考古学のおやつ

干支2運の遡上−7世紀はどこだ・中篇

萬維網考古夜話 第50話 4/Jan/2000

コーナーごとにあいさつを繰り返しているのも妙ですが,
新年明けましておめでとうございます。

年末年始で,久しぶりにゆっくり論文など読む暇ができましたが,ヒスブルの余韻が消える以前にサムエルの紹介が始まったのはいけませんね。押してたんでしょうか?(←ホントに論文読んでたのか?)

この正月は,珍しい1月2日のパンダ上野動物園に見に行こうかと思ったんですが,結局暇がなくてやめました。

このコラムの準備には時間が割けなかったので,今年も切れ切れの更新になることが確定的ですが,よろしくお願い申しあげますm(_ _)m。


新羅土器と須恵器の7世紀の編年を対比できそうな地域は畿内と九州です。畿内の方は然るべき人にお任せするとして,九州の方について,これまで何度か触れてきたことを再構成してお話しします。

前篇でお話しした研究会で洪潽植さんが,韓国では日本よりも実年代を知りうる資料が多いと発言されていたことに対して,休憩時間などで,「あれは本当か」と私に聞いてきた人がいましたが,日本より多いかどうかは別として,6・7世紀について言えば,いくつかの証拠から,かなり実年代の幅を限定できると思います(このことは,意外に知られてないんでしょうかねぇ)。

慶州皇龍寺下層
新羅印花紋土器の編年と実年代論は,この遺跡なしには語れません。実年代について解釈は分かれるようですが。研究会の懇親会でも,「この遺跡を挙げていれば編年が違ったかも」という声が聞かれましたが,実際は皇龍寺出土遺物も資料に挙がっているので,新しめの実年代観で使っているようです。
陜川三嘉古墳群など
陜川地域が加耶から新羅に移行する時期の古墳群なので,その変革の時期は562年に求めることができます。しかも,この遺跡では加耶→新羅と古墳や土器の様式が変わっても古墳群自体が継続して,同一墳丘への石室の増設も続いていることなどから,古墳群を造営した集団の継続性はあきらか(高正龍さんの指摘がすでにあります)で,変化の時期を562年に近づけて考えることが可能です。
このほかにも,532年金官国(金海)→550年ごろ漢江流域→562年大加耶(高霊)と新羅の勢力が伸張していく中,各地で加耶古墳の新羅化が起こっている(廃絶するものもありますが)ので,いずれも実年代の手がかりになりますが,やはり実際に適用できる考古資料が多いという点で,562年の事件が重要です。洪さんもこれに触れていますが,なぜか三嘉古墳群は出てきませんねー(おそらく陜川苧浦里E古墳群あたりを参考にしたのでしょう)。
扶余扶蘇山城と定林寺
660年に唐と新羅の連合軍が百済の都だった扶余を制圧しましたが,その後の百済復興運動の中でも,扶余が再び百済の手に戻ることはありませんでした(錦城山に百済遺臣が入り込んだことはあったようですが)。百済王宮や,定林寺で出土した新羅土器は実年代の上限が定まっていますし,また,定林寺は百済滅亡後間もなく埋まってしまうので,実年代資料としては有用です。洪さんももちろん用いています。
慶州雁鴨池
雁鴨池は674年に完成したことがわかっていますので,ここから出土する新羅土器は,それ以後のものということができます。また,雁鴨池造営以前の骨壺が見つかっているので,造営前後の土器を比較することができます。

と,こんな感じです。このほか,雁鴨池以前の火葬墓に開元通宝が入っていたという例もあるものの,7世紀前半はやや手薄なのが痛いですね。

百済義慈王初年の大耶城(陜川)の戦いで新羅が大敗し大耶城が慶山まで退いたという記事が『三国史記』にあります。某研究会で,この記事を引いて陜川の新羅古墳にみられる編年上の空白を説明したところ,九州大学の金宰賢さんから「それは編年が間違っているからでは」という指摘を受けました(^^;ゞ。その間違っているかも知れない編年は『福岡考古』に載ってます。ぜひ買って厳しいチェックを入れましょう。

細かい話の前に,洪さんの編年について,これらの資料がどのように使われているか,を中心に,その編年の具体的な問題点を指摘しておきましょう(すでに充分細かいような気もしますが(^^;ゞ)。

まず,扶余定林寺蓮池遺構の資料については,次のように触れられています。

これらの遺物間には時期差がある。

型式差は確かにありますが,時期差かどうかはよくわかりません。使用された時期の範囲がずれる遺物かも知れませんが,これで660年以降の何年間かのものと幅を持たせて分期してしまうのは,やりすぎです。洪さんは,その存在自体が検証されていない型式の単純期を想定しているので,蓮池遺構の新羅土器が長期にわたって埋没したことにし,その土器群(J式)の始まりを660年に置くのですが,むしろ,報告者が660年以降早期に埋没したと見做している所見を尊重すべきではないでしょうか。

慶州雁鴨池については次のように触れておられます。

雁鴨池から出土した土器類はJ・L・M・N式などがあり,それ以降の遺物は非常に少ない。この中で最も古い段階の遺物はJ式である。他型式の土器類の量に比べてJ式の遺物量は非常に少ない。これはJ式の土器類が670年後半になると消え,L式遺物が製作されたということを物語っている。したがってJ式の土器類の存続期間は660年〜680年代ということになる。

ここでも定林寺蓮池遺構についての話と同様です。わずかな土器群(J式)に単純期を与えることによって,ほかの型式が遅れることになります。なお,文中にはK式が出てきませんが,当日配布の追加資料ではK式に雁鴨池(変換ミスで「雁」の字が違ってますが)の出土土器が充てられているので,文中の「L式」は「K式」を意味する場合もあるようです。

逆に,この雁鴨池出土土器に対する解釈が,J式の始まりを660年に求めた扶余扶蘇山城や定林寺の所見の動機となっているようですし,また,雁鴨池以前の火葬墓の時期に対する所見にも影響を与えています(この辺は研究会資料で実際にお確かめください)。

そうすると,洪さんの編年には次のような特徴があると言えるでしょう。

  1. 一括遺物を1型式とみなした上で,所属する各器種について別型式との違いを見出し,その型式の指標と位置づける。必然的に,各器種の1型式は等価とみなされる(ここまでは前篇で触れました)。
  2. こうして決めた型式は単純期を持つ。
  3. それぞれの単純期には等価な時間(20年程度)が配当される。

そうすると,古い要素が残る一括資料があると,上の論理で順送りにされてしまうので,一括資料の時間幅が水増しされ,各型式がどんどん新しくなってしまうのです。しかし,上の3つの特徴は,いずれも未検証の前提のもとに成り立っていることに注意しましょう。

同じ方法で,「古い要素は混入とみなす」の1項を付け加えるだけで,あら不思議,各型式を古くする編年の出来上がりです(^^。

さて,こんな細かい話をするのは,私も定林寺・扶蘇山城・雁鴨池が実年代の手がかりになると考えているからです。

まず,型式学的編年から……。あれ,もうこんな長文になってしまいました。今日から出勤だし,夜更かしはできません。続きは次回としましょう。なんだか前回の補足だけで終わりそうです。別に話を引っ張ってるわけじゃないんですけどね(^^;ゞ。

せっかくなので,ひとつだけ6世紀の小ネタを。

洪さんは吉武塚原8号墳の蓋を,資料の図2の「日本側年代観」で6世紀後半に,「筆者の年代観」で660年から680年の間に置いています[p.105,118]。

ところが,これは吉武塚原の蓋を印花紋とみなすことに由来した年代観です。実際はコンパス紋です。コンパス紋では,普通,中心の下側に円弧を描くことが多いのに,吉武塚原では中心の上側に円弧を回しているし,先の丸い工具で浅く施紋しているので,スタンプ紋の下半分がかすれた状態(上から見ながら押すとそうなる)に一見似ています。しかし,コンパスを回す途中に中心軸がずれたとき円弧の方もずれたとみなされる例があるので,これはコンパス紋であることが明らかです。

さて,研究会初日の懇親会の時,この件をご本人に聞いてみました。やはり洪さんはこれをスタンプ紋だと思っていたのでした。コンパス紋と聞いて,では自然釉はどのようにかかっているか,口縁部の形態はどうかと細部を私に質問しました。

つまり,実物をご覧になっていなかったわけですね,福岡市博物館で頻繁に展示してるから,見かけたことはあるはずですが。

その上で,これは550年から562年の間の土器だということでした。つまり,この土器に関しては「日本側年代観」とあまり違わないわけです。私は532年から550年の間だと思うんですけど,この際小異は捨てましょう(^^;ゞ。

そうすると,前篇でも前回も少し触れたように,6世紀の並行関係はあまり修正がいらないと思うんですよ。

でも,2日目のご発表の時,心光寺2号墳の遺物などについては冒頭で軽微な訂正を入れられたのに,吉武塚原の干支2運分の遡上に言及されなかったのは,なぜかな?


続きは次回に,短めにお話しする予定です。それにしても,今回はむずかしい話だなぁ(^^;ゞ。


洪潽植の潽=[水普]
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白井克也 Copyright © SHIRAI Katsuya 2000. All rights reserved.