考古学のおやつ

ひとつしかないもの

萬維網考古夜話 第5話 22/Dec/1998

1998年も、そろそろ終わろうとしています。その前に、私とはあまり関係のないクリスマスというイヴェントも残っているようですが(^^;ゞ。

前話にはかなり反応がありまして。公開直後の12月15日は閲覧者の半数萬維網考古夜話にアクセスされたほどでした。「考古学のおやつ」全体へのアクセスも少し増えました。イベントや小細工でなく、コラム1本でアクセスが増えるとは、このコラムを作った甲斐があったというものです(感涙)。また、このページの閲覧者に考古学業界のプロがかなりいるらしいことも判明しましたね。素人さんにはわかりにくい話でしたから。
それにしても、公開直後から突如アクセスが増えたんですけど、みなさん、ページが更新される瞬間がわかるんですか? 気色悪いですね(^^;ゞ。

なお、今回から、単なる見栄えの問題でタイトルを「万維網」から「萬維網」に改めました。

前回予告しておりました通り、今日は「型式学」というめんどい(「めんどうくさい」の短縮形。私の田舎では「たいぎい」とも言う)ネタです。今回、プロの方は読まないでください。恥ずかしいから(^^;ゞ。
特に、考古学専攻の学部生は読まないでください。オーソドックスな内容じゃないので。

日本に何千人もの考古学者がいるため、考古学業界にはさまざまな「ことば」があります。専門用語とか、隠語とか。しかも地方によって意味が違ったりします。そういった「用語」の問題は別の機会に譲ることにして、これとは別に、「格言」のようなものもあります。「格言」といったら大袈裟かもしれませんが、先輩や上司が後輩や部下に「お前なぁ、……なんだからな」と伝える言葉がたくさんあるんですね。

私が学生時代によく聞かされた言葉には、

人は人を生むが、土器は土器を生まない

というのがありました。これは、型式学的方法を安易に捉えてはいけないということで、人工遺物(artifact)が時代によって異なる形になることと、生物進化は簡単には対比できないことを言っています。また、型式実体説のような、遺物なり型式なりを擬人化して叙述してしまう誤りへの警鐘でもあります。
う〜ん。いきなり話が固いな。一方、プロの方には聞き覚えのある言葉で、いまさら説明の必要もありませんね(^^;ゞ。

ここまでで、素人さんに対して説明を要する言葉がいくつか出てきましたが、とりあえず、深く考えないで話を進めることにします。解説してたらきりがないし、この件については言いたいことのある人がいっぱいいるでしょうしね。また、後でちょっと関連した話もします。

さて、私にとって印象に残っている言葉に、

考古学は、“ひとつしかないもの”を扱ってはならない

というのがあります。ひとつしかないと扱えないんだったら、妻木晩田(むきばんだ)遺跡のような遺跡は研究しちゃいけない……という意味ではありません。

考古資料を研究する方法は、基本的に「比較」の繰り返しです。資料それ自体は喋ってくれるわけじゃありませんし、考古学者が比喩的に「遺物の声を聞く」とか気色悪いことをいっても、じっと耳を澄ましてるわけじゃありません(気色悪いってば(^^;)。実際には、比較できる対象を見つけ出してきて、どの辺が同じで、どの辺が違うか、を検討し、やっと「これは何か」がわかるのです。

ある資料が発見されると、考古学者はそれと比較できそうな過去の発掘成果を探すんですね。そして頭の中でいくつもの関連資料を比較した結果、「今回の発見物は○○遺跡などから出た▲▲時代の××と同じだ。だから、これも▲▲時代の××だろう」と判断する、この判断を、経験的にものすごいスピードでやりこなしているわけです。

そんじゃぁ、類例のない初めての発見は、マスコミとかでどんなに騒いでも、やっぱり研究禁止……なわけはないですよ、当然ながら。こういうときも、考古学者は発見された考古資料のさまざまな特徴を取り上げて、ほかのものと部分的にでも比較できないかと、探します。

型式学(けいしき-がく:typologyの訳語、ということになっている)という言葉について論じてたらきりがないのですが、ご同業からの厳しいチェックもありうると承知の上で、私なりに簡単に縮めて言いますと、

高度に体系化された比較法

だと思っています。ルジメント(痕跡器官)とかの言葉がないぞ、とご指摘があるかもしれませんが、ルジメントなんて運用上のものだと思ってます(これを書いちゃうと、後が怖い^^;)。

型式学とは分類のこと、という人もいますが、分類は比較の成果を表現する表現法の一様式ですね。往々にして、もっとも有効でありつつも眠気をも誘う表現方法であったりします(^^。

型式学自体の歴史を考えれば別でしょうが、現在、少なくとも日本で実際に行われている型式学に関する限りは、上のような言い方が適当だと思ってます。運用や表現法は、その方法の本質とは分けて考えることにしましょう。(この部分、異論が多いかもしれませんね(^^;ゞ)

先程述べた、部分的な特徴を比較するのは、考古学者が半ば経験的に行ってきたことですが、これにも面倒くさい理屈を付けよう(という言い方は中立的ではないですが(^^;ゞ)という考え方が、いわゆる属性分析(ぞくせいぶんせき)でして、その有効性や方法論についての論議もいろいろあるようです。
個体よりも細分化されたレベルでの有効な比較を実現するための論理が模索されていると言ってよいでしょう。

考古学を空想ごっこではなく学問として進める方法の一つが、これまで考古学者が培ってきた比較のためのさまざまな手法といえるでしょう。

“ひとつしかないもの”を扱ってはならないというのは、「唯一の事例は無視する」のではなくて、考古学においては、充分な比較検討が実現できないうちから解釈を展開してはならない、ということなんです。

これは、見方を換えれば、比較できる資料や比較の視点がいくつもありうる場合なのに、ろくに比較検討せずに結論を急いではダメだ、という、若き考古学者たちへの警句でもあるといえるでしょう。

ただ、資料をひたすらいっぱい集めて、通り一遍の分類さえしてしまえば、大したこと言わなくても何となく論文ぽく見えてしまう、という一面もありますね(^^;ゞ。

「予告までしておいて、結局、型式学にまともに触れないのか?」という声が聞こえてきそう……(^^;ゞ。いや、これでも私にしては珍しく、型式学について言及してる方だし、自分では相当踏み込んだこと言ってるつもりなんですけどね。

型式学なり、属性分析に対して、ちょっと態度が冷たいんじゃない……と思われる向きもあるかも知れませんが、私はあんまりこれらの方法と親しくないし、それにいずれこの話の続きみたいなことも書くでしょうから、そちらに譲ります。
それまで、このコーナーが続いているかどうか、自信はないですが(^^;ゞ。

これ以上よけいなこと言って専門家を怒らせないうちに、さっさと今回は終わりにしちゃいましょう(^^。

次回は、年内最後の話題として、今年の研究動向を、例によって手前勝手にお話します。


[第4話 出口を模索する九州考古学会|第6話 1998年の新羅緑釉陶器研究・前篇|編年表]
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