考古学のおやつ

横着ざかり−7世紀はどこだ・後篇

萬維網考古夜話 第51話 11/Jan/2000

どうしてこんな話を3回連続でしてるんでしょうね。疲れるばっかりなんですが(^^;。

7世紀の新羅土器と須恵器の並行関係を知ろうにも,このころの須恵器が朝鮮半島で出たという話は今のところ聞きませんし,新羅土器が日本で出た事例を追うしかありません。ところが,これがまた困ったものなんです。

  1. 数はあるにしてもろくな共伴事例じゃないというか,「これとこれが伴う」とはっきり言える例が少ないんです。群集墳の横穴式石室やら周溝から出土する場合,追葬も考慮に入れないといけないし,須恵器の型式差と時期差との関係をどう捉えるかが問題になって,しかもそこに本来の器種構成から遊離した1個体の新羅土器が出ている,という状況は,論理を厳密にすればするほど,証拠能力に乏しくなりますよね(前篇)。
  2. その上,1個体といってもやたらに小さい小破片だったり,変化に乏しい器種だったりした場合は,これまた位置づけが難しくなります。

そんなわけで,前篇中篇と他人の悪口に終始しておきながら,今回はできるだけお気楽な編年でこの問題に対処しようと思います(既発表の内容だけだしね)。


さて,7世紀ころの新羅土器編年といえば,やはり宮川禎一さんの印花紋の編年が重要です。ちょっとむずかしい話になるんですが,世界に数人しかいないと言われる宮川論文の理解者として,後の都合もあるので,少し説明しておきます。

実際には理解している人もかなりいるみたいですけど,そこから先の研究をしようなんて人はあまりいないみたいですね。面白いのに。
皮相的にしか理解していない人の場合は,よく話を聞いてみると,宮川編年の大別と細別の差を理解していなかったり,また,下でもお話しする「紋様帯の構成原理」が編年の中で重視されていることを見落としていたりしますね。

宮川さんの研究は,具体的には,スタンプ紋の分類と,施紋手法の分類,さらに紋様帯の構成原理とその消長による編年です。7世紀にかかる部分だけ抜き出すと,

ということになります。縦長連続紋というのは,単体スタンプ紋がいくつも連なったような形をあらかじめ作っておいて,それで一度にたくさんスタンプを押すという横着な代物で,最初(2式)は1回ずつ丁寧に押したものがその後できるだけ器面から離さないで連続して押すように,さらに横着になっていく(3・4式)という流れが認められます。

宮川さんは,大別された各型式の紋様が同一個体に共存しないことから,この流れは不可逆的(一定方向)に進み,型式間の移行は速やかだったと考え,また,原体や施紋手法の変化と器形の変化が対応しそうだと指摘しています。

ここに一つ落とし穴があります。器形と紋様が対応すると言うことは,1個体の土器が複数の器形を持ち得ない以上,ある「器形+紋様」の組み合わせと,別の「器形+紋様」の組み合わせが同時に並存する可能性を排除できないことになります。
実際,同一個体の共存例でなくても,碗とその蓋,あるいは火葬墓一括出土資料などで,本来のセットなのに紋様は隣接型式,ということは起こっています(これは宮川さんもご存じです)。
しかし,2型式隔てた共存例はないようですし,むしろ器形変化と施紋手法の変化が並行して進んでいくメカニズムを解明しうる事例と言えそうです。

私は,6世紀の新羅土器を調べていたときの絡みでこの時期の新羅土器の器形の変化を調べて,印花紋の変化とほぼ対応することを確認しました。ここから先,本来は自分の編年で話を進めるべきところですが,日本で出土した新羅土器には器形を明らかにできる例が少ないので,とりあえず「編年が確認された」ということで,印花紋編年によって話を進めようと思います。

それでは印花紋1式と2式の遺構は実年代のいつ頃で,どのくらいの期間がかかったのでしょうか。

宮川さんは,慶州雁鴨池の出土例はほとんどが2式以降で,1式が極めて少数であることから,2式の成立は雁鴨池の674年よりも以前,大まかに650年くらい,と暫定案を示されました(つまり,生産地では型式の移行が速やかであったとしても,消費地では前型式が残っていることを言われているわけです)。

私はこれに扶余での事例を加えて,もう少し時期を限定できると考えました。

まず,唐・新羅の連合軍が660年に入城し,しばらく駐屯したと考えられる扶蘇山城に印花紋2式が確実に見られることから,2式が定着した年代を雁鴨池よりもわずかながら遡ることができます。また,定林寺蓮池遺跡が660年以降の短い期間に埋まったと考える報告書の立場に従う(中篇)と,1式と2式が混在するあり方が660年ころの器種構成だといえます。

そうすると,印花紋2式は660年以前(おそらくあまり遡らない)に始まり,674年まででほぼ1式からの移行を果たしたと言えるでしょう。


さて,九州(といっても福岡県だけですが)での印花紋1式と2式の出土例を見ると,まず1式は宗像市・相原2号墳,大野城市・王城山C古墳群,福岡市・三郎丸B-3号墳,福岡市・金武古墳群吉武G-4号墳から出土しています。2式は福岡市・福岡城跡,福岡市・大橋E遺跡,太宰府市・大宰府史跡と条坊跡から出土しています。

ここで,「須恵器の小田編年によると……」と行きたいところですが,それでは既発表の文面と全く同じになってしまいます。敢えてそれはせずに,印花紋1式を出土する遺跡と共伴遺物,2式を出土する遺跡と共伴遺物を比べてみましょう。

  1. 印花紋1式は古墳から出るが,2式は古墳から出ない。
  2. 印花紋1式は受部を持つ須恵器杯を必ず伴う(ただし,追葬を考慮する必要はある)が,2式は伴わない。
  3. 印花紋2式にはつまみのある須恵器蓋と高台のある須恵器杯を伴うことがある。

あ〜。自分でも話しててじれったくてしょうがないですね(^^;。いやいや,ここは落ち着いて……。

で,この特徴からいって,印花紋1式(とそれを出土する遺構,伴う須恵器)と,2式(とそれを出土する遺構,伴う須恵器)は時期差だということはわかります(ホントは言うまでもないんですが)。これを同時期だとすると,かなり多くの仮定を重ねなければならないことになりますね。

このうち,まず,印花紋2式が出てくる遺構というのを考えると,大宰府は官衙として明かですし,福岡城の石垣から出たという印花紋2式も,鴻臚館の関連でしょう。大橋E遺跡は官衙ではないですが,ここは水城西門から鴻臚館まで延びると想定されている官道の近くです。実は,印花紋4式まで視野を広げると福岡市・井相田C遺跡でも出土例があるのですが,こちらは水城東門ルートに載っていたりします。……え?取って付けたようですか(^^;?それは,新羅土器が出るところに官道を想定してくれた人に言ってくださいね。

つまり,中央政府の公的施設に印花紋2式が存在するわけです。

これより時期的に遡る印花紋1式は,これらの遺構からは出ないで,古墳から出るのですが,つまり,これは中央政府ではなく,地元の人が入手した新羅土器と言うことになるでしょう。ところが,彼らは印花紋2式は持っていないわけです。

そうすると,印花紋2式の時期には中央政府の官衙がデンと構えていて,そこが新羅土器を独占したのか?という気がしてきます。改めて,印花紋1式を出した古墳の分布を見ると,大野城や水城による大宰府の防衛ラインよりも海側にあります。いえ,順番から言えば,それらの地域よりも大野城・水城を隔てて内陸側に大宰府が置かれてるんですね。

で,以前書いた文章では,ここで話が少し飛躍して,何かの強いインパクトで対外交渉権が中央政府に接収されたと考えたわけですが,まぁ,何かの大きい画期だということぐらいはご納得いただけるでしょう。

そうすると,やはり663年の白村江の戦いと,その前後のもろもろ……ということになるでしょう。ここでは中央政府がいきなり九州に来てしまうし,その後は大野城や水城やらが築造されるし。

で,これは上の方で慶州雁鴨池と扶余扶蘇山城・定林寺から想定した印花紋1式と2式の移行時期とうまく重なります。そして,それぞれに伴う須恵器も,そのあたりのどこかで移行するはずです。

しかし,新羅土器が搬入されない空白期が存在するかも知れません(例えば天智朝あたり)。新羅土器から言えることは,天智朝のどこかだな,ということまででしょう。

その間を埋めるかも知れないのが,日本で唯一出土している高句麗土器です。福岡市・博多遺跡群(はかたいせきぐん)で出土したそれについて,遺構からは「IV期の須恵器」と「VI期の須恵器」が出土しているのですが,この土坑は「IV期の須恵器」を出す竪穴住居跡を切っているので,一括遺物の引き算をして,「VI期」に位置づけたのが,雑誌論文の方でした。

しかし,元になった学会発表の方をお聞きになった方は気づかれたかも知れませんが,「IV期の須恵器」(受部を持つ杯)と「VI期の須恵器」(かえりのある蓋)は,高句麗土器の下から仲良く一緒に出土しているのです。

とりあえず,朝鮮半島との並行関係から言えそうなことは,このぐらいでしょうか。

結局長くなってしまいましたし,疲れたので,オチはなしです(^^;ゞ。それでは次回までm(_ _)m。


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