考古学のおやつ

知るは楽しみなり?

万維網考古夜話 第3話 9/Dec/1998

2週目も閲覧者数が減っていないようです。まことにありがたいことです。考古学徒のためのe漢字並みのペースですから、このサイトのコンテンツとしては閲覧者が多い方と言っていいでしょう。ただ、数字が淡々と増えるほかは何の反応もないので、ウケてるのか何だか、また、読んでくださるのがプロの考古学者だか素人さんだか、よくわかりませんが。(^^;ゞ
そろそろ「考古学のおやつ」もリストラの季節になってきたので、とりあえず数字を頼りに廃止ページを選定しています。

あ、そうそう。各地の埋文の方で、朝鮮陶質土器を今年度報告される方、実測と類例探しぐらいならお手伝いしてもいいですよ。遠方だとちょっと厳しいけど。私も埋文にいたころは、吉留秀敏さんに石器の実測をしてもらったりしたものです。「このぐらいの石器、自分で扱えるようになれ」と叱られながら。(^^;ゞ

さて、先週の愚痴に続き、今週も考古学から外れて、ちょっとこねくり回した話をしましょう。前回よりは建設的な内容のつもりではありますけどね。一応、このコーナーというか、サイト全体に関わる内容なもので、総論みたいなもの(大袈裟だね)です。

かなり前ですが、NHKで「クイズ面白ゼミナール」とかって、放送してたのを覚えてますか? 日曜日に、7時のニュースと大河ドラマの間の時間に放送してました。ちょうど、今は「クイズ日本人の質問」の時間帯ですね。日本史に題材を採ったクイズで、子供のころの私も毎週のように見ていましたが、この番組は司会の鈴木健二さんの個性で持ってるような番組でした。鈴木さんはこの番組で有名になって「気配りのすすめ」という本も売れたし、「紅白歌合戦」の司会という大役も勤めました。

でも、この紅白で、多くの視聴者は「鈴木さんの“気配り”はどこに行ったの?」と戸惑ったわけです。そして、気づいちゃったんですね。鈴木さんの個性と思っていたもののうちいくつかは、NHKが彼に与えた役柄に過ぎなかったことを。そして、「紅白」で与えられた役柄が、それ以前とは矛盾してたってわけ。

今の「クイズ日本人の質問」も、レギュラー出演者の個性が現れてるように見えて、その実、役割分担がはっきりしてるんですよね。もちろん出演者の才能の賜物ではありますが。

早速、話がそれちゃいました。(^^;ゞ

「クイズ面白ゼミナール」の番組の冒頭、鈴木さんは、必ず決まり文句を言ってました。それが今回のタイトルにも使っている、「知るは楽しみなりと申しまして云々……」という文句です。

終わりごろに「今週のオールスターキャスト」ってのもありましたが。

なるほど、クイズ番組などで、楽しく新たな知識が得られるのはいいことだね……などと、当時子供の私は素直に信じてたんですが、最近、どうも違う気がしてきました。

「知るは楽しみ」だとしたら、「知らないと苦しい」のでしょうか。いえ、そこで「屁理屈」とつっこまないでください。何かを「知らない」という理由で、(あなたが)苦しんだり、(だれかを)苦しめたりしたこと、ありませんか?その苦しみは、正当なものだったと思いますか?

以前、高村光雲の「老猿」が好きだという幼児に会ったことがあります。というより、その子のお母さんが言ってたんですね。

この子は「老猿」が好きなんですよ。「おっきなおさる、おっきなおさる」って言って。

そう、この子は高村光雲がどうこうとか、なんのかんのと難しいことは抜きにして、動物が大きく表現されていることに興味を引かれてたんですね。ついでにそのお母さんが言ってたところでは、その子、国宝の仏像とかは怖いから嫌いだとか。
お母さんに抱かれながら、クリクリっとしたその目で周囲のさまざまな人の動きを眺めるその子は、次に自分の興味を引くものを探しているかのようでした。

彼(私の目には、その幼児は男の子のように見えたんですが、区別つきにくいですよねぇ。別に「彼女」でも、後の話に支障はありません)は高村光雲も知らなかったし、結局「老猿」も知らなかった。でも、彼はそれらを知らないことが全然苦しくないし、それらを知ったからといって、彼の楽しみが大きくなるともいえないわけです。

この話は、このサイトのReadMeに以前書いていた、「子供は意味のわからないものでも楽しむことができる」という意味の言葉の由来となったできごとなんですね。何かの知識があるかどうかということと、この世界を楽しめるかどうかは、別なんじゃないか、と思ったのです。

その一方、展覧会などで、「すばらしい展示だったのですが、私は知識がないのでよくわかりませんでした」という声を聞きます。こういう言葉を聞くと、先ほどの「老猿を好きな幼児」のことが印象に残っている私は、とても困惑してしまいます。
「すばらしい展示だった」というのは、その人自身の感性から得られたわけですから(中には、外交辞令で「すばらしい」と一応言ってるだけの場合もあるでしょうが)、先ほどの「老猿を好きな幼児」のように、その感想をもっと大切にしたら、と思うのですが、どうもそのようには考えないらしいんですね。自らの五官で得た感想も、「知識がない」という自己認識のもとに、封印されてしまうようです。残念なことです。

もちろん、このような不満の背景に展覧会側の説明不足がある場合も少なくないでしょう。ただ、私はこういう声を聞いたとき、「この展示は説明不足の展覧会だ」(多くの人が、そういう意味に取るように)という考えとともに、「この展示は、“知識がないと楽しめないのではないか”と不安を与えるような要素を持っているのではないか」とも考えます。
そしてさらに、「自分に予備知識がないと思うあまり、過度に自己の鑑賞能力を低く見積もってしまう人が多いのではないか」とも思うのです。つまり、知らず知らず、「知らないと苦しい」と自己暗示にかけているのではないか、と思うのです。

ここで鈴木健二さんの言葉に戻りましょう。私たちは「知るは楽しみ」という美名のもとに、知らぬ間にお互いを「知らないと苦しい」と脅迫してはいませんか?

もちろん、知識が求められる状況(例えば、受験生)もありますし、何かの専門の研究をしたり、専門の職業に就いたりするには相応の知識が必要です。交通法規も知らない人に運転免許が与えられたら大変ですね(私も鮫洲の試験場の学科試験で1回落ちました(^^;ゞ)。
何かの知識を得るために努力し、その結果、相応の地位についたり資格を得る、ということは決して否定なんかしません。

ただ、知っても知らなくても、どちらでもいいことだってあります。というより、私たちが日常の中で出会うものごとのほとんどは、知ってても知らなくてもどうでもいいことのはずです。それならば、生活の多くを占める「知っても知らなくてもいいこと」に関しては、「わからないなら楽しんじゃえ」という考え(「考古学のおやつ」の理念ですね^^)で接した方が、よっぽどおトクじゃないですか?

この話、私が大学の授業の第1回にした話がもとになってるんです。この後に、授業の内容を理解したい人や、それが今後のために必要な人は理解するように努力すること、その必要がない人は、わからなくても適当に楽しんで欲しいということ(無責任な先生ですね、私って(^^;ゞ)、楽しめそうにもない人は、ほかの勉強なり遊びなり興味のあることにこの時間を振り向けること、それでも、単位が欲しい人は相応の努力をすべきこと、という内容が続きます。
これから授業が始まるというときに、「理解しなくたっていい」と言っちゃうんですから、むちゃくちゃですね。私が専任教官だったら、こんな話はしなかったかも知れませんが。

「考古学のおやつ」は、前回も書いたように、決して考古学情報満載のページではないですが、それでもけっこう一般の人の理解を越えた書き方もしているつもりです。わけのわからないところがいっぱいかも知れませんが、わからなければ楽しんでください
なんて無責任なサイトなんでしょうねぇ(^^;ゞ。

何だか、ひねくった内容で、自分でもよくわからなくなってきました。次回からはもう少し考古学らしい話題を書こうと思います。


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