忠臣」といえます。しかしながら、その一徹さあまり、時代の流れ、主君のおかしな行動を止められないなど、「武将」の域を超えられなかった問題点も指摘できます。

 とはいえ彼の「業績」自体は全く変わっていないのに、たまたまついた陣営(天皇)の評価だけで、彼自体の評価も左右するというのはいかにもおかしいことです。

 さて、偏った評価も問題ですが、一方で、教科書に載っている重要事件などを「これだけ覚えろ」「試験(大学入試)ではこれしか出ないから」とした場合はどうなるでしょう。
 これで歴史=暗記科目→つまらないという図式ができるわけです。

 しかし、私の経験でいうと、予備校にしても塾にしても、そんな決めつけでは理解も進まないし、生徒の興味も引きません。歴史の先生で予備校なんかの人気講師は、おもしろおかしくいろいろな歴史の事実の話をしてくれていました。
 そうやって学問というものは興味を持って、頭に入っていくというものでしょう。

 歴史を暗記教科とする時点で、特に、年号覚えるの大変で・・といった時点で教える側、つまり教師の能力に問題があることがわかります。

 このように、右にせよ左にせよ特定思想のみを教える教師が出やすい教科が歴史であり、また「暗記物」と誤解されやすい教科が歴史でもあります。

 しかし、それは本来のものではなく、教師の力量(というか勉強不足または確信犯の思想教育者)のせいであるといえましょう。歴史は本来の教科としてのおもしろさ以前に、教師の力量で評価されてしまうのが如実に現れる不幸な教科なのです。

 本当に生徒が社会に出てからのことを真剣に考えるのであれば、上記のような教え方は間違っているのです。

 英語なども例えば三単現のSがどうとかでなく、文章全体として英文解釈を教えてくれる人がいればもっとおもしろい科目ではないかと思います。
 国語も漢字や文法だけでなく、文章を多く読ませることで全体的な広い視野で大意を見抜く、などの教え方を行う教師がやはり評価を得ていました。

 暗記はもちろんある程度必要ですが、「暗記科目」なんて本来は無いわけです。

 もちろん、センスがありますから歴史が苦手な人もいますし、逆に理数系が苦手な人もいます。それは仕方ないと思います。

 社会人の方ならご理解いただけると思いますが、結局社会に出てもいろいろ勉強しないと仕事がつとまらないわけです。しかし若いときにいろいろ勉強している科目とそうでない科目とでは苦労の度合いが大分違うというのは実感できると思います。
 私なども英語を暗記科目的扱いだったので大変苦労しました。

 ぜひとも押しつけ教育型でない学問のおもしろさを教える教師を増やしてほしいものです。

5.教師の大変さ

 ここで、大多数のまじめな先生についても語らなければならないと思います。
 一番の問題は学校の教師に多くを求めすぎている点です。

 具体的には本来家庭で行うべき「しつけ」を教師に責任転嫁している家庭が多いと言うことです。
 例えば本来PTAと言うのは、学校へのサポーターであるはずです。それがいつのまにか教師への陳情者になり、いつのまにか責任は全て学校側、となっているのです。

 もちろん、学校内部のいじめの問題については意見を言い、問題教師などを糾弾するのはあたりまえです。しかし、「教育」という根本的な面で協力してるのでしょうか。

 特に「しつけ」や「一般常識」を教えるのは家庭での仕事にもかかわらず、それすら教えていないという問題点があります。結果として学級崩壊などを起こす、しかしこれは私は学校の問題ではないと思います

 そして最大の問題はこれで困ったり、悩んだりするの実は教育に熱心な真面目な先生です。
 逆に困らないのがいい加減な教師達なのです。ほっとけばいいのですから。
 
 最悪なのはその熱心さが裏目に出て生徒に恨まれ、家庭からもよけいなことをするな、と言われる教師です。

 極端な例で言えば、自らの息子を溺愛するあまり、子供の言動をそのまま鵜呑みにして、問題のある生活態度などを注意をした教師に校長などを通じ圧力をかける保護者も存在することを、もっとはっきりと指摘すべきだと思います。

 もちろん、「行きすぎた体罰」の問題もあります。しかし、特定の1名(自分の子供)のいい加減な情報に基づき熱血教師に対し、校長を通じ圧力をかけるやり方が正しいのか
 そして、問題のある生活態度を教師が注意できない場合、教育自体ができません。そしてそれは「偉い人についていれば、道理が通らなくても良い」という今最も良くないとされている行為を「教育」しているのです。

 こういうことをやっていると、結局そのつけは将来その子供が支払うことになります。その子供自身は気付かず、「社会が悪い」と責任転嫁しながら。
 もちろん本人が払うだけであればかまいませんが、何の罪もない善良な市民も巻き添え(被害者)になることもあります。これは勘弁してもらいたいものです。

 教師という観点でも、真面目な教師を排除するわけですから、当然問題なわけです。

 家庭には「子供の将来を真剣に考えるとどうすればいいのか」をよく考える事が望まれると思います。そして、校長なども事なかれ主義ではなく、事実を調査した結果毅然とした態度が求めらます。そしてそれを教育委員会などは評価すべきです。それをやらない教育委員会は不要。リストラし、民間のオンブズマンに任せるべきです。
 

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