考古学のおやつ

禁じられた楽園−新羅土偶物語・後篇

萬維網考古夜話 第13話 16/Feb/1999

新羅の土偶には,衣服をつけないものばかりではありません。簡単に線描きして表現したものもありますし,力士の土偶は“まわし”を締めています。ところが,衣服で思いっきり身を包んだ土偶もあります。騎馬人物土偶です。今回は,騎馬人物土偶のお話をして,最後に前回の衣服をつけない土偶との関係を見ていきましょう。

例えば,東京国立博物館にある小倉コレクションの騎馬人物土偶は,ちっちゃくてかわいいんですけど,よく見ると侮れません。細かい部品で手間暇かけて作られてまして,まず,馬の形を作り,馬具の部品を一つ一つ貼りつけています。さらに甲(よろい)や烏帽子,大刀をつけた馬上の人物も粘土で作り,馬に乗せています。

馬の鞍(くら)は,前輪(まえわ)・後輪(しずわ)と,これらをつなぐ居木(いぎ)が主な部品ですが,この土偶では,馬の背に居木に見立てた粘土の部品を2本載せ,その上に前輪と後輪に見立てた部品を載せています。さらに,前輪と後輪の間に細長い粘土板を載せて両側に垂らし,障泥(あおり)に見立ててますから,実際には居木に見立てた部品は,完成してしまうとわずかしか見えません。この土偶を作った人は,見えないところまでも正確に再現していますから,実際の鞍の構造をよく知っていたこともわかります。

馬の顔を見ますと,轡(くつわ)を馬の頭部に固定する面繋(おもがい)が粘土紐で細かく作られています。問題は手綱の表現が間違っていることです。実際は轡の両側に引手(ひって)と呼ばれる金具があって,これに手綱がつながっているはずなのに,なぜか馬の首を絞めるようなおかしな位置に手綱が表現されています。これでは馬を操縦できません。しかし,騎馬人物土偶のうちには,このような表現もいくつか知られています。細い粘土紐で手綱を正確に表現しようとしても,うまく接着しないと,粘土を乾燥させたり,窯で焼くときにはがれてしまいますから,正確な表現には,おそらくかなりの技術を要したでしょう。まぁ,この程度の表現の嘘は許容されていたということでしょう。

馬上の人物は,まず人間の胴体を作って,これに甲(よろい)を着せているようです。左の腰に何か下げていますが,高句麗の壁画古墳と比べますと,どうやらこれは弓を入れる弓袋を表現しているようです。つま先には小さな粘土の輪が巻きつけてあります。鐙(あぶみ)に足をかけた表現とみてよいでしょう。
人物の腕は,何しようとしてるのかわかりませんが,右腕だけ少し前に出しています。武器を持ってたのかもしれませんが,破損してまして,よくわかりません。

このように,この騎馬人物土偶では,馬具や人物の武装した姿まで,細かく再現していますが,気になるのは馬上の人物の頭の表現です。当時の朝鮮には,鉄製の甲とともに鉄製の冑(かぶと)も使われていました。しかし,この人物は,武装しているくせに,冑で頭を守ることはせず,帽子のようなものを頭にちょこんとのせています。こんな姿で戦ったら,敵はこの人の頭をねらって攻撃してきそうです。

実物の馬具や武装を忠実に再現しているのに,冑をつけない。この謎解きは,ほかの土偶を見た(……と言ってもやはり画像はありませんが)後にとっておきます。


現在,国立慶州博物館に所蔵されている,伝金海徳山里出土の騎馬人物土偶は,馬甲(馬が身につける甲)の表現などで著名です。台の上に騎馬人物が乗っていまして,馬のお尻のところに2本の煙突のような表現がありますが,これは角杯という角の形の器をかたどったものです(角杯の話までしてるとキリがないのでこれは省略)。

この騎馬人物土偶でも,馬を飾り,そこに武装した人物を乗せています。馬具の表現はかなり省略されていますが,馬の顔には面繋を線で表現してますし,馬甲は鉄の板(小札)を縦横の線で表現しています。馬の胸のところの甲は,前掛けのようになってまして,側面の甲の上に重ねるようになっていますが,これは前方からの攻撃に備えたものでしょう。甲を重ねた部分から上に延びる三角形の表現は,甲を吊るために馬の頸に掛けたベルトか何かのようです。この土偶の作者は馬甲をよく知っていたのでしょう。また,右側のお尻の馬甲が壊れた部分(そのため写真などでこのアングルは少ない)から中を見ると,馬の4本の足と胴体をも表現しているのがわかります。見えないところも表現しているのです。

馬上の人物の腰にあるスカートのような表現は,上半身から繋がっています。おそらく甲でしょう。頸の後ろに大きな襟のようなものは,頸甲(あかべよろい)の可能性があります。頭には何かをかぶっているようで,髪の毛か兜かどちらかの表現でしょう。しかしその上に烏帽子のような表現があるところを見ますと,帽子の下は冑ではなく髪の毛のつもりかもしれません。

人物は右手で剣か大刀のような武器を振り上げ,左手に盾を持っています。両足を鐙に乗せています。冷静に考えますと,このように両手に武器を持つと,手綱を操作できません。実際,手綱の表現は省略されています。一方,このように両腕が壊れていない騎馬人物土偶を参考にしますと,先ほどの土偶の右腕と左腕の方向が幾分違っていることも,手に何か持ってポーズを取っていたためと考えられますね。


慶州市の金鈴塚は慶州の新羅古墳のうちでも王族の墓と考えられていますが,ここで有名な騎馬人物形土器(国立中央博物館所蔵)が出土しています。これは,単独で出土したのでなく,主人と従者の2つの騎馬人物形土器が一緒に出土しています。どちらも手の込んだ作りで,表現が似ているので,同じ作者の作品でしょう。主人と従者の表現に違いがあり,身分による服装や馬具の差がわかるという点でも重要資料です。

主人の馬具には大作りな鏡板(かがみいた)・雲珠(うず)・辻金具(つじかなぐ)を使っているのに,従者の方はそれらが目立ちません。主人の方は,面繋に角のような装飾品,胸繋に鈴,尻繋に杏葉を下げ,鞍から輪鐙が下がっていますが,従者の方はそれらがありません。

主人は大きめで裾を絞ったズボンのような物をはき,足にはつま先の反り返った履(くつ)をはいてますが,従者は細い感じのズボンで,履のつま先はまっすぐです。従者は右手に何かを持っており,背中に荷物の包みをくくりつけています。また,主人も従者も帽子をかぶっていますが,主人の帽子は烏帽子形で,当時の金属製の冠帽に形が似ています。主人は左の腰に何かぶら下げていますが,上のところが輪になっているので,環頭大刀かも知れません。従者は馬のお尻のところに丸い玉のような表現がありますが,これも荷物でしょうか。

この主従の騎馬人物形土器から,これらの土器が実際の身分による馬具や服装の違いを意識して作られていると考えて,差し支えなさそうです。


もう一つ例を挙げましょう。これまた東京国立博物館が所蔵している新羅(多分)の挂甲人物土偶です。

この土偶は粘土で胴体を作った上に,粘土板で作った挂甲(けいこう)を着せて作られています。挂甲は小札(こざね)を綴り合わせて作った甲で,馬に乗るとき使うと考えられています。挂甲には縦横の線で小札を表現しています。このほか,頸の回りの頸甲や,腰の大刀も粘土で部品を作って貼りつけているのですが,壊れているところからよく見ると,胴体と挂甲の間にももう1枚の粘土板が挟まっています。なんと,挂甲の下に着ている衣服まで表現していたのです。この土偶では,人物が衣服を着,甲をまとい,武器をつけるまでを,粘土で再現しているわけです。

多分この土偶も実は馬に乗っていた,つまり騎馬人物土偶だったと考えられます。挂甲は馬に乗るときの甲と考えられますし,甲を着ているのに馬に乗っていない土偶は,この時代に見あたりません。逆に,騎馬人物土偶には甲を表現するものが多く,甲の表現を省略する場合はあっても,明らかに裸で馬に乗っている人物という表現はありません。さらに,この土偶の両腕の表現は,右腕の方を少し前に出しています。この表現が,ほかの騎馬人物土偶と似てはいないでしょうか。


前回もお話ししましたが,土偶の表現にはルールがあります。前回お話しした裸の人物とは対照的に,騎馬人物は別の世界を持っています。

まず,服装の表現は対照的です。表現自体を省略することもありますが,騎馬人物では甲をまとうことが多く,そのほかの人物は裸のことが多くなっています。その逆はありません。騎馬人物以外の土偶では,人物も動物も同じような扱いといえるでしょう。また,土偶を土器の上にいくつか配置する,つまり舞台を共有して場面を作るのは,騎馬人物以外の土偶に限られます。また,どちらも素朴な表現なのですが,馬具や武器を細かく表現するのは騎馬人物の特徴です。

おもしろいのは,馬と船を比べた場合です。乗り物という点は共通なのですが,船は土器の上に配置されて場面の一部になることも多いですし,船に乗る人物は,裸でゆったりくつろいで,騎馬人物と大違いです。1つの主体部から騎馬人物土器と船形土器が両方出た金鈴塚などで,対比は明らかですね。

騎馬人物では,いずれも冑でなく,帽子のようなものを表現しています。甲や武器で武装しているのに冑をかぶらないのは,これが実戦の表現ではないということでしょう。そして,金鈴塚の主従が違う形の帽子をかぶっていることに表われているように,帽子の形が人物の地位を表していたのなら,騎馬人物に帽子を必ず表現するのは,人物の地位を示すためでしょう。新羅の使者を描いた壁画に,やはり帽子が描かれていることも思い出されますね。

騎馬人物が戦闘の場面でないとすると,朝廷の儀式などでの晴れ姿と考えられます。ですから自らの威風堂々たるところを示し,また,自らの地位を示す帽子をかぶることは当然でしょう。これらの土偶や土器が,馬具の細かい特徴を正確に再現し,特に馬具の部品を,完成品では見えないところまで一つ一つ細かく作ったのは,高貴な人物が着飾り,彼の馬も飾りたて,そして彼が馬に乗るという,晴れ姿の準備の様子を,粘土で再現したことを示しています。

騎馬人物土偶や騎馬人物形土器は,副葬品として用いられたのですから,騎馬人物は,古墳の主人公を表した可能性が高いといえます。また,騎馬人物土偶だけがほかの土偶と違った特徴を持っているのも,騎馬人物が古墳の主人公本人を表しているためでしょう。


衣服をつけた表現の土偶は騎馬人物が主なのですが,ほかに跪く人物,土下座をした人物がありまして,これらも壺の肩のような舞台に載らない土偶という点で,騎馬人物と共通点があります。
騎馬人物は主人公が高位にあることを表現し,跪く人物などは高位の主人公を引き立てる意味を持つと考えると,衣服を表現したこれらの土偶(騎馬人物,跪く人物など)は,実は互いに補い合って,タテの身分関係を表現する場面を作ったのではないでしょうか。

前話では,裸の男女などが水平的な世界を表したと考えましたが,今回の騎馬人物などは,それとは矛盾するタテの身分関係を表したようです。ところが,これらの土偶は5世紀から6世紀にかけて,ほとんど共存していました。おそらく,そのころの墳墓の中では,騎馬人物や跪く人などが意味ありげに並べられた傍らで,壺の肩に裸の男女などの水平的な世界が表現されていたことでしょう。このころは,古墳も非常に大きくなり,支配者の権力も大きくなっていたはずですが,矛盾するはずの2つの世界観が共存していたのです。

このころまで新羅は部族連合なんて言われてまして,「六部」の連合体制だったんですね。六部はそれぞれ内部に独自の秩序を持ってたようで,王の権限は絶対じゃなかったわけです。それぞれの「部」の中は一応同族意識というか,仲間と認識してたのでしょうが,一方で「部」の有力者の力はほかのメンバーからかけ離れていった,それが先ほどの2つの世界が共存していたころなんです。

ところが,この体制は520年ごろに終わってしまいます。どうも身分制度が整ったみたいで,新羅王と六部の有力者の結束が強まり,位階制もできて,六部のメンバーを序列化したようです。
簡単に言うと,共存していた土偶の2つの世界のうち,水平的な世界はこのとき克服されて,タテの身分関係の方は勝ち残ったわけですが,実際の土偶を見ると,水平的な世界だけでなく,騎馬人物土偶とかも,このころまでで作られなくなります。つまり,両方消えちゃうわけですね。身分制度がしっかり確立されれば,土偶に身分関係を表現する必要もなくなったのでしょう。

代わって6世紀中ごろに登場するのが,慶州市味鄒王陵地区C地区3号墳で出土したドラゴン形土器です。もはやタテやらヨコやらの社会関係を示すのではなく,超自然的な存在を表現しているわけです。中国の梁王朝との交流で,新たな思想が取り入れられたのかも知れません。

ドラゴン形土器までで,新羅の土偶は終焉を迎えます。


前回と今回の話は,1997年7月1日に一般向けに話した内容をアレンジし,いくつかの文献・情報を追加したものです。


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